第25話「エリの遊び」
秋風の涼しい満月の夜であった。しかしその一角だけは秋の風流に似合わぬ汗臭さを有し
ている。ハロープロレスの道場だ。中では竹刀をもった石黒がハロプロの若手レスラーを
しごいていた。すでに社長の飯田はソニン等ベテランレスラーを連れて、飲み屋街に繰り
出している。石黒は自ら志願して残ったのだ。
「いいか!これからのハロプロを支えるのはお前達だぞ!」
「ウッス!」
リングの上で若手レスラー二人がガッチリ組み合い、リングの下では四人の若手がそれぞ
れトレーニングをこなしている。現役を退き裏方に徹する様になってから、彼女は毎晩こ
うして若手の指導に徹するようになった。この時期の基礎固めこそなにより大事なことを
彼女はよく知っていたからだ。普段の努力を怠って大成した者はいない。
ガラガラガラ……
ふと、横開きの入口扉が開かれる音がした。若手レスラー達は特にそれを意識することは
なかった。こんな時間に部外者が訪れることはまずない。飲みに言った先輩レスラーの誰
かが体を動かしたくなって戻ってきたのだろう。たまにあることだ。そんなときわざわざ
練習を中断しなくても良いことになっている。だから、顔を向けたのは石黒だけであった。
「誰だ?」
風の流れが変わる。
入口に立つのは、予想に反してハロープロレスの誰でもなかった。
紙を両手に持ってモジモジしてる黒髪の少女。愛や亜弥より年齢は下に見える。
汗と熱気に混じったプロレスの道場に全くと言ってよいほど似つかわしくない存在。
きれいな洋服を着て、お嬢様学校に通う、良い所の娘という感じ。
可愛らしい子だ、と石黒は思った。
女の自分が思うのだから同年代の男の子からはさぞやモテるであろう。
美少女という単語を実体化したらこんな風になるのかもしれない。
まぁ、どちらにしろプロレス道場に縁が薄いのは間違いない。
「亀井絵里です」
ニコッと笑って少女は答えた。そのまま無造作に道場へと足を踏み入れる。土足で。
誰かの妹か?それともただのファンか?
どちらにしろこんな時間にこんな所へ、まともな感覚の持ち主とは思えない。
「何か用か?」
「遊んでください♪」
いよいよまともではなくなってきた。
もしかすると何処かの精神病患者が抜け出して来たのかもしれない。
石黒が対応に困っていると、横でスクワットをしていた若手の一人が声をかけてきた。
「自分が追い出しましょうか?」
「そうだな。あまり手荒な真似はするなよ」
「ウス」
若手の一人がエリに近づく。
「お姉ちゃんが遊んでくれるの?」
「あんた家はどこ?それとも一緒に警察へ行く?」
くだらないことで練習が中断してしまった。あとはあいつに任せて再開だ。
そう思って石黒が振り返ったとき、後ろから甲高い悲鳴が聞こえた。
「バカヤロウ!手荒なまねはよせって……!?」
振り向いた石黒は信じられない光景を目にする。
腕の関節をひん曲げられて地べたにうずくまる若手レスラー。
その上に満面の笑みで立ち尽くす美少女。
想像と逆の光景であった。たちまち道場内の空気が一変する。
「エリはぁ石黒彩って人と遊びにきたんですぅ」
「石黒は私だ!お前何者だ!」
「さっき言ったよ。亀井絵里で〜す♪」
亀井絵里と名乗る少女はあんなことをした後で、ニコニコと微笑みながら近づいて来る。
それがなんとも言えず不気味であった。
「石黒さんは下がっていてください」
残る5人の若手レスラーが亀井を囲む。
「誤るなら今の内だぞ小娘」
「みんな一緒に遊んでくれるの?」
「チッ!やっちまえ!」
若手レスラー5人は同時に襲い掛かった。
いずれもがこれからのハロープロレスを担う才能溢れる人材だ。
しかし、信じられない光景が次々と石黒の目の前で繰り広げられる。
亀井と名乗る少女は強烈なタックルの波をクネクネっとかわしていく。
骨がないのか!と疑いたくなるような柔軟な動き。
そして一人のレスラーの腕を掴み取ると、ニコッとそれを折り曲げる。
(ここをこういう風に曲げたらどうなるんだろう?)
とでも言いかねない表情で、ためらいもなく腕を折る。
喉の奥からむせび上がるような悲鳴。若手レスラーが苦悶にのたうち回る。
(へ〜そうなるんだぁ。じゃあ、こっちはどうなるの?)
