第22話「携帯に出ない女」
準決勝第一試合の勝者は辻希美。
準決勝第二試合の勝者は矢口真里。
決勝戦の組み合わせはこの様になった。しかしその実現は微妙だ。
「常識的に言いましょう。このまま入院でもおかしくない体です」
医務室に講道館の一同がそろって、矢口の状態を伺いに来た。
担当医師の口から出た言葉がこれだ。試合などもってのほかだと。
「おいらは出るよ」
ところが当の矢口は頑なにそう言い続ける。
講道館の上層部たちがそんな彼女に説得を試みる。
「いいか矢口。よく聞いてくれ。ここで棄権しても誰も文句を言いはしない」
「そうだ。準決勝での死闘を眼にしている。ケガしていることはみんな承知だ」
「あの藤本美貴に勝った。それで十分だろ。柔道の、講道館の強さは世間に伝わった」
「それに、その体で決勝に出ても結果は見えとる。どうしてもわざわざ負けにいく?」
「ウム、決勝で空手に負けたら、せっかくの勝利が台無しだ」
決勝戦の出場に何のメリットもないと、講道館の上層部は叫んでいるのだ。
夏美会館の王者に勝ったという詠い文句の力は、それこそ計り知れないものがある。
ここで棄権すれば名誉の負傷とのイメージのまま無敗で終わると、そう説得しているのだ。
「確かに、棄権した方が得か」
矢口が言う。そしてベッドの上から体を起こした。
「だけどおいらは矢口真里だ。損得で動く女じゃあねぇんだなこれが」
「バカな…」
「おう、悪いけどバカなんだ。ほら、そこどけよ」
包帯グルグル巻きの体で、足をひきずりながら矢口は医務室を出て行く。誰にも反対させ
ないだけのオーラがそこにあり、講道館上層部の者たちも、もう追いかけることもできず
にいた。
「重症みたいね」
試合場へと独り歩む矢口に、一人の女が声をかける。
「安倍なつみぃ……。安心しな、こんなもんたいしたことねえよ」
「違うわよ。ここのこと」
そう言って、安倍は自分の頭部を指で指す。
「ああ、そっちは重症かもな。誰かさんのおかげでよ」
「矢口真里がバカでよかったよ。棄権されたらどうしようかと困っていたべさ」
「そうは見えねえけどな」
「エヘヘ」
スッと安倍なつみと矢口真里の間に、冷たい空気が流れる。
「矢口さん。もしかして、柔道が空手に勝ったって思っている?」
「思ってねえよ」
「そうね。あなたが勝利したのは藤本美貴個人。空手ではないわ」
「一応聞いておくけど。藤本より強い空手家はいるんだな」
「ええ。最低でも一人は確実にいるわよ。今あなたの目の前に、ね」
安倍なつみが涼しい笑みを浮かべる。
「そいつに勝ったら、空手に勝ったと言っていいのか」
「いいわよ。ついでに地上最強を語ってもいいわ」
「そりゃあ助かる。一石二鳥だ」
試合場へと向かおうとして、矢口はまた足を止めた。
「優勝者には安倍なつみと闘れる権利が与えられるんだったよな」
「ええ」
「おいらと辻希美。どっちに勝ってほしい?」
「あのねぇ……なっちは夏美会館の館長よ、答えは決まっているべさ」
「夏美会館の館長としてでなく、安倍なつみ個人の意見が聞きたい」
「個人的には……矢口真里」
「どうして?」
「ののは可愛くて大好きだから殴りたくないの。美貴が優勝すると思っていたし」
「確かに……個人的だ」
決勝戦
辻希美(夏美会館空手)18歳
対
矢口真里(講道館柔道)23歳
幾多の激闘を乗せたリングの上に、二人の娘が向かい合っている。
今日このリングで闘った者の中で唯一無敗の二人。つまり決勝戦。
これから確実に、どちらか一人に土がつくことになる。
試合を重ねるごとに上がってゆく観客のボルテージは今や臨界点へと達していた。
辻希美は右手をテーピングでグルグル巻きにしていた。
矢口真里に至っては、柔道着の下はほぼ全身が治療中である。
ここにこうして立っていること自体が奇跡とも言える。
『矢口選手が心配ですねぇ。不屈の精神は素晴らしいのですが、ケガの状態をみますと…』
実況の連中は身勝手なことを言いやがる。
(バカヤロウ…勝利の算段があるから、立ってるんだよ)
(辻は右の正拳を使えない。奇跡がなけりゃあただのパワーバカだ)
(一気に懐に入ってヤグ嵐を決める!あいつも限界は近い、その一発で間違いなく終わる)
矢口は柔道の構えをとる。
辻は空手の構えをとる。
勝った方が、一気に安倍なつみの位地にまで到達する。
決勝戦。
日本中のおよそ格闘技に関係する者たちが、会場で、自宅で、出先で、見届ける。
どちらが勝っても日本格闘技界の構図は大きく動くことになる。
時代の先駆者となる。
その運命のゴングが―――――――――今鳴った。
前に立って、初めてわかった。辻希美の発する圧力というものがどれほどかと。
まっすぐ向かってくる。
対抗するにはあまりにも矢口の体はガタがきていた。
(1回。たった1回だけでいい。おいらの体よ、もってくれ)
矢口も前に出た。
辻が左突きを打つ。
その辻の速度を矢口の速度が上回った。
左突きを寸前でかわして、ふところに飛び込む。
あのケガで、まさに神業と言ってよいだろう。
襟、右手、左足の三箇所をコンマ何秒の単位でもぎとる。
出るか!伝家の宝刀!
