第19話「夢失いし娘の見た光景」
初夏の風が新緑の木々を揺らす。見渡す限りを、緑の生い茂った山々と田園に囲まれた、
そんな風景。一両だけの電車に揺られ、無人のホームに一人の女性が降り立った。
「想像以上の田舎だ…」
バックの中から目的の住所が記された紙切れを取り出し、地図と当てはめる。ここから
また一時間以上かかることに気付き、女性はため息を落とす。
(しょーがねぇ、走るか)
足には自身があったその女性は、バックを肩にかつぎ田舎道を駆け出した。駅からほんの
少し離れるともう舗装すらされてない土の道に変わる。民家はところどころにポツポツ見
える程度だ。
「…あいつ、こんな所にいるのか」
数十分後、山の斜面にさしかかり、道も徐々にのぼり坂へと変わってきた頃、山の中腹に
緑に囲まれた小さな建物が見えてきた。木造の小さな個人病院だ。横引きのガラス戸を開
け、受付にいた白髪混じりの老婦に声をかける。
「すいませーん。面会希望なんですけど」
受付の老婦に目的の部屋を聞くと、女性はスリッパに履き替えて木目状の廊下を進んだ。
歩くたびにギシギシと木の音が鳴る。入院患者用の部屋は2つしかなく、案内されずとも
迷うことはなかった。
ノックをしても返事が無い。
仕方ないので女性は「入るぞ」と言ってドアを開けた。小さな部屋にベッドが二つ並んで
いる。その奥の方、窓際のベッドに彼女はいた。上半身だけを起こし、背中を壁にもたれ
たまま、虚ろな瞳で窓の外を見ていた。女性は思わず唾を飲み込む。
「お前…本当に松浦か?」
ベットの中で虚ろに座する娘―――松浦亜弥を見て、女性は思わず尋ねてしまった。
確かにそれは松浦亜弥の顔をしているのだが、彼女の知っている松浦と比べたとき、
根本的な何かが欠けてしまっている様な印象を受けたのだ。
亜弥は見舞いに訪れた女性の声に気付き、穏やかな微笑を浮かべる。
「私の顔、忘れちゃったんですか?ひどいですね、ソニンさん」
「バ、バカ。んな訳ねえだろ!」
「ウフフ…遠い所をわざわざお見舞い、ありがとうございます」
丁寧で穏やかな口調であった。それでもソニンは最初に感じた違和感を拭えずにいた。
ここは飯田圭織の知り合いが開業している病院で、マスコミの目を隠すときに利用する、
ハロープロレスでも限られた者しか知らぬ秘密の療養所であった。松浦の教育係につい
ていたソニンは、飯田よりここに松浦がいることを聞き、見舞いに来たのだ。
「だけど松浦。驚いたぞ、退団の話。どうしたって言うんだよ!」
「ごめんなさい」
「何かあったのか?社長も、石黒さんも、誰も教えてくれねえんだ」
今から約半月前のこと。トーナメント出場の件で地方巡業を抜け出した松浦は、飯田に
講義した末、二人は試合うことになった。そのときの立会人は石黒一人。試合は凄惨を
極め、殺し合いになりかけた上、松浦が敗北を喫した。この事実は飯田・石黒・松浦、
三人の胸の内のみに留まっている。公に発表されたのは、飯田の入院と松浦の退団とい
う事実だけだ。物好きなプロレスファンの間では様々な説が飛び交っている。
「社長に反抗したんです。だから退団です」
「なぁ松浦、考えなおせよ。社長だってお前には期待していたんだぜ。
私も一緒に頭下げるからさ、誤ればきっと退団取り消してくれるさ」
ソニンは説得を試みた。松浦亜弥に期待していたのは社長だけではない。
しかし松浦は首を縦に振らなかった。
「もういいんです。私、疲れました…」
ソニンは耳を疑った。まさかあの松浦亜弥の口からそんな台詞を聞くとは、思ってもみな
かったのである。彼女の知る松浦は闘争本能の塊のような娘だったのだ。始めに見たとき
から感じていた違和感が、少しずつ分かりかけてきた。
「どんなに夢見ても。どんなに努力しても。手にできる人は決まっているんです」
「松浦?」
「……私にはその資格がなかったんです」
「お前、まさか社長と……」
「笑っちゃいますよね。地上最強なんて、子供みたいな夢を…本気で……」
亜弥は天を仰いだ。虚ろだった瞳が濡れていた。その頬に一筋の涙がこぼれ落ちる。
「本気で夢見ていたんですよ……私は……」
これだ、とソニンは気付く。松浦亜弥に感じた違和感の原因。今の松浦亜弥は夢を失った
ヌケガラみたいな存在なのだ。最強を目指してキラキラ輝いていた、あの頃の松浦と同じ
に見えるはずがない。
(だが、こんなにも変わってしまうものなのか?)
