(勝て!危ない!負けるな!)
(あっ、捕まった!逃げて、逃げて、もう少し、そこ!)
ふと、亜弥は我に気付く。そして自問する。
(一体自分はどっちを応援しているのだろう?石黒さんか?愛か?)
考えて、すぐにその思考を取り消す。
(なんておバカな質問。決まっているじゃない、ハロープロレスの石黒さんよ!)
(だいたい愛が、石黒さんに勝てるはずないじゃない。実力差は歴然…)
『石黒選手の絞め技入った!!効いてますよ高橋選手!!』
テレビ画面の中、うつ伏せの愛が後ろから石黒さんに首を押さえ込まれるシーンが映る。
知らず知らず内に、亜弥は唇をかみしめていた。
(自分が嫌だ……)
(私も負けたんだから愛も負ければいいって、願っている自分がいる……)
(そんなこと思いたくないのに、考えたくないのに、どうして……)
『ああっーーーーと!!高橋選手、入れ替わったぁぁぁぁ!!!』
アナウンスと歓声の音量が上がった。ベットの脇でソニンさんも声をあげる。
必死の形相で、勝利をあきらめない親友の姿に、亜弥は完全に見入ってしまっていた。
(すごい!私の親友はやっぱりすごい!いけっ!愛!)
(ううん、違う。勝たないで愛!私を置いていかないで!)
(夢なんだよ?地上最強なんて、叶いっこない夢でしかないんだよ?だから……)
(私たち、親友だよね。ずっと一緒だったよね)
(やだよ、やだよ、こっちに来てよ。いかないで、いかないで、愛!)
『勝者!!高橋愛!!!!!!!!!』
キラキラと、輝いていた。
何万という観衆の声援を受け、勝利の栄光に拳を振り上げるその姿。
ワタシのトモダチは光の世界にいた。一方のワタシは……
「嘘だろぉ、あの石黒さんが負けるなんて」
ソニンさんが呆然としている。セミの声が現実を痛いくらいに教えてくれる。電車も一時
間に一回しか来ないような田舎の、さらに駅から徒歩一時間もかかる小さな病院の一室。
隣室に入院してるお爺ちゃんのクシャミの音が聞こえた。
平和で、穏やかで、心からのどかな世界。
プチ!
「あ、何すんだよ松……」
ソニンは突然TVのスイッチを消した亜弥の表情を見て、吐きかけた言葉を途中で止めた。
「……見たくないなら仕方ねえか。わかった。そろそろ行くな、私」
「…………」
「今夜はふもとの民宿泊まって、また明日も来るよ。じゃあな」
ガラガラと個室の扉を閉めるソニンの顔は、蒼白に染まっていた。
(なんて顔してやがるんだ、あいつ……)
「まずは1回戦突破おめでとう。お二人さん」
主催者控え室のイスに腰掛け、ニコニコと安倍なつみは言った。
「当然」
「なちみのおかげれす!」
夏美会館空手の代表二人はそれぞれ異なる返答をかえす。藤本美貴は腕を組んで壁を背に、
面倒くさそうに応じた。辻希美は元気よく手を上げて答えた。二人の返答を受けて、安倍
なつみはソロリと言い放った。
「それで見せてくれるんでしょうね、決勝戦で。辻希美vs藤本美貴を」
辻と藤本の顔色が真剣なものに変わる。なっちの表情も笑みではあるが、どこか怖いもの
が含まれている。絶対的な話しぶりであった。安倍なつみにこう言われてしまっては、そ
れを破る訳にはいかない。安倍なつみが「決勝戦は辻vs藤本」だと言ったのなら、それは
もはやそうならなくてはいけない決定事項なのである。ところが藤本はあっけらかんとそ
れに応じる。
「あんたに言われるまでもねぇ。私たちは始めからそのつもりだよ、なぁ」
「ね〜ミキティ」
「みきてぃ言うなコラ」
そんな様子を安倍なつみは心からの笑みで見守る。