「ヤグあら……!!」
ズンッ!!
重み。巨大な岩石の塊のような重みを感じる。
これまで矢口は自分の三倍も体重がある選手を投げたことだってある。
『柔をよく剛を制する』
それこそが柔の精神、小さくても力自慢に負けないこと。
そんな精神を完全否定する規格外のパワー。パワーでヤグ嵐を受け付けない。
(こいつは――――!)
矢口は驚愕する。たった1回が、終わった。
辻希美の左の拳が、がら空きの背中に落ちる。
ドンッッッ!!!!!!!!!!
オリンピック48kg以下級、無差別級、金メダル。
世界女子柔道選手権、全階級制覇。
公式試合108試合無敗。オール一本勝ち。
かの小川五郎をして、自分より強いと言わしめた娘。
若干145cm。「柔を良く剛を制す」の体言。
国民栄誉賞を獲る娘。
夏美会館空手全国王者の藤本美貴を倒した娘。
「いいぜ。おいら格闘技ではまだ白帯のひよっこみてえなもんだ。
一番下から昇っていってやるさ。安倍なつみ、お前の喉元に噛みつける場所まで!」
安倍なつみの寸前にまで手をかけた娘。
―――――――――――――――矢口真里が、たったの一撃で、散る。
その拳を矢口の体に当てた瞬間、辻希美はまだわかっていなかった。
矢口が地面に落ちて動かなくなっても、辻希美はまだわかっていなかった。
レフェリーが10カウントを数える。
その間、なんだかボーッとして何も考えられなかった。
「ナイン!」
ドキッとした。
ずっとずっと夢を追いかけていた。
共に死地から生き延びた相棒、あいぼんの夢を叶えることが希美の夢。
今の夢は、いなくなったあいぼんの最強を証明する為に、自らが最強になること。
果てしなく遠い遠い夢だと思っていた。
それがあとひと声で……
「テン!!!!」
『優勝は辻希美だああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!』
「わあああああああああああああああああああああああああああああああ」
360度が悲鳴のような歓声をあげている。全部、自分に向けている声だ。
スポットライトとたくさんのフラッシュの中でキラキラと輝いている。
みんなが辻希美の強さに熱狂しているのである。
希美の眼も輝いていた。
優勝。
その二文字がまるで世界を包み込んでいるような心地がした。
この声が聞こえていますか?
あいぼん……
これだけの人が、みんなが私を認めてくれているんだよ……
一番強くなれるよね。
ののより強いあいぼんが一番強く、なるんだよ。
ねぇ、あいぼん。
この声、届いてる?
もし届いたのなら、帰ってきてよ。
ののの所に、帰ってきてよ
あの日見た夢をもう一度……いっしょに叶えよう
ねぇ、あいぼん……。
最強のなっちに並ぶ称号を手に出来るこのトーナメント。
優勝した希美が最初に思い描いたのは、何処かに消えた親友のことであった。
会場はそのまま閉会式にと流れる。
選手のほとんどが重症で参加できないことも、この大会の熾烈さを物語っていた。
高橋、藤本、矢口、田中、以上の選手が閉会式にはいない。
「優勝!辻希美!」
トーナメント主催者である安倍なつみの手から優勝杯が渡される。
お馴染みの顔から頂くそれにテヘテヘしながら、希美は優勝杯を受け取る。
盛大な拍手が贈られる。それから優勝賞金と副賞の授与である。
「副賞は、なっちと闘う権利だよ。なっちはいつでもいい」
「うん」
「なんなら、今これからでも……」
「ううん。当分いいよ。のの、なちみが好きだから」
たまらなく愛くるしい笑みで希美は言った。
なっちは思わず抱きしめたくなるのを我慢するのに大変だった。
こうして、激闘のトーナメントは幕を閉じる。
それはひとつの時代の終わりでもあり、新しい激闘の幕開けでもあった。
決勝戦 勝者 辻希美 15秒 KO
優勝 辻希美(夏美会館空手)