第18話「七秒」
小川麻琴。
汗にまみれた顔を歪めながら、彼女が扉の奥に立ち尽くしていた。
「アニキがいねえよおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉうぉぉぉぉぉ」
残り0秒。
ビ―――――――――――――――――――――――――!!
『吉澤ひとみ選手の不戦敗!藤本選手の相手はリザーバーとなります』
小川の叫び、ブザー音、そして感情のないアナウンス。会場が落胆の色に包まれる。
藤本美貴は静かに眼を閉じた。
吉澤ひとみは来なかった。ここに辿り着くことができなかった。
彼女の身に何が起きたのか知る者はいない。
ただ「吉澤ひとみは来ない」という事実のみが、目の前にある現実であった。
「ちくしょおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
小川麻琴がその拳を地べたに叩きつけ吼える。
その後方から、市井紗耶香が静かに現れた。
彼女は安倍なつみに視線を向けると、小さく首を横に振った。
なっちは表情を変えず、ただ拳を強く握り締めた。
「吉澤さん、どうしちゃったんやろ」
不安気な声で愛は、隣に立つ紺野に声をかけた。
紺野はわからないと首を横に振って応える。
それよりも別の問題が彼女の頭の中を巡っていた。
(なんや嫌な予感するわ、吉澤さん…)
愛は何故か胸騒ぎを覚えた。
『リザーバーはボクシングミニマム級世界王者ミカ=トッド選手です!!』
場内アナウンスに呼ばれ、入場ゲートからミカ=トッドが姿を見せる。
階級は違うといえど、彼女とて世界チャンピオン。
とてつもなく豪華なカードのはずであった。
だが観客のムードにやはり落胆の色は隠せない。
吉澤ひとみという存在はそれほどに期待させるものであった。
ミカのリングイン。藤本美貴は目を閉じたまま、彼女を見ようともしない。
「気持ちは分かりヤンス。ミーも吉澤のファイト、見たかったアルヨ」
色んな物が混ざった日本語で、ミカが藤本にしゃべりかける。
しかし藤本は返事するどころか、目を閉じたまま反応すらしない。
(落ち込んでいチョーね。ばってん、手加減は致しマセリヌ)
一回戦第三試合
藤本美貴(夏美会館空手)21歳
対
ミカ=トッド(UFAボクシング)21歳
試合開始のゴングが鳴る。それでも、藤本は目を閉じたまま立ち尽くしていた。
(わざと負ける気か!!)
誰かが思った。それほどに藤本から闘気のかけらも感じられなかったのだ。
(悪いゲッチョ、勝ちにいくでゴザソウロウ)
赤と白のグローブを構えミカが前進した。
「必殺!ピョーンパン…!」
刹那、カッと藤本の双眸が開いた。
同時に物凄いローキックがミカの足元に放たれる。
パンチとキックではリーチが違いすぎる。先に当たるのは当然キックだ。
ボクサーであるが、ミカはキック対策も万全にこなしていた。
足を上げてローキックのガードに入る。
ところが、当たる寸前で藤本の蹴りがググッと浮き上がった。
(ぬおっ!ミドルキックか!)
世界チャンプの名は伊達ではない。ミカはこの変化する蹴りに反応を見せる。
腕を落としてミドルキックのガードに入る。
ところが、グググゥっと蹴りの軌道がさらに変化をみせる。
「っ!!」
ミカは思わず見とれた。足先が自分の顔に目掛けて迫ってくるのだ。
傍から見ると、ガードを下げまるでミカの方から当りにいってる様に映ったかもしれない。
それほど自然で、美しいラインを描いたハイキックであった。
こう当ったらもう立てない、という当り方で藤本のハイキックはミカの頭部を打ち抜いた。
蹴り終えた藤本はクルッと背中を向ける。
その後、ガクンと膝からミカが崩れ落ち、頭を地につけ、動かなくなった。
空間は静寂に満ちた。
美しい。
その試合を見た誰もが、まず、そう感じた。
ローからミドル、そしてハイへと変化するそのライン。
目にも止まらぬスピード、ではない。誰もが見えるスピードで、それは描かれた。
その美しさに皆、言葉を失った。
審判すら見とれていた。
安倍なつみだけが満面の笑みを浮かべていた。
「おい」
藤本がぶっきらぼうに審判へ声をかける。
それでようやく審判は我にかえる。ミカはピクリとも動かない。
「しょ、しょ、しょ、勝負ありぃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!」
その一声で、空間の静寂が怒号へと変わった。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
美しい、と感じた全ての人間が身を震わせて叫び、次に同じことを思った。
強い、と。
ハイキック一閃。
いや、ハイキックのようであったが、それはハイキックではなかった。
見たこともない軌跡を描く蹴りであった。
見たから真似ができるか、と言われて真似れるものでもなかった。
ただ、その蹴り一本で、ボクシングの世界チャンプがKOされたのだ。
人々は口々にその感動を語り合う。
そして電光掲示板に試合時間が映されて、また合唱のように感嘆の声が響かせた。
七秒。
開始からたった七秒での決着であった。
最強を決めるこのレベルの試合で、それは異常とも言える時間であった。
相手が弱いのではない。
誰もが知る有名なボクシング世界チャンピオン、ミカ=トッドである。
日本拳法の秘密兵器、前田有紀を恐怖に振るわせた程の猛者である。
間違いなく世界クラスの実力者である。ミカ=トッドは強いのだ。
では、どうしてこんな異常な試合になってしまったのか?
答えは一つしかない。
藤本美貴という女が、強すぎてしまった、ということだ。
当の本人は勝利を喜ぶ表情ひとつ見せず、なっちの隣に戻っていった。
不機嫌の極み、といった顔であった。
一回戦第三試合 勝者 藤本美貴 7秒 KO
>>356 『修羅の門』を読んだの、かなり昔だから覚えてなかった。
なんか、久しぶりに読みたくなりました。
イグナシオって準決勝のデカイ人ですよね。あれは強かった。
とりあえず、噂の第四部が早く読みたいです。
>>357 『タフ』は現在進行形で読んでます。
最近始まったバトルロイヤルはいいですね。ワクワクする。
ああいうの、やりたいなー。
当初決めたストーリーを追うか、バトルロイヤルしちゃうか、葛藤中。