松浦も負けたのだからお前も負けていいんだ。
そうやって愛を説得するつもりで、石黒は言い放った。
だが言った後、愛の様子が急変した。体全体が小刻みに震えだした。
締め付ける喉元から、低いうなり声のようなものが聞こえだした。
(愛ちゃん…?)
そのとき!ナニカが後ろから石黒の耳を引っ張った!
最初石黒は、第三者がリングに上がり妨害したのだと思った。
振り返りそれが間違いであると気付く。
「足!」
恐ろしく柔軟な体をしていた。
うつ伏せで潰された体勢のまま、愛は体を海老のように反り、足の指で後ろから、
石黒の耳をつまみ引っ張ったのだ。そしてその指を短く尋常ならぬ速度で揺らした。
「指震」
セコンドの紺野が思わず唸った。
かつて自らが高橋愛と対戦した18歳以下トーナメントの準決勝。
絶対的窮地から高橋愛は左足一本で逆転勝利を収めた。その技だったのだ。
戦国の世に生まれ、磨きぬかれた戦闘術の奥義。
頭部を揺らすダメージは、肉体の強度に関わらず直接脳神経に響く。
石黒の意識が一瞬、ほんの一瞬であるが、飛んだ。
その一瞬を、闇に潜んだ武術が生みしこの天才は、見逃さない。
二人の体がグルンと入れ替わった。
(高橋流柔術を知っている)
(あまり大きな声で言わない方がいいですよ、石黒さん)
石黒の左腕を右手で掴んだまま、愛は彼女の背中に回りこみ、左手で首を掴む。
伸ばした右足を石黒の右手に絡め、そのまま仰向けに倒した。
「ぐあっ!」
石黒の口から低いうめき声が漏れた。
両腕を背中で交差させた状態で、石黒は倒されたのだ。
首と両腕が同時に締め付けられる。見たこともない関節技であった。
石黒だけではない。
セコンドの紺野と新垣も。控え室の辻と美海とあさみも。
田中と道重も。藤本も。安倍なつみですら。誰も知らぬ関節技であった。
笑みをこぼしたのは、福井でテレビ観戦していた愛の父と祖父だけであった。
「高橋流、獅花」
下から絞めるいくつもの腕や足が、獅子の牙や花びらに例えられたことから、
付けられたネーミングである。
高橋流にはこの技のように、代々の当主にしか継がぬ闇の技がいくつか存在した。
石黒やその他練習生に教えるのは、高橋流の基礎的技にすぎない。
もっとも、普通の世界ではそれで十分通用する。
当主自身もめったに使わぬ技なのである。
それを使用した。
松浦、敗北、死。それらのフレーズが高橋愛という天才を解放させてしまったのだ!
白いタオルを握り絞め、新垣里沙は震えていた。彼女が石黒彩のセコンドである。
ハロープロレスの戦いをよく見ておけ。そう言われた。
プロレスこそ地上最強の格闘技だ。新垣自身そう信じてきた。
自分は全然だが、飯田さんをはじめ、石黒さんや松浦など、絶対的に強い。
ヒールレスラーでも良い、勝てなくても良いと思っていた。
地上最強の格闘技プロレスに携わっていられるなら、それで良いと思っていた。
その信仰に近い感情が、目の前で壊されようとしている。
プロレスが、他の格闘技に負けようとしている。
タオルを握り締めた。
歯をギュッとかみ締めた。
新垣自身、わからない感情が胸に燃え上がっていた。
(嘘だ!嘘だ!嘘だ嘘だ!亜弥は負けない!亜弥は死なない!私だって!)
(ギブアップしてや!)
立場が入れ替わった。今度は愛が石黒にギブアップを願う。
体中がギシギシ音をたてる。
身長も体重もパワーもはるかに上回る相手との闘いは、体に相当な負担となっていた。
(これで決めなきゃ、もう勝てん)
愛はさらに力を込めた。
それでもこのプロレスラーは抵抗しようとする。
信じられなかった。
愛が祖父にこの技を教わったときは、あまりの苦しさに一秒でタップした。
プロレスラーという人種がいかに頑丈か知らないが、これに耐えられるとは思わなかった。
痛みを超えたところにある、信仰のようなものを感じた。
プロレスこそ最強である!と。
「うぬあぁぁぁ!!」
ゾクリと全身に悪寒が走り抜けた。
愛の背中が地から離れたのだ。石黒が起き上がろうとしている。
首と両腕の間接を決められた状態でだ。
(冗談やろ…)
ものすごいパワーであった。愛は必死で腕を押さえつける。
これじゃどっちが技をかけられているのか分からない、と思った。
ミリミリミリィ…という肉と骨の軋む音が石黒の体から聞こえてくる。
間違いなく効いているはずである。間違いなく痛いはずである。
なのに、石黒は立ち上がろうとする。
いや、すでに腰までが浮き上がっている。
愛は首を絞める腕の力を最大限にまで込めた。
すでに意識がなくなってもおかしくない程、締め付けているのだ。
(石黒さん!もう、もう辞め…)
ドンッ!!
