第23話「終わりの始まり」
のどかな風景に似つかぬ罵声が飛ぶ。
「いないんです!」
「ハァ?いないってどういうことだよ!」
大会の翌朝。
ふもとの民宿に泊まっていたソニンは再び松浦亜弥の見舞いに訪れた。
すると中年の医師と受付の老婦が何やら騒いでいる。
そこで何事かと尋ねて、出た罵声であった。
「朝起きるともう、もぬけの殻だったんですよ」
ソニンは病室を見て、愕然とした。
昨日、確かに松浦が座っていたベッド、本当にいなくなっているのである。
そしてソニンは昨日最後に見た松浦亜弥の顔を思い出した。
石黒彩と高橋愛の試合を見つめる、松浦亜弥の表情。
「あいつ、一体どこへ?」
松浦亜弥が消える……
終わりの始まり……
救急病院から市井宛てに電話があったのはトーナメント翌日の早朝だった。
その昼に、市井のもとへ後藤真希からの電話があった。
市井は再会の挨拶もそこそこに切り上げ、後藤に病院への交通手段を告げた。
後藤真希がその病室に訪れたのは結局、その日の夕刻になった。
「どういう事?」
数年ぶりの再会、開口一番がそれだ。
集中治療室前のイスに座っていた市井が頭を振る。
現れた後藤真希は怒りを抑えきれないといった顔つきで震えていた。
「何でヨッスィーが手術してんのよ!!!」
「静かにしろ。病院だぞ」
「――っ」
「今、奥で吉澤の御家族が先生と面談している」
「死なないよね…」
「いつ息を引き取ってもおかしくないと…言われた。というか一度は死んだそうだ」
一度止まった心臓を物凄い指力で強引に動かした痕跡がある、と医師は語ったのだ。
後藤真希の表情が徐々に冷酷なものへと変化してゆく。
「……誰がやった?」
「わからん。昨日突然消息を絶ち、夜中に病院へ身元不明の女性から電話が入ったそうだ。
確かなことは誰かと戦っていたらしいということだって。…そういう傷だって」
「それは……ヨッスィーが誰かに負けたってこと?」
市井は歯をかみしめて頷いた。
信じたくはない。あの吉澤ひとみが何者かに殴り殺されたという事実。
「いちーちゃん。そいつ、ごとーが殺してもいいよね」
ポツリと後藤が呟いた。市井は驚いて彼女の顔を見る。
「どうやって探す気だ?アテはあるのか?救急隊員が言うには、駆けつけた現場には
死にかけの吉澤が残されて、電話の女が誰だったのかは全く分からないらしいぞ」
「ヨッスィーより強い奴なんて、日本に何人もいないよ」
「真希?」
「最強と云われる奴を順に倒してゆけば、いずれ辿り着くでしょ」
確かに吉澤をこんな風にできる実力者など、数える程もいない。
理屈は間違っていないが、それでも狂っているとしか思えない発想だった。
「やめろ真希!警察に任せておけ」
「無理だよ、いちーちゃん。だってごとーは約束したんだもん」
視線が凍っている。冷静ではあるが、後藤真希は狂っている。
「帰ったらヨッスィーと決着をつけるんだって、約束したんだもん。
だから、それを邪魔した人は、お仕置きしなきゃいけないでしょう?」
当たり前、といった顔で言い残し、後藤真希は病院を去った。
市井は亡くなった片腕に痛みを覚える。
この腕は、ブラジルで修行中、真希によって奪われたものである。
(あいつを狂わせたのは……私だ)
その昔、市井紗耶香は安倍なつみに破れた。
完膚なきまでの敗北。この先どれだけ修行しても届かないとまで思える敗北であった。
最強へのジブンの道を絶たれた市井は、まだ幼い天才にその夢を託す。
それが後藤真希。
13歳にして市井流柔術の免許皆伝を習得。
中学卒業後、市井は彼女をブラジルへと連れてゆく。あの国は怪物どもの集りだった。
