「残念だったな、神話なくなってよ」
藤本が怖い笑みを浮かべて、言った。
それを聞いた矢口は無言で口まわりの血を拭い、また構えた。
もう膠着はなかった。そんな余裕がなくなったからだ、互いに。
再開の合図ともにすぐ動き出す。
藤本は左のミドルキックを放った。するとフッと矢口の体が消え、ミドルが宙を切る。
同時に、軸足がガクンと崩された。
まさかと藤本は思う。倒されて寝技の攻防に持ち込まれる。
(あの矢口真里が寝技!しかも自分から倒れて!)
観客たちが目をむいた。「倒れない女」の寝技なんて見たことがない。
小さな体を器用に使って、関節を取りにくる。
「おいらが今さら、こだわっていると思ったか」
耳元で矢口がささやいた。
「勝つ為なら、こっちから捨ててやるよ。そんなもん」
地上最強を目指す今の矢口にとって、「倒れない女」なんて呼称はもう何の魅力も感じない。
勝つ為なら、自分から地に伏してでも構わない。
なによりもただ勝利を優先する。
空手家相手なら寝技が有利だと思えば、迷わずそれで攻める。
ただ、勝利の為に……
「そいつぁご立派な、心がけだ」
グルンと藤本の体が裏返った。流れるような動きであった。
寝技を知らぬ空手家の動きではない。これは……。
「サンボか」
安倍なつみが言った。
藤本美貴は生粋の空手家ではない。
ある日突然、夏美会館の道場に入門しそのまま今に至るだけだ。
彼女は安倍の元へ来るまで何をしていたかを語らない。
謎に包まれた藤本美貴の過去の一端が、ようやく少し明らかになったようだ。
驚いたのは矢口である。
まさか空手家がこれほどの技術を要しているとは考えていなかった。
その油断をついた藤本の両足が矢口の左腕を挟み込む。
逆十字固め。
肘の関節を絞めるサンボの技である。
そのままためらいもなく藤本は力を込めた。
グイッ
鈍い音と共に、矢口の左腕神経が強烈な痛みを発する。
左腕が間接の向きと反対側に折り曲っていた。
客席からかわいい悲鳴があがった。
氷の微笑を浮かべたまま、藤本美貴はスッと立ち上がった。
「決まったな」
「はい」
「しかし底が見えねえぜ。この藤本美貴って奴は」
客席で観戦していたメロンの斉藤と村田の会話である。
今更ながら、摩天楼で最強を語っていたことがいかに井の中の蛙であったか思い知る。
「こういう奴のことをさして使うんだな。天才って言葉は」
空手をさせても、サンボをさせても、何をさせても一番をとってしまう。
そういう女が存在してしまうのである。
(どんな格闘技をかじっても簡単に頂点に立てた……)
(だけど空手は違った。空手には安倍なつみという女がいた)
(生まれて始めて、ワクワクさせてもらった)
(だがもうそろそろいいだろぅ。空手は十分に身についた)
(このトーナメントで安倍なつみを倒し、空手とはおさらばだ)
(次は何をしようか…)
藤本美貴は微笑を浮かべたまま、安倍なつみを見た。
その安倍なつみの顔が歪んでいた。藤本の後ろに視線を浮かべたまま。
バッと藤本は振り返る。
「ほら、続けようぜぇ」
矢口真里が、立ち上がっていた。
左腕はまだ反対方向に曲がっているのに。
驚きはしなかった。バカだなと思った。
腕の曲がった激痛に耐えながら、立ち上がった根性だけは認めよう。
だがこれは根性で勝敗の変わるレベルの試合ではない。
藤本美貴という女はそういうことに一切の動揺も同情も認めない。
試合再開の合図とともに、藤本はすぐその左腕を狙った。
明らかに矢口の動きは鈍っていた。
ミドルキックがまともに折れ曲がった左腕に入った。
見るからに痛そうな顔を、矢口はした。しかし倒れなかった。
残されたもう一本の手で必死に藤本の襟を狙ってくる。
お見通しだ。逆転のヤグ嵐を考えているのであろう。
確かにあのヤグ嵐をもう一度受けたら、いくら藤本でも立ち上がることはできまい。
だが、それは不可能だ。
右手と左手と右足で、ガッチリ相手を掴むからこそのヤグ嵐である。
この左手の使えなくなった状況でどれだけ根性を見せても使用不可能。
だが藤本に「やめておけ」という気持ちはなかった。
一人の戦士として、最後まで己の全てをかけて戦い抜きたい気持ちは分かる。
「そういうバカは嫌いじゃない」
藤本はニィと笑みを浮かべ、全力のローキックを矢口の足に叩き付けた。
ガクッと矢口は崩れかけたが、持ちこたえまた前に出てきた。
今度は逆の足に全力のローキックを放った。
ガードする余裕もないらしい。これも矢口の足を強烈に打った。
膝をつきかけてグッと矢口はこらえた。
顔を上げたところへ、肘をその顔に思いっきり叩き込んだ。
それでも矢口は倒れず、藤本の襟目掛けて右腕を伸ばしてくる。
思わず藤本は後ろに下がって避ける。
そこで彼女はちょっと驚いた。あれだけボロボロの体で、まだ自分を後ろに下げる矢口に。
(こいつはぁまいったな)
もう立つこともできないくらい重症のはずの矢口を、藤本は尊敬の眼差しで見た。
彼女が他人にそういう感情を抱くのは、安倍なつみを除けば初めてのこと。
(たいした女だ。矢口真里)
倒れない女の本性を垣間見た。これだけの相手には、全力で応じなければならない。
スッ……
この試合、初めて、藤本美貴が空手の構えをとった。
右の拳が正拳をつくり、腰の横にそえられている。
口から血を流したまま矢口もニィと笑みを浮かべた。そして突っ込んだ。
ッドン!!!
