第21話「藤本美貴vs矢口真里」
試合の余韻は、辻と高橋が退場した後も色濃く残っていた。
歓声と感嘆と拍手の音が、少しも収まる気配はない。
安倍なつみも大振りの拍手を贈っていた。
だがこれで息つく暇もなく、第二試合開始の時間はもうすぐに迫っている。
藤本美貴は安倍なつみの横で今の試合を観戦していた。
「いやぁ。のの、高橋愛、ほんとに気持ちいい試合をする奴らだべさ」
「全くうらやましいぜ。私もああいう、全力をぶつけられる闘いをしたかったんだよ」
「できるじゃん。これからすぐに。相手もいる」
「ああ。矢口真里。不足はねえ」
藤本の顔に狂暴な笑みが張り付いていた。
辻希美の闘いに触発されたのだ。狂気をゆっくり体内に潜め、試合開始の時間を待つ。
「負けられないね美貴。プレッシャー、感じる?」
「私がそんなもん感じると思うか?」
「いや。思わないから、聞いたのさ」
ひょうひょうとした笑みで答えるなっち。笑みで返す藤本。
やがてセコンドの里田が「時間だ」とやってきた。
黒帯を軽く締め直し、スッと藤本は立ち上がった。
どこか底の知れない表情の上、全身から突き刺さる様な闘気が溢れ出ている。
ようやく藤本美貴の本気が見れそうだ。
「辻希美が勝ったぞ」
男子柔道の猛者を相手にウォーミングアップを行っていた矢口の足が止まった。
小川五郎の吐いた台詞に、珍しく反応したのである。
「高橋を破ったのか」
「そうじゃ」
精悍な顔をしていた。普段のにぎやか担当矢口真里ではない。
柔道着をバッとひるがえし体にまとわりついた汗を払う。
「好都合じゃん」
「ウム。準決勝で藤本、決勝で辻、最後に安倍なつみ。全部投げてやれ」
矢口は無言で頷く。言うまでもない、元々そのつもりだ。
一番下から、てっぺんの安倍なつみの所にまで駆け上がる。
安倍なつみの喉元に噛み付くまでは、矢口真里は死んでも止まらない。
「そろそろ時間じゃの。おい、麻琴はどこじゃ?」
セコンドにつくはずの孫の姿が見えず、小川五郎は怒鳴った。
すると矢口真里はキッパリ言い放った。
「セコンドは必要ない。これはおいらの喧嘩だ」
準決勝第二試合
藤本美貴(夏美会館空手)21歳
対
矢口真里(講道館柔道)23歳
邂逅の時。
この二人の出現により、余韻の残る会場がビリビリした雰囲気に一変した。
あからさまに矢口を睨みつける藤本。
真正面からその眼光を睨み返す矢口。
リング上に、この気の強い二人を並べることはあまりに危険すぎた。
「さっきとは違う意味で、おもしろくなりそうだべ」
安倍なつみがニコニコ見守る。
リングの下には、石黒や新垣といったハロープロレス軍団の姿も見えた。
メロンの柴田やボクシングのミカも観覧席にいた。
紺野あさ美と小川麻琴は愛に付き添って医務室にいる為、会場に姿はない。
辻希美は自分の控え室で体を休めながら、小型モニターでゆく末を見守っていた。
この試合の勝者が決勝戦で辻希美と激突するのである。
そして目立たぬ柱の影に謎の人影が三つ、リングを見下ろしていた。
「よぅく見ておきなさい。これが今の格闘技界トップクラスの試合よ」
一番大きな影が、残り二つの影にそう告げた。
その影がうっすら笑みを浮かべているようにも見えた。
セコンドは藤本側に里田、矢口側には誰もいなかった。
藤本も矢口も一回戦を7秒で勝利している為、コンディションは万全である。
むしろ暴れたりなくてウズウズしているくらいだ。
強すぎる二人。
試合開始のゴングが鳴った。
気の強い二人である。
どれほど激しい戦いになるであろうと、観衆はみな息を呑んだ。
ところが、ゴングが鳴ってリング上に出現したのは、驚くほどの静寂であった。
両者一歩も動かない。
矢口真里は柔道の構えをとって、ジッと藤本を見ている。
藤本美貴に至っては構えすらとらず、手をブランと下げて立っているだけ。
睨み合ったまま、膠着が続いた。
10秒…
20秒…
30秒…
少しも動こうとしないまま、時間だけが流れてゆく。
「バカヤロー!つまんねえぞ!!」
野次が飛んだ。
それを皮切りに次々とブーイングが飛ばされた。
一人が言えば、周りもそれに同調する。
気がつけば、観客の大半が騒ぎ始めていた。
「バカはどっちだ……」
リング下で石黒彩が呟いた。その顔にいっぱいの汗が浮かび上がっている。
それは新垣や柴田や里田も同じであった。
分かる者には分かるのである。
ここで行われている闘いが……どれほど恐ろしいことかが。
二人は動かないのではない、動けないのだ。
先に動いた方がやられる。
藤本美貴。矢口真里。ともに一瞬で相手を葬る技を有している。
先に動くということは先に隙を見せるということ。
まして、このレベルの闘いではその一瞬の隙が命取りになる。
それを立ち会ってすぐに二人は悟ったのだ。
だから動けない。
「私だったら……10秒も持ちませんよ。この緊張感」
新垣が隣の石黒に呟いた。
その視線は捕らわれたかの如くリング上を見つめ続けている。
震えていた。リングの下にしてこれだけ震えているのだ。
もしリングの上で、あんな風に睨まれていたらと思うと、気が遠くなる。
「まばたきはするな。終わっているぞ」
石黒が新垣に言った。その瞳は完全にリング上を見入っていた。
彼女が言った内容、まばたきの間に勝負がついているかもしれないということ。
この二人を見ていると、それがあながち間違いでもないと思えてくるから恐ろしい。
矢口真里は汗をかいていた。
藤本美貴の額にも汗が浮かび上がってきた。
まだ、どちらも動かない。
ビリビリ、ビリビリした空気がリングを駆ける。
その緊張感が少しずつ、少しずつ会場全体へと広まってゆく。
リングに近い所の観客がまずブーイングの声を止めた。
その異様な試合が伝わってきたのだ。
分かりはしないが、何か物凄いことになっているという感覚だけが伝わった。
その後ろの席の者もフッとその感覚に包まれ、野次を止める。
またその後ろの者も……
そんな風に輪は少しずつ、だが確実に会場全体へと膨張してゆく。
いつしかブーイングは聞こえなくなり、二人の間に流れる緊張感が空間を包み込んでいた。
5分経過。
まだ藤本美貴と矢口真里は最初の構えのまま、にらみ合っている。
「化け物め。なんて精神力だ、こいつら」
石黒がググッと歯を噛み締めた。
それは真剣の刃を目の前において、その動きを待ち続けるという行為に等しい。
藤本美貴。矢口真里。恐るべき怪物たちである。
果たしてどちらの精神力が先に折れるか?