だが市井は後藤を地上最強へと育て上げる夢を諦めることができなかった。
後藤にもまた、吉澤との約束があった。約4年間を二人は共に修行して生活した。
そして市井は成長した後藤に過酷な試練を与えたのである。
ブラジリアン柔術の怪物たちとも共に後藤を襲ったのだ。
極限にまで追い込まれた後藤は覚醒する。
市井の想像を遥かに超えた存在へと。
その場の全員を再起不能にまで叩きのめし、師である市井の腕ももぎ取ったのだ。
(あそこで真希は……人を超えた)
それから二人は形上の和解をしたが、市井は腕の治療の為に帰国。
やがて後藤真希はブラジルで最強の座を手にする。
(吉澤なら……真希を戻せるかもと思ったのだが…こんなことになるなんて)
(あいつの狂気を刺激するだけだった)
(もう誰にも真希を止めることはできない……)
小さな居酒屋であった。
テーブルが二つと、あとはカウンターに八つほどイスが並んでいる。
洒落た店構えで客層は学生や若いサラリーマンが中心の店らしい。
女性でも入りやすい雰囲気のある居酒屋だ。
そんな店に、明らかに異質な空気を纏った女が暖簾をくぐる。
飲んでいた客が思わず見とれる程の美女が、たった一人でカウンターの一番奥に座した。
思わず声をかけたくなる程の美しさであったが、そんな勇気の持ち主はいなかった。
美しさ以上に得たいの知れない怖さが、全身から滲み出ていたからだ。
女はあっという間に生ビールの中ジョッキを飲み干し、また同じものを頼む。
それが三回ほど続いたあと、新しく入店した一人の客が隣のイスに腰掛けた。
他にも席は空いているのにわざわざこの女の横に座ったのである。
女はチラリと横目で隣に座した客を見た。
20代後半か30台か?見たことのない女性であった。
蛇のような鋭い目つきをした女だ、こんな奴は一度見たら忘れない。
「大明神の水割り。グラスは2つね」
蛇の目の女が注文すると居酒屋の主人が小粋に返答する。
不気味な銘柄の日本酒が、グラスになみなみと注がれてカウンターに置かれた。
蛇の目の女はその一つを隣の美女に送る。
「どうぞ、藤本さん」
まったく見覚えのない女性からであったが、藤本は無言でこれを受け取る。
国民的ヒロインの矢口ほどではないが、自分もある程度の知名度があることは知っている。
自分を知っている格闘技好きの女性かもしれない。
相手が男ならば断ったが、同姓ということで藤本も気を許した。
「一昨日の大会、観戦しました」
最初の一口をグイッと飲み、蛇の眼の女が言った。
やっぱりと藤本は思い、頂いた日本酒に口をつける。まだ一言も発していない。
見事な敗北を喫した大会である。
負ける気はなかったし、負けるとも思っていなかった。
小さい頃から何でも一番だった藤本が生まれて初めて味わった敗北。
どうしていいのかも分からないし、誰にも合わせる顔がない。
特に安倍なつみや辻希美といった夏美会館の連中には、会いたくなかった。
だからこうして、一人で夜の居酒屋に繰り出しているのである。
とにかく飲みたい気分だった。
「ケガはもういいんですか?」
二杯目を注文した後、蛇の目の女はそう問いかけてきた。
ここでようやく藤本も口を開く。
「酒ぇ飲むのにケガは関係ねえだろ」
「ごもっとも」
「もう一杯、いいか?」
「どうぞ。お好きなだけ」
しばらく二人は無言で飲み続けた。
ときおり串焼きやホッケの開きに箸を伸ばす以外は、だいたいグラスは握っていた。
二人合わせて十杯ほど飲んだところで、また蛇の目の女が口を開く。
「強いんですね」
「負けた奴に言うか」
