入場口に辻希美は立っている。
周りには誰もいない。安倍なつみは主催者で、藤本美貴は選手だ。
思えば、夏美会館に入ってからこの二人以外との交流はほとんどなかった。
自分が夏美会館代表として選ばれたことに不満を持つ者も、少なからずいるであろう。
もうすぐ名前が呼ばれる。
足が震えていた。
さっきからずっとだ。
試合というならばハロープロレス在籍時に幾度かの経験がある。
だが、今日のそれは今までのどれとも違った。
負けたら終わり。
やり直しはきかない。その人間に敗北の烙印が下されるのだ。
地上最強…その道が閉ざされるのだ。
「くふぅ」
息を吐いた。同時に声が漏れた。
柄にもなく緊張している。こんなにも怖いものだとは思わなかった。
そう、敗北の洗礼を受けるのは自分だけではない。
自分が所属する夏美会館の敗北、自分を選んだ安倍なつみの敗北に繋がる。
それが怖い。
館長推薦者がみっともない負け方をする。安倍なつみは見る目が無いと人々に罵られる。
それが怖かった。
足の震えが、どうしても止まらなかった。逃げ出したくなった。
(そうだよね。ミキティがいるんだし…ののなんかいなくても…)
辻希美は回れ右をしかけた。その振り向いた先に、空手着の女性が数人立っていた。
「なんて声を出している」
先頭の女が言った。辻は振り向きかけたまま固まった。
里田。一昨年の夏美会館全国王者である。
その横にも知っている顔が二つ。本部の戸田と北海道支部の木村。
いずれも全国大会では毎年ベスト4かベスト8には食い込む強豪である。
さらにその後方には若い顔が見える。
この所メキメキ腕をあげていると評判高い静岡支部の斉藤だ。
「み、皆さん。どうしたんれすか…?」
「お前に言いたいことがあってな」
木村が言った。続いて戸田が口を開く。
「お前の出場は館長が決めたこと、我々が口を挟むことではない」
「だがな、私達は認めないぞ」
「…里田さん」
「もしここで負けたら、私達はお前を絶対に認めない」
…認めない。里田の言葉が辻の胸を強烈にえぐった。
そして、里田の拳がきつく握り締められていることに、辻は気付く。
(あぁそっか。出場したかったのは自分だけじゃない。みんな、みんな…
最強を目指して夏美館にいるのれす。なのに…ののは…選ばれたくせに…逃げようと…)
唇を噛んだ。
みんなの気持ちに応える為できることはひとつ…勝つことだけ。
「ののを殴ってくらはい!」
目にいっぱいの涙を溜めて、辻は叫んだ。その勢いに戸田や木村は思わずたじろぐ。
すると後ろから、まだ一言も発していなかった若き空手家が身を乗り出してきた。
「そういうことでしたら、わたくしにお任せあれ」
「おい、みうな」
止める木村の声にまるで耳を貸さず、右から左へ流れる様な正拳突きを放つ。
遠慮のない一撃であった。辻の頬が赤く膨らむ。
右を向いた辻が正面に顔を戻し、また吼える。
「まだまだぁ!」
ブゥンと、今度は左から右で裏拳を当てる。みうなの拳には少しの容赦もない。
「入りましたか?」
コクンと頷く。正面を向いた辻の頬は両側とも赤く腫れあがっていた。
気合が…入った。
「行きましょうか。私がセコンドをしてさしあげますわ」
戸田と木村と里田はホウと思った。決して他人に媚を売らぬあの斉藤が自分から。
辻希美はニコッと笑んだ。そして歩き出した、前へ。
一回戦第一試合
柴田あゆみ(フリー)21歳
対
辻希美(夏美会館空手)18歳
怒号の様な大歓声。その中を、二人の娘が向かい合い立っていた。
柴田あゆみと辻希美だ。
身長差は約5cm。柴田が高い。だが間近で並ぶと数字以上の開きを感じる。
