安倍なつみという女の怖さは、対峙して始めてわかる。
大きい。
体系は小柄で、およそ格闘技に縁のある姿を有しているとは思えない。
なのにこうして前にすると、その姿が驚くほど大きく感じるのである。
ほとんどの者は、まずこの時点で飲まれる。
安倍なつみという女の空気に飲まれ、身動きがとれなくなる。
そして本来の実力を少しも出せずに敗れ去る。
それを藤本美貴は知っていた。
藤本美貴は動じない。まっすぐに安倍なつみを睨み返している。
二人の距離は2メートル弱。危険な距離であった。
一歩踏み出せば互いの間合いに入る。
なっちは右手に空手着を持ったまま、棒立ちであった。
スキだらけなのに、何処にも手が出せないような雰囲気を纏っている。
ジリッ…と藤本がこするように歩を進める。
あと10cm踏み込んだら、仕掛ける。
胸の鼓動が聞こえた。
そうだ、こういう闘いを望んでいたんだよ。
どう攻める?いや、迷うな。蹴りだ。まずは蹴る。そのあとは決めない。
本能にゆだねる。考えていては追いつかない。
全部、ぶつけてやるよ。
安倍なつみ!
『勝負ありぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!!!!』
藤本が牙を剥き出したまさにその瞬間であった。
審判のひと声。
大歓声が響く。
完全に虚をつかれ、藤本は思わず戦意をそがれる。
目の前の安倍なつみも呆然とした顔で、遠くを眺めていた。
何が起きた!?
(勝負ありって…私となっちの勝負はまだ始まっても…)
思って、藤本は気付いた。
振り返ると、電光掲示板に驚愕の数字が叩き出されていた。
7秒
藤本は目を見開く。
第四試合が終わっていた。
壇上に視線を落とす。
物凄い大歓声の中、一人の娘が立っていた。
もう一人の娘は地に伏し、意識を失っていた。
審判が何かを大声で叫んでいた。
気が付くと、隣になっちがいて、壇上を見ていた。
もう一度、壇上に視線を戻した。
勝ち名乗りを受ける娘が、狼のように鋭い瞳でこちらを見ていた。
背にゾクリとしたものが走る。
隣の安倍なつみが、言った。
「美貴、笑ってるよ」
田中れいなと矢口真里。八極拳と柔道。
ともに接近戦を持ち味とする二人は、開始の合図で同時に前へ出た。
(速いな)
矢口は思った。ビデオで見た西日本予選の動きと比べての感想だった。
しかし矢口は動じず、Tシャツの襟を掴もうと手を伸ばす。
田中がうっすら笑みを浮かべ、さらにその速度を増した。
矢口の手をかわし、その懐へ肩から入り込んだ。
(もらっ…)
ガクッ…!
田中の体勢が崩れ、繰り出した寸勁が不発に終わる。
誰かの手に足首を引っ張られたからだ。
(誰が邪魔しとー!!)
足元を見た田中はそれが他の誰の手でもないことに気付く。
気付いたときにはもう襟を掴み取られていた。
田中の足首を掴み取ったもの―――矢口の足指であった。
(や…)
やられた!の「や」までを意識した時点で、田中の思考は中断させられる。
――――――――――――――――次の瞬間、日本中が息を呑んだ。
ズドォォォォォォン!!!!!!!!
日本一有名な必殺技、ヤグ嵐!!炸裂!!
下は畳のように衝撃を吸収してくれるものではない。
硬いマットだ。この条件では背負い投げが一撃必殺になり得る。
それが電光石火のヤグ嵐ともなれば、その衝撃は想像を絶する。
手足を塞がれ、受身もとれなかった田中れいなは気絶した。
さらに攻め込もうとする矢口を、審判が止める。
『勝負ありぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!!!!』
審判のひと声。
大歓声が響く。
立ち尽くす矢口真里。
『神話崩れず!!』
『やはり「倒れない女」矢口真里を倒すことは誰にもできないのかっ!!』
『勝者!!矢口真里!!』
電光掲示板に7秒の数字が出て、またも大歓声が沸き起こる。
その数字の意味を会場のいる者なら全員が理解しているのである。
高々と拳を突き上げる。矢口はその視線の先に次の獲物をとらえる。
(お前なら、おいらに地面の味を教えてくれるのか?)
(藤本美貴…)
「嘘だぁ…」
道重さゆみは不満をこぼしながら、タンカで運ばれる田中を追った。
田中が負けるなんて夢にも思っていなかった彼女は、半分泣きそうになっていた。
実況席では、今の試合のスロー映像を流して解説が行われていた。
「ここですね。ここです。矢口選手の足が田中選手の足を握りました」
「おおっ!本当に手みたいだ」
「そうなんです。矢口選手は足の指が物凄く長くて器用なんですよ。
手が四本あると言っていいくらいですね」
掴んだ後の映像はスローでもぼやける程に速かった。
小さな体をバネの様に活かし、相手を地面に投げ落とす。完璧であった。
矢口の前にヤグ嵐は無く、矢口の後にヤグ嵐は無い。
原理を理解しても、彼女以外には使用不可能な、完璧な必殺技だった。
「考えておいた方がいいかもしれませんね。ヤグ嵐対策」
紺野あさ美が、口をあけて見とれる高橋愛に言う。
「対策って…なんか思いつくの?」
「…」
紺野あさ美はそれきり押し黙ってしまった。
未だ騒然とする会場を、退場する矢口真里。
その通路に藤本美貴と安倍なつみが立っていた。にわかに緊張が走る。
ハイキック一撃。強すぎる女。
ヤグ嵐一閃。強すぎる女。
試合時間、ともに7秒。二匹の怪物が目をあわす。
「この二人、ヤバ過ぎるぜ」
誰かが言った。そう、それは女子格闘技のレベルを超越した強さであったのだ。
トランプゲームに誤ってジョーカーが二枚入っていたような感覚に陥る。
それほどにこの二人、強い。強すぎる。
藤本、そしてなっちを睨みつけ、止まることなく矢口は退場していった。
なっちは隣の藤本が震えていることに気付く。
「もう一度さっきの話聴こうか?美貴」
「いや、いい。すまねぇけど、私の胴着を返してくれよ。…館長」
飢えた野獣のような眼光が、藤本の瞳に戻っていた。
なっちは思わず微笑む。
(本気に…させたべさ。矢口真里)
ベスト4決まる!
“奇跡を呼ぶ少女”辻希美
“進化し続ける娘”高橋愛
“最強の象徴”藤本美貴
“倒れない女”矢口真里
カードはこの様になる。
準決勝第一試合
辻希美(夏美会館空手)− 高橋愛(高橋流柔術)
準決勝第二試合
藤本美貴(夏美会館空手)− 矢口真里(講道館柔道)
この4人のうち3人は今日、敗北を知ることになる。
優勝の栄光を手にできるのはこの中でただ1人だけ。
第18話「七秒」終わり
次回予告
ついに、幾多の激闘を越えた二つの道が交わる!
「奇跡」VS「主人公」
決して負けられない、二人の戦い。
そしてその熱は…遠き地にいるもう一人の娘をも揺るがせる。
「お前…本当に松浦か?」
To be continued