今や会場全体が、完全なる沈黙に飲み込まれていた。
物音ひとつ立てることが、この緊張感を妨げる冒とくにすら思えてきた。
―――――そして10分が経過した。
そこは異様な空間と成り果てていた。
何万の観衆と二人の戦士が、ジッと固まり続けている。
動きも音もない。
想像を絶する緊張感だけが空間をウネウネと渦巻いていた。
「やれやれ、これじゃあキリがないわねぇ」
「静」に包まれた空間の中で唯一、囁く影があった。
柱の奥でリングを見下ろす三つの人影の中で、一番大きな者であった。
突然、その人影が思いっきり両手を叩き合わせたのだ。
パァンンッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
静寂の中、その音はすごい大きさで響いた。
針の穴に糸を通すような緊張感の中で突然の物音。
ドンと藤本美貴の体に響いた。
ドンと矢口真里の体に響いた。
限界まで堪えていたものがそれでプツリと切れた。
二人は同時に吼え、同時に動き出してた。
「うおおお!!」
「うおおお!!」
刹那、矢口の右手が藤本の襟を狙って伸びた。
刹那、藤本の右足が矢口の頭に向かって蹴り上げられた。
矢口は左腕で頭部をガードしていた。
ブウゥンと藤本のハイキックが変化し、ガードの下をくぐり抜けた。
矢口の右手が藤本の襟を掴み取った。
ガゴォン!!
ハイから変化した藤本のミドルキックが矢口の小さな体を蹴り上げた。
物凄い威力で、矢口の体が斜め上に浮く。
だがその右手はまだ藤本の空手着の襟を掴んだままだ。
続けざまに藤本は右の正拳突きを、宙空の矢口目掛けて放つ。
そのとき、ガシィと何かが藤本の左足首を掴んだ。
地面から生えた腕に足を掴まれるホラー映画みたいな恐怖が、藤本の背を駆け抜けた。
掴んだのは矢口の足指。
ブゥン!
生まれてこのかた、体験したことのない世界を藤本は知る。
コンマ何秒の間に天地がひっくり返るのである。
ズドダァァァァアァン!!!!!!!
「ヤグ嵐きたぁ―――――――――――――――――――っ!!!」
講道館の者たちが一斉に叫んだ。
が、次の瞬間、その目に信じられない光景が映る。
神話がある。
「矢口真里は倒れない」
誰も矢口真里が倒れた所を見たことが無い。
彼らがもう一度リング上に目をやったとき、その神話がガラガラと音をたてて崩れ落ちた。
『両者ノックダウーン!!!』
レフェリーの声が轟く。
ヤグ嵐で投げられた藤本はもちろん倒れていた。
だが、投げたはずの矢口までがその体を地に落としているのである。
「ガハッ!!」
矢口の口から赤い血が吹き出た。
よく見ると、矢口の背中が一箇所だけ拳の形で盛り下がっている。
誰の拳の跡かなど問うまでもない。一人しかいない。
藤本美貴だ。
恐るべき女であった。投げられながら、放っていた正拳を叩き込んでいたのだ。
仰向けの藤本がグルンと転がり、ニィと笑みを浮かべた。
そして立ち上がった。これも初めてのこと。
『矢口真里は倒れない』
『ヤグ嵐を受けて立ち上がった者はいない』
二つの神話を、この怪物は一気に崩してしまったのである。
血を吐きながら矢口もフラフラと立ち上がった。
藤本美貴は微笑を浮かべながらそれを見下ろしていた。
実はこのとき、ヤグ嵐の破壊力で藤本の体はかなり破壊されていたのである。
それを恐ろしく強靭な精神力で、何事もないかの様に振舞っていたのだ。
もちろん、ダメージの大きさで言えば矢口もかなり深刻である。
なにしろあの藤本美貴の蹴りと正拳をまともにもらっている。
五体満足が一転して満身創痍。まさに危険すぎる二人の戦い、そのものを表していた。