柴田は無地の胴着を。辻は夏美会館と記された空手着を着用していた。
互いに言葉を交わすことはない。
試合場は、プロレスのリングとは違いコーナーもロープも無い。
ルールはバーリ・トゥード。ポルトガル語で「何でもあり」を意味する。
禁止されているのは「目突き」と「噛み付き」だけ。
敗北条件はダウンしての10カウント、ギブアップ表示、ドクターストップ、
セコンドからのタオル投入、以上の4つである。
試合時間は無制限。引き分けや判定は無い。
そういうトーナメントである。
柴田あゆみのセコンドがメロンのボス斉藤瞳。
辻希美のセコンドが夏美会館の斉藤みうな。
奇しくも同じ姓を持つ者同士となった。
二人とも余計な口出しは無用と感じていた。試合場に立つ選手を信じるのみである。
主催者特別席で、安倍なつみが見ていた。
その隣で、藤本美貴が見ていた。
観客席最上段で、田中れいなと道重さゆみが見ていた。
選手控え室のモニターで、高橋愛と石黒彩と矢口真里が見ていた。
ゴングが鳴った。
まず柴田が動いた。
辻を中心に円を描くよう、ゆっくりとゆっくりと動き始めた。
それに合わせて辻が体を動かす。常に正面を向くように。
――ッ!
突如、柴田の右足が消えた。同時に辻の小さな体が後方にぶれた。
蹴りだ。消えたと錯覚する程の速度。柴田の右足が辻の脇腹を狙ったもの。
腕でガードしていなければ倒れていたであろう、物凄い威力であった。
続けざまに柴田は左足で蹴りを狙う。
それを悟った辻はすぐにガードを固める。
これが罠であった。
蹴りの振りをした左足をすぐに戻すと、柴田は低空姿勢で前に出た。
タックル!
気付いた辻が、すぐに拳を横になぎ払う。
が、それよりもさらに低く、柴田は辻の左足を抱え込んだ。
辻が倒される。
柴田が左足を抱えたまま、辻の左手首を掴み取った。
開始早々、寝技の攻防。柴田の作戦通りに進んでいた。
辻のグラウンド技術はハロープロレス在籍時に学んだものが全てだ。
それも短期間であった為、万全であるとは言いがたい。
逆に柴田は上手かった。身近に関節技のスペシャリスト斉藤瞳がいたのが大きい。
十秒、二十秒、リング上で二人はもがき合った。
完全に左腕を取ろうとする柴田、取られまいとする辻。
腕を取られればその時点で試合終了である。ギブアップするか、折られるかだ。
腕が折られたら…もう試合にはならない。
――――――――――その腕を、柴田がついに捕えた。
腕ひしぎ十字固め。
完全に決まった。どんなにもがこうともう外せない。
ミリィという音がした。骨が軋む音だ。辻の顔が激痛に歪む。
「あっけない幕切れだったな」
「やっぱり柴田か」
客席からの声。開始からまだ1分も経ってない。
これほどまで実力に差があるとは誰も予想していなかった。
いや、ここは柴田を褒めるべきだろう。
打撃から、フェイント、タックル、寝技、決め、全てにおいてムダが無い。
辻が何もさせてもらえなかったのだ。
柴田のセコンド、斉藤瞳は勝利の笑みを浮かべる。
辻のセコンド、みうなは対照的に顔をしかめた。タオルを握る手に汗がこびり付く。
まだ辻はギブアップをしない。
辻を攻めることはできない。柴田が強すぎた。想像以上に強すぎたのだ。
もう選択肢は残っていない。ギブアップするか、ギブアップをせず腕を折られるかだ。
「んぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぃぃぃぃぃぎぎぎぎぎぎぎぎぃぃぃ…」
苦悶の声。歯をむき出しに辻の苦悶の声が響く。
ミリミリィミリィという音。骨と骨が軋みズレル音。想像を絶する激痛。