リングに足を踏みつける音が響いた。
背中に高橋愛をおぶるような形で、石黒彩は立ち上がっていた。
その姿、まるで仁王像のようであった。
愛は泣き出したくなっていた。もう体力はほとんど無くなっていた。
それでも、間接を決め続けるしかないのである。
最後の力を振り絞ろうとした時、壇上に一人の女が上がってきた。
安倍なつみであった。
「もういい。腕を放してやれ」
「???」
愛は最初、安倍なつみが何を言っているのか理解できなかった。
それくらい必死だったのだ。
「とっくに、意識はなくなっている」
その台詞でようやく愛は気付いた。間接を外し地に降り立つ。
なんと、石黒は立ったまま意識を失っていた!
もしかすると意識を失いながら立ち上がったのかもしれなかった。
愛はその姿に、何とも言えず感動した。
「どう。プロレスラーってのは怖ぇだろう」
すぐ横で、安倍なつみが笑っていた。
温かい笑みではない、ひどく凶暴な笑みであった。
「あんたは、そいつに勝っちまったんだべ」
愛は小さく頷いた。今になって体が震えてきた。怖いのか…いや違う。
「次(準決勝)を…楽しみにしているべさ」
ポンと愛の肩を叩き、安倍は壇上を降りた。また震えた。ワクワクして、震えた。
『勝者!!高橋愛!!!!!!!!!』
そのコールを合図に、武道館を大歓声が埋め尽くす。
勝者である高橋愛に送られる声援と、
最後まで驚異的な闘争本能を見せ付けてくれたプロレスラー石黒彩に送られる声援だ。
リングサイドにいたハロープロレスの若手数人が、意識を失い立ち尽くす石黒に肩を貸す。
愛は石黒に声を掛けたかったが、できそうな雰囲気ではなかった。
このとき愛は気付かなかった。セコンドにいた小さな豆が凄い目つきで睨んでいたことに。
壇上をぐるりと回り歓声に応えると、セコンドの紺野あさ美の元へ戻った。
「たいした人です」
「ほんと、やっぱり石黒さんは凄かったわ」
「あなたのことですよ」
「ほぇ?」
それから二人は満面の笑みを浮かべて抱き合った。
ハロープロレスのNo2石黒を倒すというのは、想像以上にトンデモナイ偉業であった。
日本格闘技界の勢力図が、塗り替えられたのである。
紺野は今、心から愛を尊敬した。そしてさらに抱きしめた。
「うっ」と声を出し愛が苦痛に顔を歪める。最初は冗談でやっていると思った。
紺野は愛の脇腹のあたりをさわる。試合中、石黒に何度も叩かれた場所だ。
…紺野の顔色が変わった。
一回戦第二試合 勝者 高橋愛 5分54秒 KO
「奇跡でもまぐれでもないぜ」
壇上から戻ってきた安倍に、藤本は言った。
「あいつ、実力で石黒を倒しやがった」
「認めない訳にはいかなそうね。夏美会館の敵として」
「たった一人でこの夏見会館に喧嘩を売る。まるで物語の主人公みてぇだな」
「その主人公が優勝しちゃうなんてオチじゃないでしょうね」
いつになく鋭い眼差しで藤本を見つめる。
藤本は目を見開いて、そんな安倍に向けて強烈な眼光を放つ。
「まさか」
そう言うと、藤本は勢いよく立ち上がり歩みだした。
なっちは口元に笑みを浮かべ、彼女の背中を見送った。
高橋愛と石黒彩が退場したリングに、さらなる大歓声が起こる。
ついに、今大会大本命の登場である。
全国・海外にまで支部を持つ日本最大の空手流派、夏美会館。
館長安倍なつみの元、数千とも数万とも言われる門下生、その頂点に立つ者。
藤本美貴の登場!
