「何故、自分なんでしょうか?」
石黒を問い詰めているのは、ハロープロレスのデビルお豆こと新垣里沙。
ヒールレスラーだ。
傍若無人に暴れ周ったあげく、スター選手にやられることで場を盛り上げる役回りだ。
ただの一度も、勝利したことのないプロレスラーだ。
そんな彼女が数ヶ月前、社長推薦で入団してきた辻希美の教育係に任命された。
その辻と組んで、ハロープロレスのエースコンビ、ソニン・松浦と試合った。
結果は、当たり前だが負けた。
新垣はそこで松浦に足の骨を折られ、辻は社長に逆らい退団になった。
その後、辻は夏美会館に移籍した。
しかし新垣は辻に、とても大事なことを教わった。
『勝利への意思』である。
その意思を受け、たった一度ではあるが、あの松浦亜弥からダウンを奪ったのである。
勝ちたい、と新垣は思うようになった。
その想いでこの数ヶ月リハビリに励んだ。右足にはまだ痛々しいギブスが付いている。
「社長命令だ。セコンドは新垣ってな」
石黒彩からの返事はそれだけだった。
リハビリ中に突然呼び出され、セコンドをしろと言われたのだ。
しかもこんな大事な大会でだ。
「ソニンさんとか、松浦とか、他にも私よりイイ選手はいっぱいいるじゃないですか!」
「つべこべ言うな!行くぞ」
問答無用で石黒は立ち上がり、歩き出す。
新垣は慌てて後に続く。片足のギブスを引きずりながら。
「私なんかがセコンドやったら…縁起悪いのに…」
小声でぼやく。
通路の向こうからは、大観衆の声援が地鳴りのように響いてくる。
(私は一生かかっても、こんなステージには立てねえだろうな)
気が付くと石黒は立ち止まり、顔だけこちらに向けていた。
「よぅく見ておけよ。ハロープロレスの戦いぶりを」
「は、はい!そりゃ、もちろん」
前をゆく石黒の背中が、ひどく大きく頼もしいものに映った。
新垣はまだ理解できていなかった。
社長や副社長が、こんな大事な場にどうして自分を来させたのか。何を見せたいのか。
(1回戦はあんまり聞いたことねえ奴だったな…)
(でもそれに勝ったら、次はアイツ…)
新垣はかつての教え子のことを思った。
あの奇跡を垣間見て、もう自分とは違う世界に行ったのかと寂しくなった。
ウズッ…
まだ気づいていなかった。
辻希美のことを思うと、胸が妙にくすぶられること。
あんな風に輝けるはずがないという固定観念が、新垣にその想いを気付かせずにいた。
闘いたい…という本能。
「拳にヒビが入ってるって、あの子」
「…」
医務室から主催者特別席に戻ると、なっちは隣に座る藤本にそう言った。
藤本は無言でなっちを睨むと、何も言わず顔を戻した。
「でも、あの子は出る気マンマン」
「いいんじゃねえの。好きにさせりゃ」
「ん〜」
「それで戦えなくなるなら、そこまでの奴ってこった」
「冷たいのね」
「悪かったな」
「まだ機嫌悪いんだ。吉澤ひとみが来ないから?」
「別に。気にしてねえよ」
と言う藤本の足元には、捻り潰された空き缶がいくつも転がっていた。
(…相当、気にしてるみたいだべ)
会場が沸いた。派手なレスリングコスチュームを纏った石黒が入場してきたのだ。
「なっちさんよぉ。どっちが勝つと思う?」
「この試合?石黒」
「バカに即答じゃねえか」
「Aブロックでは彼女が頭一つ抜けてるもん」
Aブロック。辻、柴田、石黒、高橋のブロックのことである。
この4人の中では石黒の実力が群を抜いていると安倍なつみは言うのだ。
「なんだ?こっちからは辻が上がるって言ってなかったけ?」
「それは奇跡が起きたらって話よ」
「順当にいけば石黒か。まぁそうだろうな」
「ジョンソン飯田の影に隠れがちで、いまいち注目されてないけど
その実力は間違いなくトップクラス。強いよ」
「へぇ」
また、会場が沸いた。反対側から高橋愛が飛び出してきたのだ。
安倍なつみの表情が変わる。普段の笑みとは似つかぬ、冷たい刺すような視線だ。
それを藤本が横目に見る。
(他にいねーよな。安倍なつみがここまで敵意むける奴はよ)
(前の大会で紺野を負かして、自分の計画を潰した張本人だからか知らねえけどよ…)
(もし万が一、高橋が石黒を負かすようなことになったら、おもしれえかもしれねえな)
リング上で高橋愛と石黒彩が顔を見合わせる。
石黒の身長が約160cm。高橋の身長が約150cm。そこに10cm近い差がある。
体重も、放たれる威圧感も、石黒がはるかに大きい。
「石黒さん。手加減抜きでお願いしますね」
屈託のない笑みで話しかける愛に、石黒はまるで反応を示さない。
いつも優しいお姉さんだったことが、まるで嘘のようだ。
「お前では、私には勝てない」
ふいに、石黒が口を開き、そう言い放った。
愛は目を丸くする。過去の思い出が頭をよぎる。
「愛ちゃん、いいねぇ。高校出たらうちに来ないか?」
「愛ちゃんはどうなん?亜弥と闘る気はあるか?あるなら私が立ち会ってもいいぜぃ」
道場で一緒に稽古したり、時には悩み相談に乗ってくれたり、お姉さん的存在だった。
だけど今は「愛ちゃん」ではなく「お前」である。
道場のお姉さんではなく、石黒彩というプロレスラー、一人の対戦相手なのだ。
「それを証明してやる」
スッと石黒が腰を落とした。
愛はニコッと微笑み、高橋流の構えをとった。
(嬉しいの。石黒さんが私を敵として認めてくれたんやわ)
「今日、あなたを越えます」
愛が言う。
石黒は一瞬だけ表情を崩し、また元の仏頂面に戻った。
静寂が流れた。
石黒のセコンド、新垣は胸に手を当ててその戦いを凝視する。
高橋のセコンド、紺野はじっと黙って見守る。
そして試合開始の鐘が鳴った。
石黒が前に出て、左右のジャブを放つ。
ボクサーとして十分通用するほど見事なコンビネーションであった。
愛はそれを首だけで避ける。彼女にはこんなもの通用しない。
今度は愛が足を出した。石黒は咄嗟にガードを固める。
パパパン!
石黒の大きな体が、後ろにのめった。
観客席から思わずため息が漏れる。
風が流れる様な見事な三連蹴りだったのだ。
柴田の蹴りも速かったが、愛のスピードはその上をいっていた。
正月に行われた18歳以下トーナメント時の高橋愛とは比べ物にならない。
「速えな」
藤本は素直に呟いた。
隣で安倍なつみが僅かに眉をしかめる。
そんな安倍を見ながら、藤本は思った。
(石黒や矢口の様に、その強さが完成されている奴は確かに脅威だ)
(だけど、それ以上に恐ろしいのは、まだ完成されていない成長し続ける存在)
安倍なつみがもっとも恐れる者…
(もしかするとあの…高橋愛ってガキかもしれねえな)
第16話「もっとも恐れる者」終わり