それでもまだ辻はギブアップをしない。
「もう勝負はあったのに何故?」と、会場中の観客が疑問を浮かべた。
ここから数十秒の間に起きた出来事を、のちに人々はこう呼ぶ。
奇跡、と。
体が浮いていた。柴田あゆみの体がだ。
何事か?と柴田は思った。
間接技を掛けられている左腕だった。辻希美の左腕だ。
その左腕が柴田あゆみの体を持ち上げようとしているのだ。
理屈では分かる。無理だ。
しかし現実、柴田は確かに左腕一本の力で持ち上がっているのである。
腕力が強い、というレベルの話ではない。
そんなことがあってはいけないのだ。
少なくとも自分が教わってきたグラウンドの技術には、存在していない。
関節技を完璧に決める――――そこが終着駅なのである。
(こんなことがあって…)
「んぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぃぃぃぃぃ!!!!!!!」
不可能が現実になる。左腕がその腕力のみで、自分より大きい人間を持ち上げた。
そのまま辻は左腕を柴田あゆみごと、反対側の床に叩き付けた。
そして右の拳を握り締め、振り下ろした。
柴田は慌てて腕を放し、間一髪で辻の突きをかわした。
同時に立ち上がった二人は、再び向かい合う。
辻は左腕をブランと垂らし右腕のみ構えをとっている。
柴田は叩き付けられたダメージがまだ残っており、全身が重く感じた。
いやそれはダメージのせいだけではない。そう、恐怖だ。
(馬鹿な…私が…恐怖を感じている…)
(そんなはずはない。そんな感情はあそこで、あの場所で捨ててきた!)
柴田あゆみの表情が変わった。気の質も変わる。
それは「試合に勝つ」というより「相手を叩き伏せる」という感情に近い。
『殻を破った柴田あゆみは…強いですよ』
アヤカが吉澤に言った。その殻を…今、破った。
あの無表情な柴田あゆみが、牙を剥き出しにして辻希美に迫る。
来る!誰もが悟った。柴田あゆみ最高最強の必殺技!
フリージア!
回避不能。一撃必殺。試合序盤の蹴りとは速さも、破壊力も、歴然に違う。
そのフリージアに一筋の閃光が立ち向かう。
(拡散する力を一点に集中…)
あの夜、安倍なつみに一本一本指折り、教わったもの。
辻希美の正拳!
そいつが柴田あゆみのフリージアに真っ向から挑みかかった!
「ああああっ!!」
赤き純潔と一筋の閃光の激突。
もの凄い強度の物体が砕ける音。その音が会場に響き渡った。
正拳を突き出したままの姿で固まる辻。
ハイキックの体勢で固まる柴田。
場内に静けさが満ちる。
ガクン。
膝から崩れ落ちたのは―――柴田あゆみであった。
さっきの音。あれは柴田の脛が破壊された音だったのだ。
倒れた柴田に向かって、さらに辻は拳を振り上げる。
まだ向ってくる!辻の闘争本能がそう反応させたのだ。
「そこまでーーーーーーーー!!!!」
レフリィーが間に入って、辻を止める。
見ると、柴田側のセコンドからタオルが投入されていたのだ。
もう闘えない。斉藤瞳の判断であった。そしてその判断は正しかった。
「勝者!!辻希美ぃぃぃぃ!!!!!」
高らかにコールされる自分の名前を聞いて、ようやく辻は我に返った。
強く握り締められた自らの拳を見つめると、今度はそれを高々と振り上げる。
それに呼応する様に、会場全体から辻希美の名が何千何万となって叫ばれた。
人々の興奮は早くも最高潮に達していた。
そう、彼らはその目でまのあたりにしたのだから。
辻希美という名の「奇跡」を。
一回戦第一試合 勝者 辻希美 1分27秒 TKO
第15話「開幕」終わり