次のレスラーの足に絡みつく。ポキンとテンポよく折ってみせた。
別のレスラーの腕を掴んだ。ポキポキポキッと三回連続で折りたたんだ。
また別のレスラーのアキレス腱を握る。グルグルッと捻りまわした。
その度、耳をふさぎたくなるような絶叫が起こり、亀井絵里はアハハと笑った。
(遊ぶのはおもしろいね〜)
そこには殺気や悪意というものがまるで感じられない。
本当に楽しいから笑っている。そんな笑顔だ。
まるで赤子が、バナナやポッキーを折り曲げたらどうなるのか試している様。
そこに善悪の区別など存在しない。
赤子のように無邪気で、天使のように可憐で、ありえない程に残酷な。
エリの遊び。
(今までいろんな怪物をこの目で見てきた。だが、こいつは……)
信じられないほど強すぎる女ならいた。飯田圭織だ。
平気で人の腕を折れる怖い娘もいた。松浦亜弥だ。
だがどんな怪物でも、人を傷つけるときには強い闘気や殺気を放つ。
この亀井絵里という娘には、それがない。
「やっと石黒さんです」
ニコニコクネクネしながら近寄ってくる。
何かが違う。何かがおかしい。こんな格闘家はいない。こんな闘いはない。
トンと亀井が踏み込む。
石黒は咄嗟にお腹をかばった。そこにはまだ未ぬ新しい生命が…。
スルッ
亀井絵里は石黒の腰の位置にしがみついた。
石黒は亀井の脳天へ肘を落とした。その肘がヌルッと空を切る。
当たると思ったタイミングが、信じられない柔らかさでかわされる。
そのまま腰から背中へと軟体生物がくっついて移動する。
バックをとられた。
後ろからヌルッとした感触が首を掴む。
「とっちゃいましたぁ」
恐怖。
どんな相手を前にしても怖気づかないことが昔からの自慢だった。
もう二度と誇れない。石黒は心からの恐怖に悲鳴をあげた。
「とっとと歩け。豆」
「先輩が早すぎるんです」
夜道を歩く二つの影。ハロープロレスのソニンと新垣里沙だ。
石黒さんや若手には負けてられない。自分たちも深夜特訓に参加しよう。
そう意気込んで飲みの席を抜けてきた二人だった。
ソニンはハロープロレスのNo3であり、石黒引退により実質No2に昇格した所。
新垣は下っ端ヒール時代から積み上げてきた努力の甲斐がようやく実り、スターレスラー
への道を歩み始めた所。今のハロープロレスで一番燃えている二人でもある。
「私がスパーの相手してやるんだ。光栄に思えよ」
「はいはい」
この二人、かつては折が合わず因縁深い関係であったが、半年前のタッグマッチ以来、互
いの実力を認め合い、少しずつ関係修復していったのである。元々ふたりともプロレスを
愛しているなど共通点は多い。そんなソニンと新垣がハロープロレス道場の扉を開けて、
まず目に入ったのが腕や足を変な風に曲げられた若手レスラー達、それから一番奥で気絶
している副社長であった。酔いが一気に吹き飛んだ。
「な、な、な、なんじゃこりゃあ!!」
「豆!すぐに社長を呼んで来い!」
信じられないことが起こった。
プロレス道場が襲われる。犯人の姿はもう無い。
夜の街に救急車のサイレンが鳴り響く。それも一つや二つではない。
ハロープロレス道場周辺は今や騒然とした空気が流れていた。
「泥を塗られたものだ」
ハロープロレス所属レスラー数十人が集結している。
その中心に立つのはもちろんハロープロレス社長、飯田圭織。
飯田の顔に、冷たい能面の様な表情が浮かび上がっていた。
「若手の一人に聞いたところ、犯人はまだ幼い小娘で…」
「…」
「亀井絵里と名乗ったそうです」
「そぅか」
ソニンの言葉に、飯田は小さいが強く言い放つ。
血気盛んなハロプロのレスラー達は社長の言葉を待っていた。
若い後輩レスラーと尊敬する副社長をやられた怒りに、全員が煮えたぎっていたのだ。
「草の根分けても探し出せ。但し、手は出すなよ」
飯田の言葉は静かだが強い怒りがこもっていた。新垣は思う。
(犯人誰だか知らねえが、死んだな。ウチの社長を怒らせた…)
怒らせてはいけない人を怒らせてしまった。
「…俺が殺す」
ハロープロレスのこの事件は、翌朝のスポーツ紙一面をかざる。
田中と道重はその記事を見て目を丸くした。
「やられたばい!」
「あれ?私たちまだ襲ってないよね」
「さゆ。例のリスト用紙どした?」
「えっとぉ…落としちゃった」
田中は道重にガツンと頭突きを落とす。
脳天を抱えてうずくまる道重。
「バレたか…」
「誰に?」
「エリに決まっとー!」
「ああ、道理で派手に騒がれてる訳ね」
「これだけ騒がれたら、もう隠密活動も意味なかと」
「どうしよっか」
「しょうがなか。一旦師匠の所に戻るたい」
「ずっと内緒にしてたから、エリ怒ってないかなぁ…」
「怒る訳ないたい。エリにはそんな感情ないし」
「それもそっか」
亀井絵里は感情が欠けている。喜ぶことも、怒ることも、悲しむこともない。
常にマイペース。あるのは純粋な「楽」という感情のみ。
そんな亀井絵里の手にトーナメント選手リストが渡ってしまったのである。