小説「ジブンのみち」 part2

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270辻っ子のお豆さん ◆nono/jetwo
吉澤は構えた。柔術の構えだ。
相手の情報が何もない。空手か?柔道か?ボクシングか?レスリングか?
どんな格闘技を用いるのか?それとも格闘技ですらないのか?
何一つわからない相手だ。
しかしそれは向こうも同じである。迂闊に手の内は晒さない。
自分がボクサーであることを悟らせない。
それを知るか知らぬかにより、駆け引きに大きな差が生じる。
吉澤がボクシングの次に知っている格闘技は柔術だった。
身近に市井紗耶香、後藤真希という柔術の達人が揃っている。
最近では高橋愛という若き天才柔術家と拳を交えたこともある。
だから柔術の構えだ。
はっきりいって、その辺のヘボ柔術家よりは使える。

スッ…

白いマスクのチャンプオンは、拳を握り軽く腰を落とした。
デタラメな構えだった。まるで素人だ。
いや、それも敵をだます為の作戦かもしれない。信用してはいけない。

ジリッ…ジリッ…

少しずつ、少しずつ、間合いを縮めてゆく。
歯につくような緊張感だ。
(たまんねえな)
吉澤の口元に、ぞくぞくするような笑みが浮かび上がっていた。
271辻っ子のお豆さん ◆nono/jetwo :04/03/12 19:29 ID:e3NyLGHl
白いマスクが動いた。前に出てきた。
何の予備動作も、フェイントも、無い。まっすぐに向かってきた。
細く白い腕がまっすぐに伸びてきた。
(これは…)
物凄い速さであった。白いストレートが黒いマスクをかすめた。
(まるでボクシング…)
考えると同時に吉澤の体が動いていた。本能が動かせたのだ。
カウンター気味のストレートを放つ。
手応えがあった!…と思う間も無く、どぎつい衝撃が走った。
白い膝が、すごい勢いで吉澤の股の間を打ち抜いたのだ。
カウンターをもらったチャンピオンが後ろへ飛ぶ。急所への膝蹴りで吉澤が腰をかがめる。
一瞬、間合いが空いた。
(男だったら死んでるぜ…)
女の自分でもこれだけ痛い。だが痛がっている暇はなかった。
チャンピオンはすぐにまた向かってきた。
今度もボクシング流の右ストレート。
(コノヤロ、殴り合いで勝てると思ってんのか!)
いや違った。それはパンチではない。チャンプオンの白い拳から二本の指が伸びていた。
白い二本の指が凄い速さで、黒いマスクの二つの穴に走る。
黒いマスクの二つの穴にあるもの、吉澤の両目。
目突き!
カッと熱くなった。吉澤の胸にある何かが燃え上がった。

「うらぁ!!!」
272辻っ子のお豆さん ◆nono/jetwo :04/03/12 19:30 ID:e3NyLGHl
信じられない女であった。
コロシアムのマスターである寺田も。
豪華な観覧席でその戦いを見下ろす金持ち達も。
モニターで眺めていたアヤカも。
実際に目突きを放ったチャンピオンでさえも。
誰の予想も超えたことをその女――吉澤ひとみはやった。

向かってくる目突きに対して、顔を背けるどころか、逆に顔を突っ込んだのである。
そのせいで目測のずれた二本の指が、吉澤の頬に当たる。
勇気と呼ぶか、無謀と呼ぶか、信じられない回避方法であった。
さらに吉澤は止まらない。
頬に当たった指を押しのけて、さらに頭を前へもってゆく。

グシャ!!

吉澤の頭部が、チャンピオンの白いマスクにめり込んだ。
頭突き。
シンプルかつ強烈な一撃に、チャンピオンが揺らぐ。
顔を上げた吉澤はニィっと野獣の様な笑みを浮かべた。
もう遠慮はいらない。隠す必要も無い。

「決めるぜ」

頭突きのダメージでガードもままならぬ白いマスクに向けて、
ついに、世界一の右ストレートが炸裂した!
273辻っ子のお豆さん ◆nono/jetwo :04/03/12 19:31 ID:e3NyLGHl
チャンピオンの白いマスクに内側から血が滲む。
そこへもう一発、左フックを叩き込む。
(完全に決める!)
うなり声すら聞こえるようなアッパーカットが、チャンピオンのアゴを叩き上げる。
吉澤はチャンピオンの顔だけを集中して狙った。
(終わらせる!)
膝をついたチャンピオンの顔面に向けて、世界を制した左ストレート!
まさに凶器であった。鼻の骨が砕ける感触が拳に残った。
マスクを紅き血糊にぬらし、チャンピオンが地に落ちた。
吉澤は、その拳でガッツポーズを作る。
(勝った!)

ガシィ!