しかし肝心の対戦相手が未だ姿を現さない。
予定では各試合間に10分ずつ休憩を挟むことになっている。
現在が2時20分。第三試合のスタートは2時30分になる。
それが吉澤ひとみのタイムリミットであった。
空手着姿の藤本がリングの下に立つ。ここで吉澤ひとみを待つつもりであった。
「まだ来ると思っているのか?」
そんな藤本に声をかける者があった。
里田まい。怪物と呼ばれ、藤本が来るまで夏美会館の全国王者だった女だ。
名目上、藤本のセコンドとスパーリングパートナーを受け持っていた。
強すぎる藤本の組手相手を務まる者が、彼女くらいだったからだ。
「あいつは来る」
「ふぅん。だがまだ時間はある。ウォーミングアップしねえのか」
藤本は口を三角にして「イラネ」と答えた。
普通の空手家とくらべ、藤本美貴という女はかなり特殊な部類にあった。
「街でいきなり喧嘩売られて、ウォーミングアップするから待ってなんて言えるか」
実践的であった。
彼女を空手家、いや格闘家という枠でくくるのは浅はかかもしれない。
里田は未だに藤本美貴という存在を掴みきれずにいた。
はっきりと分かることは「強い」ということである。
強い。藤本を説明するにはその二文字で十分なような気さえする。それほどに強い。
夏美館の代表が藤本であることに里田が一切の文句を挟まなかった理由である。
そんな藤本は静かに待ち続けた。もう一人の「強い」女を…。
残り10分。
コンコンというノックの音。
石黒彩の控え室である。今は応援にきたレスラーが集まっている。
ハロープロレスの若手が扉を開けると、そこには高橋愛が立っていた。
「てめぇ、何しに来やがった!」「ぶっ殺されてぇのか!」
物凄い形相でハロプロの若手達が次々と牙を剥いた。
自分たちが尊敬する先輩を負かした相手である。当然の反応と言えた。
「やめろっ!!」
一喝。一声で荒れた若手たちが静まる。石黒の声だった。
目を覚ました石黒彩が、控え室の奥でベンチに腰を下ろしていた。
「石黒さん、話が…」
「ああ。お前ら、悪いけど外してくれ」
副社長にそう言われては若手達に反論の余地はない。
レスラー達は皆、高橋愛を一睨みしながら控え室を出て行った。
扉が閉まり二人になると、鬼のようだった石黒の顔が、昔の優しいお姉さんの顔に変わる。
「強くなったな、愛ちゃん」
「アハッ、はい!」
二人は昔のように笑いあった。
「聞きたいのは、松浦のことだろ」
「はい…死んだって」
「愛ちゃんは相変わらずバカだなぁ。本当に死んでたら警察沙汰で隠せる訳ないでしょ」
「え、え、え〜」
「プロレスラーとして死んだってことよ」
「どういう事ですかぁ?」
「松浦はもうプロレスはできない。ジョンソン飯田に逆らったからね」
「ジョンソン飯田…」
「それと松浦が負けたってのは本当。事実だよ」
松浦亜弥が負けた。たとえ相手が誰であれ、愛には相当にショックな事実であった。
あの亜弥が誰かに負ける姿がどうしても想像できなかった。
「それで今は?今、亜弥はどうしてるんですか?」
「私にも分からん。圭織が半死状態の松浦を何処かへ連れて行ったきりだ」
「え?」
「しばらく留守にするから、ハロープロレスとこの大会のことは頼むと言われたよ」
「…そうなんですか」
「隠していて、わるかったな」
「いえ、亜弥が生きてるって分かっただけで嬉しいです」
「そうか。がんばれよ、愛。私と亜弥の分まで勝ち上がれ」
石黒はスッと右手を差し出した。愛は微笑みながら、その手を握った。
「はいっ!」
残り5分。
時間は無常にも過ぎてゆく。
藤本美貴はまだリング手前で待ち続けていた。会場への入口である巨大な扉を睨みながら。
「吉澤ひとみが来なかった場合ですが」
大会運営委員の一人、戸田が安倍の元を訪れた。
安倍は戸田を引き連れて別室へと向かう。
「リザーバーは用意してあるよ」
大会に先駆けて安倍は、東日本予選の準優勝者サンボの石井リカと西日本予選の準優勝者
ボクシングのミカ=トッドを呼び、勝者をリザーバーにするという約束で試合わせた。
安倍が扉を開けると、ウォーミングアップをするミカ=トッドの姿があった。
「準優勝戦の勝者であるミカがリザーバーだよ。同じボクシングだし」
「なるほど」
「ヘイ、とても光栄やねん。カンチョーナッチ」
「うん。ちょっと日本語おかしいね」
「…ですが、ミーも吉澤は来る思うザンス」
安倍はニコッと微笑んで、答えた。
「なっちもよ。そして、やっぱり日本語がちょっとおかしいね」
残り1分を切った所で、藤本が動き出した。
重々しい足取りで壇上に上がり、中央まで進んだ。
足を肩幅に開き、両の拳を腰から少し離した位置に構え、ゆっくり息を吐いた。
コオォォォォォォォォォォ……
静寂の続く会場に、その息吹が物々しく響く。その場の誰もが感じ取った。
藤本美貴が臨戦態勢に入ろうとしている。ビリビリと痺れを感じるほどに。
残り30秒。
控え室から辻希美が会場に戻ってきた。吉澤ひとみはまだ来ない。
石黒を訪れていた高橋愛が会場に戻ってきた。吉澤ひとみはまだ来ない。
リザーバーの準備から安倍なつみが主催者席に戻ってきた。吉澤ひとみはまだ来ない。
残り10秒。
田中れいなと道重さゆみは相変わらず会場の最上段通路で様子を眺めている。
藤本美貴の吐息が止まった。ギッと扉を睨む。
残り5秒。
4…
3…
2…
1…!!
そのときであった!
薄暗かった会場に、外の光が扉の中央からゆっくりと漏れ出す。
扉が開かれたそこに、光を受けて、一人の娘が立っていた。
第17話「主人公じゃない」終わり
次回予告
最強という名のベールに包まれた娘、藤本美貴、起つ。
そして、もう一人…
「この二人、ヤバ過ぎるぜ」
強すぎる女、と、強すぎる女。
次回、トーナメントに激震が走る!!!
「ここを通りてぇなら、なっち倒して通れよ」
To be continued