(一体何があったんだよ。社長と松浦の間で……)
ソニンは松浦に立ち直って欲しかった。こんな所で彼女の格闘技人生を終わらせたくなか
った。もっともっと上を目指せる器だと信じていたから。自分と違って…。
「情けねえ!一回負けたくらいで何だよ!トレーニング積んで、再挑戦すりゃいいだろ!」
激を飛ばした。しかし松浦は首を横に振り、静かに口を開いた。
「違うんです。そういう負け方じゃなかったんです……」
「は?」
「かみ……さ…ま……ウッウウッ…ウウウッ……ウアアァァウアアァァァ……」
人目もはばからず彼女は嗚咽し出した。ソニンはもう何も言い返せない。目の前で子供み
たいに泣きじゃくる娘が、本当にあの大胆で傲慢で華麗なスター松浦亜弥と同一人物なの
かと、途方にくれるばかりであった。
…………………
亜弥のすすり泣く声と、セミのミーンミーンという鳴き声が、静かな病院の個室に不調和
なハーモニーを生み出し、時は緩やかにその音色を刻んだ。
「そうだっ!」
30分ほどの時が経過した頃、持ってきた見舞いの果物を戸棚に並べていたソニンが、ふと
何か思い出した様に叫んだ。もう泣き止んで、ベッドに横になっていた亜弥が、顔だけを
彼女の方に向ける。
「例のトーナメントだよ!あれ、今日だったよな!」
「……!」
「ちょうどTVでやってる頃だぜ。やっべー、ド忘れしてた!松浦、リモコンどこ?」
「……見たくないです」
「何言ってんだよ。石黒さんが出てるんだぜ。見てねえとまた怒鳴られるだろが」
そう言ってソニンは備え付けの小型TVのスイッチを押す。たちまち、セミの声しか聞こ
えない山の病室に、騒がしい実況アナウンスの音が鳴り響いた。
『準決勝の前に!!一回戦の全四試合をもう一度リプレイで振り返ってみましょう!!』
画面には超満員に膨れ上がった武道館の観客席が映し出されていた。そこから場面は移り、
辻希美と柴田あゆみの姿に変わる。
「ああ〜、もう1回戦は終わっちまってるよ、松浦」
「私見たくないんで」
「ほらっ!辻が出てるぜ!安倍に鞍替えした裏切り者の!タッグマッチ以来じゃねえか」
「辻」という名前に、亜弥は思わず反応してしまう。
布団のすき間から亜弥はそっとテレビを覗き込んだ。そして垣間見ることになる。画面の
向こうで確かに起きた「奇跡」を。
「辻の奴、勝ちやがった!まぁ、あいつ確かに強かったもんな」
ソニンは春にあったタッグマッチを思い出していた。そこでも辻希美は、当時ハロープロ
レスNo3であったソニンを場外へふっ飛ばすという奇跡を起こしたのだ。裏切り者と軽
蔑視してはいるが、その実力は高く評価している。
「石黒さんは確か次だぜ」
「……」
いつしか画面に釘付けになってしまっていることに亜弥自身気付かずにいた。あのタッグ
マッチのとき、自分の足元で「地上最強になる」と喚いていた娘が今、数え切れないライ
トと歓声の中で、その階段を着実に上っていっている姿が……眩しすぎて。
『石黒彩選手の相手は高橋愛選手です!!』
その名が耳を通過したとき、亜弥の胸がドクンと高鳴った。
“高橋愛”
夢を失った亜弥が一番耳にしたくなかった名前。ベッドがカタカタ音を立てて震えだす。
震えているのは布団にくるまり画面を睨む松浦亜弥。愛と亜弥の関係を知らぬソニンは、
上司の石黒を見て亜弥が震えているのだと勘違いした。
そして――その闘いは始まった。
>>388−398
応援ありがとうございます。矢口田中戦の反響はさまざまですね。
田中の敗因とかその後については、しばらくノーコメントとさせて頂きます。
さて、ここからの準決勝と決勝の三試合は物語の一つの山場なので気合入れて書きます。
その前に松浦さんの話を入れて、他にも書かなきゃいけない娘がゴロゴロしている…。
相当長い話になりそうなのですが、どうか気長にお付き合い下さい。