第16話「もっとも恐れる者」
今大会は危険なルールである為に、怪我人も必須と予想される。
それ故になかなか立派な医務室と医師達が準備されていた。
敗者の柴田はもちろんのこと、勝者である辻も治療を受ける。
その様子を安倍なつみが見に来た。
(なにが…奇跡だ)
「右手にヒビが入っています。左腕の損傷も激しいですね」
医師による辻希美の診断結果であった。
あのフリージアとまともに撃ち合ったのだ、右拳がただで済むはずが無い。
同様に間接を決められたまま強引に持ち上げた左腕、これも正常なはずがない。
(奇跡なんかじゃない。自分の体を限界まで酷使して、ようやく掴めた勝利だ)
(そうしなければ…とても勝てなかった)
安倍が心配そうに見ていると、辻が弱々しく微笑んだ。
「医師の立場としては、これ以上の試合はお勧めできない」
「だってさ。のの」
辻はブルンブルンと首を大きく横に振る。彼女は止めても出るだろう。
自分の立場として、どうするべきだろうか?なっちは考えた。
(ののの気持ちを酌むべきか…今後の選手生命を考えて、止めるべきか)
10分足らずの休憩時間を挟み、一回戦第二試合が始まる。
ハロープロレスの石黒彩と高橋流柔術の高橋愛の試合である。
今大会は選手一人一人に専用の控え室が準備されている。
愛は自分の控え室で、ソワソワと動き回っていた。
「少し落ち着いたら」
紺野あさ美が言う。
彼女は夏美会館の門下であるにも関わらず、今回愛のセコンドを引き受けてくれた。
打倒安倍なつみ、という彼女なりの意思表示なのかもしれない。
「だってだって、吉澤さん来てえんのやよ。心配でしょ」
「人の心配をしている場合じゃ無いよ」
オーバーアクションで愛が訴えるも、紺野の方が正論である。
「他の事に気を取られながら勝てる相手ではないよ。ハロプロの石黒さんは」
「そんなの…よく知ってる」
石黒彩は、愛がまだ高校生の頃、よく道場へ柔術を学びに来ていた。
何度か組手もしたが、まったく歯が立たなかった。道場生の中でも一番であった。
あれから数年の月日が流れている。
「集中しなきゃ…勝てないよね。うん、わかった」
「うん。吉澤さんのことなら、小川さん達がきっと何とかしてくれるよ」
青いスポーツカーが車道を飛ばす。
運転席に市井紗耶香、助手席に小川麻琴が乗っていた。
二人とも吉澤ひとみに関係を持つ娘である。
開会式に吉澤が来ていないことを知り、安倍なつみに第三試合まで待つという条件を付け、
吉澤ひとみを探すため、こうして飛び出してきたという訳だ。
スポーツカーが急ブレーキして停車する。目的の場所、吉澤の家に到着したのだ。
飛び出して玄関に駆け寄った小川がまず異変に気付く。
「あれ、玄関の鍵かかってないっすよ」
「開けろ」
家の中に入ると、異変はさらに拡大していった。
無造作に落ちてある買い物袋、その中から白いブラウスが顔を出している。
テーブルには作ったままのトンカツが、手付かずのまま置かれてある。
「何だ何だ何だぁ〜?メシも食わねえでどっか行ったんすかね?」
「そんな単純じゃなさそうだ。見ろ」
市井が床を指す。カーペットに靴の後が残っていた。男物と女物だ。
吉澤以外の誰かが土足で上がり込んだと思われる。
「もしかして、誘拐事件っすか?」
「あいつがその辺のコソドロにやられるとは思えない。もっと嫌な予感がする」
「石川さんもいないっすね」
「ん、ああ、そういえば」
自分で口に出して小川は思い出した。
「あっ!石川さん!前に変な奴らにさらわれたことあったなぁ」
「誰に?」
「あのメロンって奴等。ほら、大会に出てる柴田あゆみとその仲間達っスよ」
「そんな大事なこと、今頃言うなよ!」
「だってメロンの奴等、全員会場にいたし…あれ、じゃあ違うのか?え〜?」
「ちょっと落ち着け」
「落ち着けねえよ!アニキが心配じゃないんスか!?」
市井が苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべる。ここで口論したところで何も始まらない。
だが、吉澤達の身に何かが起きているのは間違いないようであった。
「…あいつを信じよう」
「信じるって、アテはあるんスか!」
「アテか…」
市井の脳裏に一人の娘が浮かぶ。限りなく儚いアテではあるが…。
(吉澤があいつとの約束を破る…はずがない)
「大会間に合わなかったらどうするんすか?アニキはこの日の為に…」
「そのときは…吉澤ひとみはそこまでの女だったということだ」
市井の言葉はきつく、しかし信頼に満ちた言葉であった。
時計の針は午後2時を回っている。
約2時間前。
時計の針が12を指そうとしている頃。
地上の武道館では、まさに最強を掛けたトーナメントの幕が上がろうとする頃だ。
地下深く、コロシアムの前に彼女はいた。
動き易いシャツとボクシングパンツに身を包んでいる。
吉澤ひとみである。
両の手はグローブに包まれてはいない。完全な素手だ。
ヘビー級ボクサーの素手の拳は、それだけで人を破壊しうる凶器となる。
「準備はいいですか」
隣に立つ、世にも美しい女性が言った。
吉澤をここに案内したアヤカという女性だ。
吉澤は軽く頷いて応える。
するとアヤカは頭部全体を覆う黒いマスクを取り出した。