夏美会館空手の日本完全制覇は目前にまでせまっていた。
「見事だったぞ、矢口!」
「マリ先輩、この国が柔道王国だってこと思い知らせてやりましょう!」
「ちょっと痛い痛い痛いぃー!!セクハラ、これセクハラだってば!」
ガタイの良い男子柔道選手達がこぞって、矢口のマッサージに集まる。
小柄な矢口は皆に押しつぶされる形で悲鳴をあげていた。
「まったく、何をしておる」
「ああ!五郎のじいちゃん、こいつらどかしてくれー」
立ち上がった矢口はおかえしとばかりに、周りの連中を投げ飛ばす。
試合中とはまるで違う矢口真里の姿がそこにはあった。
おしゃべりで誰からも好かれるキャラクターの矢口は、講道館のマスコット的存在だった。
世界一強いマスコットである。
「あまりふざけるでないぞ。本番は次からじゃ」
「次って、夏美会館のこと」
「ウム、柔道が空手に負けぬということを証明してやれ」
「悪ぃけど、おいら、そういうの興味ないし〜」
「矢口!」
「説教は勘弁。おいら矢口真里個人として安倍なつみ個人に喧嘩売ってるだけだから。
このトーナメントもその為のプロセスでしかないし。柔道、空手とかパスね」
「世間はそうは見ぬぞ!」
小川五郎が吼えるも、矢口はキーンと腕を広げて逃げ出してしまった。
「あ〜ヤダヤダ年寄りのお説教は。マコの気持ちもチトわかるなこりゃ」
控え室を抜け出した矢口は、外が見える窓側の通路を歩いていた。すると、前方に見覚え
のある人物が立っていた。うっすら好奇心を覚えた矢口は話しかけてみる。
「高・橋・さ・ん」
「ひゃ!!」
ボーっと窓の外を見ていたら、突然耳に息を吹きかけられて愛は飛び上がった。
振り向くとそれがほとんど面識の無い矢口真里であった為、もう一度驚いた。
「や、や、や、や、や、や、や、や、矢口さんじゃないですか!何すんですか!」
「敵情視察」
「て、て、て、て、敵ですかぁ私」
「決まってるじゃん。トーナメントは自分以外全員敵よ」
「そ、そうですね」
「まぁ、共に夏美会館に敵対してるし、半分敵ってとこにしたげる」
「ハンブンテキ?ありがとうございます」
「アハハ、変な子。あんたの試合さっきのビデオ放送で見たよ。やるじゃん石黒倒し」
「あれはたまたまですって。矢口さんの方が凄かったですよ」
「まぁね。ところで次は勝てそう?」
「やって見んとわかりません」
「ふぅん。おいらは勝つけどね。どうせ安倍のことだから、決勝は辻vs藤本だなんて
言っているに決まってるし。そうはさせるかってんだ!」
「うん」
矢口のトークに愛は知らずと元気付けられていた。あの強大すぎる夏美会館に挑もうとし
ているのが、自分だけではないと改めて実感できるからだ。
「もし夏美館二人とも負けちゃったら、安倍がどんな顔するか見ものだと思わねえ?」
愛は想像した。すると不思議と唇がにやけてきた。
「おもしろいかもしれないです」
「だろ」
公式の場以外では初対面に近い矢口と高橋が、声をそろえて笑った。愛はこの偉大な先輩
に共感できる所を感じ始めていた。柔術と柔道、スタイルは違えど、己の身ひとつで強大
な敵に果敢に挑む姿勢が、同じだと思ったのだ。その後、準決勝が始まるまでの休憩時間、
二人は互いの格闘論などを語り合った。
もしかすると数時間後、死闘をくりひろげる間柄になるかもしれないことなど、このとき
の愛の脳裏からはさっぱりと消えていたのであった。
「そろそろ時間か。じゃあな」
「はい」
二人は挨拶をして別れた。次に会うのがどんな形でかは、まだ分からない。
準決勝の刻、迫る。