「お酒」
「ああ、そっちならまだ無敗だ」
これだけ飲んでいるのに、藤本はまだ平然としている。
それは蛇の目の女も同じだった。
「じゃあ今日、負かしちゃおうかな」
「やめとけ、金がいくらあっても足りねえぞ」
藤本はまた飲み干すと、グラスの氷をカランと鳴らした。
蛇の目の女はニィ〜と笑うと、自分の酒も喉に流し込んだ。
空のグラスが下がり、また新しいグラスが二つカウンターに並ぶ。
そこで唐突に蛇の目の女が言い放った。
「もう一回やったら、矢口真里に勝てると思う?」
素人が負けた選手に面と向かって聞く質問とは思えなかった。
酔った勢いで言わせているのだろう。藤本は笑ってあいまいに流す。
「さぁな」
「勝てないね」
「?」
「何度やってもあんたじゃ矢口には勝てないよ、藤本」
いつの間にか敬語じゃなくなっている。
どう見ても年上だからそれは別にいいが、内容がよくない。
「どうして、そう思う?」
「向き合うあんた達を見て思ったのさ。矢口真里の方が怖い。勝利への執念がある」
「私は怖くないとでも?」
「ええ。あなたには欠けているものがある。それに気付かない内は絶対に勝てない。
まぁこのまま安倍なつみの下にいるんじゃ、永久に気付かないでしょうけど」
パリンと藤本の握り締めたグラスが割れた。
平凡な居酒屋にたちまち険悪な空気が立ち込める。
店の主人が割れたカウンター越しに顔を出す。
「お客さん、大丈夫ですか?」
「悪い」
割れたグラスを片付け、侘びを入れて居酒屋を出る。蛇の目の女も一緒だ。
繁華街を二人は並んで歩き、人気のない裏路地まで行くと向き合って止まった。
「てめぇ、何者だ?」
この口ぶり、素人ではないと藤本は悟る。蛇の目の女は強烈な笑みを浮かべた。
「保田圭」
「聞いたことがあるなぁ」
「フフ…」
「思い出した。えらい強い八極拳の使い手が昔いたと…」
「あら、知ってるの」
「安倍なつみにボコボコに負けたっていう」
ギンッ!と保田圭の蛇の目がさらに釣りあがった。
どうやら言ってはいけないポイントを突いた様である。
保田はなんとか自我を保つように深呼吸を繰り返し、また元の目つきの戻った。
「……私の話はいいの」
「よくねえよ。未だに復讐でも考えているんじゃねぇだろうな」
「もちろん。片時も忘れたことはないわ」
「お前じゃ無理だよ、安倍なつみは」
「それはどうかしら。だけどね、この手で倒すだけが復讐じゃないわ」
「何?」
「この手で育て上げた私の代わりが安倍なつみを倒す!それも復讐よ」
保田の両目が血走っていた。
恐ろしいまでの執念を、藤本は感じる。
「藤本美貴。あなたはいいの?このまま安倍なつみの飼い犬で」
「誰が犬だって!」
「番犬でしょ。安倍なつみの!ご主人様には逆らえない!ワンワンワン……」
「てめぇ殺すぞ」
「やめておきなさい。私はあなたを壊したくないの」
「ああ!?」
「さっき怖くないと言ったわ。でもそれは飼い犬の藤本美貴のことよ。
私はあなたの才能を誰よりも買っている。あなたは最強になれる器をもっているわ」
「てめぇに言われるまでもねぇ」
「でもその才を開花するには優秀な師が必要。安倍なつみは確かに凄い武術家だけれど
指導者向きではない。安倍なつみ流は彼女以外に真似できないもの」
「てめぇがその優秀な指導者だって言うのか?」
「そうよ」
保田圭はまだ蛇のような目で藤本を見つめていた。
藤本は黙ってその目を睨み返す。
「もうすぐ私の弟子が動き出す。それで判断すればいいわ。ンフッ」
「……」
「また会いましょう、藤本美貴さん」
そう言い残して、保田圭は闇へと消えていった。