足首に違和感。…思った瞬間、吉澤はひっくり倒された。
血に塗れた白いマスクが、足首を掴んで立ち上がっていたのだ。
(嘘っ!あれだけ殴ったのに…)
不気味であった。感情がまるで感じられない。吉澤は背筋に冷たいものを感じる。
まぎれもない―――恐怖であった。
仰向けになった吉澤に向かって、チャンピオンが馬乗りになってくる。
(まずい…)
信じられない程のラッシュが、吉澤の頭上に降り落ちてきた。
両腕で頭部を庇うも、何発かは間をすり抜けてヒットする。
ラッシュの終わりを待つも、一向にその気配が来ない。
徐々に吉澤へダメージが蓄積されてゆく。
274辻っ子のお豆さん ◆nono/jetwo :04/03/12 19:32 ID:e3NyLGHl
強い。
吉澤は心底思った。
こいつは強い。
勝てない、とも思った。
殺さないように加減をしていたら、勝てないと。
だが、勝たなければいけない。
勝たなければ梨華ちゃんを助けることができない。
殺したくは無い。そういうことを平気でできる奴が一番嫌いだったはずだ。
だが、殺すくらいの気持ちでやらなければ、勝てない。
こいつは私を殺す気で来ている。それが痛いくらいわかる。事実、痛い。
さっきから死ぬ程、痛い。なんというラッシュだ。
私のパンチをあれだけまともに受けて、よくもこんなに動けるものだ。
そりゃ動くよな、殺らなきゃ殺られるんだ。
いいのか?
殺すくらいの気持ちで、私もこいつを殴ってしまって。
構わない。
そういうことを平気でできる奴…になってもいい。
それで勝てるのならば、いい。
梨華ちゃんを救うことができるのならば。
こいつを殺してもいい。
私が私を嫌いになっても、構わない!
さぁ、行け、ひとみ。
こいつを殺せ。
275辻っ子のお豆さん ◆nono/jetwo :04/03/12 19:33 ID:e3NyLGHl
チャンピオンの怒涛のラッシュを浴びながら、それは起き上がった。
黒いマスクが…血でビショビショになっている。
その黒いマスクの中から、不気味な咆哮が響いた。

獣の戦いが始まった。

白いマスクが黒いマスクを殴り続ける。
黒いマスクが白いマスクを殴り続ける。
四本の拳が幾度も交わり、離れ、交わり、離れ、交わり、離れた。
どちらも引かなかった。
テクニックも、スピードも、駆け引きも、何も無い。
ただの殴り合いだ。
どちらが先に相手を潰すか?
どちらが先に相手を殺すか?
それだけであった。そんな殴り合いが延々と続いた。
どちらも引かない。胸が痛くなる程、引こうとしない。
マスクの下がどんなことになっているのか、想像したくなかった。
黒いマスクが再び吼えた。
なんと叫んだのかは聞き取れない。石川梨華の名を叫んだのかもしれなかった。
黒いマスクの勢いが増した。信じられない体力だった。
白いマスクが徐々に下がってゆく。
黒いマスクが吼え続けた。
白いマスクの膝が落ちた。
黒いマスクはひたすらに殴った。殴り続けた。吼えながら殴り続けた。
白いマスクの背中が地べたについた。そして、動きが止まった。
276辻っ子のお豆さん ◆nono/jetwo :04/03/12 19:39 ID:e3NyLGHl
どうだ!どうだ!どうだ!
これでもか!これでもか!これでもか!
黒いマスクは倒れた白いマスクの上に馬乗りになった。
俗にマウントポジションと呼ばれる体勢だ。
そして、白いマスクの顔面に向けて、その拳をさらに叩き込んだ。
何発も!何発も!何発も!何発も!
検討がつかない。
どれだけ殴れば勝つのか?
どれだけ殴っても、また起き上がってくるような気がした。
お願いだから、もう起きないでくれ。そう願っていた。願いながら殴り続けた。
自分の血と白いマスクの血で、拳がグショグショになっていた。
誰かもう止めてくれ。そんな風にも願った。
普通の試合ならば、とっくにレフリィーが止めてくれる。
だが、ここには誰もいない。止めてくれる者は存在しない。
自分とこの白いマスクの二人きりだ。
二人きりで殴り合っているのだ。
いや、今はもう殴り合いじゃない。
黒いマスクが一方的に白いマスクを殴り続けているのだ。
起きるな。起きるな。起きるな。起きるな。起きるな。
止めてくれ。止めてくれ。止めてくれ。止めてくれ。止めてくれ。
願いながら、殴り続けた。
涙がこぼれていた。
泣いているのは黒いマスクであった。
涙をこぼしながら、拳をふるい続けた。
それは、あまりにも悲しすぎる光景であった。
277辻っ子のお豆さん ◆nono/jetwo :04/03/12 19:46 ID:fWXbyl1j
「ハアッ…ハァ…ハア…ハァァ…」

遂に、黒いマスクは動きを止めた。
そして自分の拳を見た。血にぬれていた。
(私が私を嫌いになっても…)
ゆっくりと立ち上がった。もう涙は止まっていた。

白いマスクは微動だにしない。
生きているのか、死んでいるのかもわからない。
彼女が何を想って、何の為に戦い、何を目指していたかもわからない。
もう、その全てを潰した。

「もう…いい…」

吉澤ひとみは静かに首を横に振り、その場に立ち尽くした。
コロシアムに静寂が舞い込んだ。

ピクッ…

ピクッとそれが動いた。
指であった。
白いマスクが赤い血にそまって、桃色に変色していた。
桃色の指がまた…ピクッと動いた。