サンドバックに穴を開けるほどの藤本美貴の正拳突き。
なっちも認める完璧な正拳突きだ。
そいつが矢口真里の胸の真ん中を叩き、矢口真里の動きが止まった。
静かに、藤本が拳を引く。
前のめりに矢口の体が倒れ始めた。
その場の全員がこの激闘の終幕を感じた……そのとき、
唯一残った一本の腕―――その矢口の右腕の手が迫り来る地面を、止めた。
その右手を軸に、二本のヤグ足が上へと飛ぶ。
前転の要領である。
まるで手のように二本のヤグ足が藤本の襟と右腕を掴み取った。
(―――まさか)
藤本は思った。
(―――できるはずは!)
何かが!藤本の足首を挟み込んだ。
(右手は軸に、両足は上に、もう矢口には何も残されて―――)
見た。
間接の曲がった左腕が、ガッチリ藤本の足首を挟んでいる映像!
あの恐怖が蘇る。
片手逆立ちの体勢のまま矢口真里がブンと飛んだ。
藤本美貴の体ごと!
ヤグ嵐!!
一瞬で、天と地が入れ替わるあの衝撃。
最初の一発目に破壊されかけていた藤本の全身に、仰天の二発目が届く。
必殺!
まさにそう呼ぶべき脅威の技が、武道館を揺るがせた。
ズドォォォォォォォォォォォォォォォォォン!!!!!!!
会場の全員が立ち上がった。
あの安倍なつみすらその重い腰を上げ、リング上を活目した。
二人の女が横になっていた。
またしても両者ノックダウン。レフェリーがカウントを始める。
矢口がゴホッと口から血を吐く。仰向けだった為それらがベチャっと顔にかかる。
藤本は動かない。カウントが「スリー」まで進む。
矢口の右腕がブルブルと動き出す。
藤本はまだ動かない。レフェリーが「フォー」と叫ぶ。
ガバッと矢口が上半身を起こした。
藤本は動かない。カウントは「ファイブ」
右足、そして左足、徐々に力を込める矢口。
微動だにしない藤本。「シックス」と避けぶレフェリー。
気合を込め、一気に矢口が起き上がる。
藤本はまだ動かない。どうやら意識がないようだ。
レフェリーはカウントを止め、立ち上がった戦士の腕を大きく天に上げる。
それを受けた実況のアナウンスが激闘の終わりを叫ぶ。
『勝者!!矢口真里ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!!!!』
瞬間、絶叫のような大歓声が武道館を支配した。
講道館の連中はもちろん、およそ観戦していたほとんどの人間が声を張り上げる。
夏美会館の関係者は信じられないといった表情を浮かべていた。物凄い決着であった。
たった145cmしかない小さな英雄が、ようやく心からの笑みを浮かべる。
唯一動く右腕でガッツポーズを作ると、そのままバタンと倒れ動かなくなった。
準決勝第二試合 勝者 矢口真里 18分20秒 KO
柱の奥でこの試合を観戦していた三つの人影。
「どう?なかなかやるもんでしょう」
手を叩きこの試合を動かした大きな人影が、残り二つの人影にそう言った。
二つの人影は無言であった。
「そんな刺す様な目で見るな。今の格闘技界トップクラスの実力ってのを、
キミたちに教えておきたかっただけ。特に、れいな、あなたにね」
謎の人影の一つ―――田中れいなは不機嫌そうに睨んでいた。
トーナメント1回戦で矢口真里に7秒で破れたあの田中れいなである。
「確かにわかったばい。80%やあ勝てなか」
それを聞いてもう一つの人影―――道重さゆみが口を開く。
「えっ?れいな80%だったの?なぁんだ、本気で負けたのかと思った」
「本気やったと。少なくとも80%内で本気やった。それであの様たい」
「でも100%だったら負けてないよね」
「決まっとー。うちが本当に本気やったら誰にも負ける訳なか」
そんな田中と道重の会話を聞いて大きな人影―――保田圭が相槌を打つ。