「コロシアムの決まり。全てのファイターがこれの着用を義務付けられています」
「ふぅん、変な決まりがあるんだね」
文句を言いながらも吉澤はそれに従う。
目と鼻と口と耳の箇所に通気の穴が開いていた。
思った程、被り心地は悪くない。
これなら戦闘にはほとんど影響は無さそうだ。
「どうぞ」
アヤカが鏡を用意していた。
そこに映る自分を見て、このマスクの意味が何となく理解できた。
通常の試合の場合、相手の顔や経歴はたいてい事前に知ることができる。
対戦相手を心から憎むというケースは少ない。
むしろ、同じ道を志す同士として共感や尊敬を抱くことの方が多い。
さんざん殴りあった選手同士が試合後、互いを賞賛し抱き合うシーンはよく見られる。
だが、ここは違った。
マスクで顔を隠した自分が、まるで人では無い様に映った。
相手の素性も知らない。
互いにマスクを被ることによって、顔すら知ることはできないのだ。
対戦相手に、情も尊敬の念も持つことは無い。
ただ倒すだけの、ただ破壊するだけの、ただ息の根を止めるだけの、敵でしかないのだ。
「怖いな」
「向こうもあなたのことを知りません。条件は同じですよ」
「そんな素性も知らぬ相手を倒し続けた、チャンピオンなんだろ」
「…ええ」
「やっぱり怖い…が、やり甲斐はある」
「やり甲斐?」
「一番嫌いなタイプなんだよ、そういうこと平気で出来る奴」
そう言って、吉澤は足を踏み出した。
闇の最も深遠たる血塗られた死闘場(コロシアム)へと。
「レディースアンドジェントルマン、ようこそおいで下さいました。皆様」
コロシアムのマスター寺田の挨拶。
そこに集まった人々は尋常な者たちではなかった。
身に着けている物がすべて億の価値ではないかという風貌であった。
「驚いたぞ。昨夜、急に開催の連絡が入ったときは」
「しかも挑戦者が世界チャンプのヨシザワだというではないか」
「私は、ありとあらゆる予定を全てキャンセルしてきましたよ」
「ハハハ、俺もだ。決まっとる」
「見逃せる訳がなかろう。こんな贅沢なイベントを、のぅ」
彼らは口々に好き勝手言っていた。いずれもが裏社会に名を轟かす名士達である。
寺田は、この様な者達を相手にのしあがってきたのだ。
「ご承知のとおり、本日の対戦はコロシアム創立以来、最高のカードです。
我等が誇る無敗のチャンピオンに、挑むはご存知、表社会のチャンピオン!
UFAボクシング世界ヘビー級王者、吉澤ひとみ!」
舞台調に寺田が名士達の気持ちを高ぶらせる。
この一戦で何十億、ヘタすれば何百億という金が動くのだ。
声のトーンを落とし、寺田は続けて囁く。この上なく闇に満ちた表情で…。
「さらに、本日は、特別な趣向もご用意しております…」
「レディースアンドジェントルマン、ようこそおいで下さいました。皆様」
コロシアムのマスター寺田の挨拶。
そこに集まった人々は尋常な者たちではなかった。
身に着けている物がすべて億の価値ではないかという風貌であった。
「驚いたぞ。昨夜、急に開催の連絡が入ったときは」
「しかも挑戦者が世界チャンプのヨシザワだというではないか」
「私は、ありとあらゆる予定を全てキャンセルしてきましたよ」
「ハハハ、俺もだ。決まっとる」
「見逃せる訳がなかろう。こんな贅沢なイベントを、のぅ」
彼らは口々に好き勝手言っていた。いずれもが裏社会に名を轟かす名士達である。
寺田は、この様な者達を相手にのしあがってきたのだ。
「ご承知のとおり、本日の対戦はコロシアム創立以来、最高のカードです。
我等が誇る無敗のチャンピオンに、挑むはご存知、表社会のチャンピオン!
UFAボクシング世界ヘビー級王者、吉澤ひとみ!」
舞台調に寺田が名士達の気持ちを高ぶらせる。
この一戦で何十億、ヘタすれば何百億という金が動くのだ。
声のトーンを落とし、寺田は続けて囁く。この上なく闇に満ちた表情で…。
「さらに、本日は、特別な趣向もご用意しております…」
床は固い土で覆われている円形の闘技場であった。
壁はすべて灰色のコンクリート、天井はかなり高い。
2階部にガラス張りの窓がある。こちら側からは向こうが見えない。
向こうからはこちらが見えていて、悪質な金持ちどもが笑っているのかもしれなかった。
だが吉澤にとってそれはたいした問題ではなかった。
問題は「対戦相手を倒して石川梨華を救う」の一点のみ。
(どんな化け物か知らねぇけど。かかってこいよチャンピオン)
反対側の扉が開いた。
静かに、そいつはやってきた。
頭部は白いマスクで覆われ、体全体は白いタイツの様なものに包まれていた。
体のラインがありありと見て取れる。
胸の部分が僅かに膨らんでいた。
(こいつがチャンピオン!…女か)
細い。腕も、足も、腰も、首も、あらゆる部分が細かった。
だがそれは弱々しい細さではない。
硬い針金を幾重にも絡めた上に完成する様な、絞りぬかれた細さであった。
白いマスクが、じっとこちらを見ていた。
吉澤も黒いマスクの中で、白いマスクを睨んだ。
二人とも言葉を一切発さない。
(なるほど…人間を相手にしてる様な気にならねえ)
二つの扉が同時に閉まる。
もう逃げ場はない。この狭い空間にただ、二人きり。
そしてこれがコロシアム、始まりの合図でもあった。