第15話「開幕」
この日、武道館は超満員に膨れ上がっていた。
最強の女を決定する、夢の異種格闘技トーナメント当日である。
格闘技ファンのみならず、一般層までが期待と波乱に胸を高鳴らせている。
ところが…波乱は思わぬ所で実現していた。
「吉澤が来ていないって!」
「押忍、家や知り合いに連絡しても繋がらないそうです」
大会の主催者でもある夏美会館長、安倍なつみが顔をしかめた。
運営を手伝う夏美会館の戸田の報告は、まさに寝耳に水だった。
「嘘でしょ、あの吉澤がぁ。一体どうしたっていうんだよぉ」
「館長、いかが致します?」
戸田が尋ねる。
時計の針はすでに開幕10分前を差している。
溜息をついて、安倍は答えた。
「…やれやれだよ」
『選手入場!!』の合図で、暗闇に包まれた武道館に一点の光が差す。
入場ゲートに、モデルの様にスラリと立つシルエットが写された。
待ちわびた歓声が響く。
『戦慄のハイキック再び!柴田あゆみ!!』
入場ゲートから幾筋ものスポットライトを浴び、柴田入場。
これまでの無表情に、鋭い眼光が加えられていた。
闇に生きた女の、人生を変える戦いが始まる。
『元プロレス!今は空手!!安倍なつみの切り札!辻希美!!』
小さなシルエットから元気印の娘が飛び出してきた。
観客に投げキッスを振る舞い、柴田とはまるで好対照な入場。
『打倒夏美館!ハロープロレスからの刺客はなんとあのクロエ!石黒彩!!』
風格。その佇まいにはそんな物すら感じさせる圧力が備わっていた。
派手なコスチュームを纏い、高々と拳を上げる。
早くも勝利宣言、優勝宣言である。
『実践柔術が生んだ華麗なる天才!!いざ頂点へ!!高橋愛!!』
端正なマスクを惜しげもなく崩した笑顔で、高橋入場。
まだあどけなさが残った前大会と比べ、少し大人びた印象を受ける。
それは時間のせいだけでは無い事が、この後証明される。
『向かう者は全員返り討ち!夏美館最強の象徴!!藤本美貴!!』
空気が変わった。
現れた藤本の表情が、今まで見たことも無い程の怒りに満ちていたからだ。
そしてその理由はすぐに明かされる。
『ダークホースとなるか!今大会最年少!若干15歳!田中れいな!!』
勘のいい観客が戸惑いの色を見せ始める。
抽選番号順でコールされていたはずが、何故か一人飛ばされたからだ。
当の田中は我関せずといった面持ちで入場ゲートをくぐる。
『あのYAGUTIがついに総合格闘技参戦!!矢口真里!!』
柔道着を着込んだ火の玉娘が飛び出す。
最年少の田中よりさらに一回りは小さく見えた。しかし声と態度は一番大きい。
こうして中央のリングにズラッと7人が並び立つ。
だが会場はまだ騒然としていた。
――――吉澤ひとみがいない!!
誰もがそのことに気付いていたのだ。
「――皆さんに、残念なお知らせがあります」
そのときであった。入場ゲートから安倍なつみの声が聞こえたのは。
「どうやら吉澤ひとみは…夏美会館に負けるのを恐れて逃げ出したみたいです」
一斉に不満の声があがる。当然だ。
藤本vs吉澤は1回戦最注目、事実上の決勝と語る専門家すらいる夢のカードだ。
選手たちの中にも動揺を浮かべる者がいる。
「嘘やろ、あの吉澤さんが…」
高橋愛が呟く。
直接拳を交えた公園で、そして摩天楼で、吉澤の勇敢さを見た。
(あの人が、逃げ出す訳ない!)
しかしなっちは残酷にも続ける。
「本当に残念だけど、リザーバーを使うことに決め…」
「待て!!」
突然、なっちのマイク音を掻き消す程の大声があがった。
その主が観客席から入場ゲートへ強引に上る。
警備の男たちがただちに取り押さえにはいるが、声の主はそれを軽くいなす。片腕で。
「あれって、市井」「柔術の市井だ」
観客がざわめく。
かつてその類まれなる柔術の技で格闘技界を席巻した女、市井紗耶香であった。
その市井が安倍なつみの前に立ちはだかったのだ。
「あら、懐かしい顔」
「安倍…」
この二人、因縁があった。
市井が全盛期で勝利を収め続けていた頃。
安倍が夏美館を設立し名をあげていた頃。
激突したのである。
柔術vs空手。壮絶な戦いであった。
敗者は名声を失い、日本を去った。
勝者は自分とその組織を一気にメジャーへと押し上げたのだ。
敗者が市井紗耶香。勝者が安倍なつみであった。
その二人が、実に数年ぶりに顔を合わせたのである。
「ウフフ。もしかして、リザーバーでも申し込みに来た訳?」
「そんなもんいらん。戦うのは吉澤だ」
「でも、いないんじゃ無理よね」
「あいつは必ず来る!」
市井が吼えた。
「そいつの言う通りだ!アニキは逃げたりしねえよ!!」
すると、別の所からも声があがった。
講道館の小川麻琴だ。彼女もゲートに登ってきた。
吉澤の後輩である彼女も、吉澤という人物をよく知っている。
「私からもお願いします!!もう少し待ってあげて下さい!」
今度はリングの上から声。
高橋愛だ。我慢できずに前へ進み出ていた。
「やれやれ、ずいぶん人望があるのね」
なっちは困った笑みを見せる。
市井、小川、高橋の真剣な眼差し。そこへまた新たな声があがった。
「第三試合が始まるギリギリまで、猶予をくれ。館長」
藤本美貴!彼女の口から出たトンデモナイ台詞に皆が驚く。
対戦相手が直々に願い出たのだ。
なっちまでもが目を丸くして驚いた。そしてその驚きを笑みへと変える。
「しょうがないわね。ギリギリまで待つことを許可します」
喜びの声は会場全体で聞こえた。皆、吉澤ひとみの闘いを見たいのだ。
市井はなっちに軽く礼をすると、すぐに会場を飛び出していった。小川も続く。
(ミキティが「館長」って言った)
辻だけひとり違う所に感想を浮かべた。藤本が真剣な所、初めて見たからだ。
(吉澤って人、来てほしいな。ミキティの本気の試合、見てみたい…)
開会式が終わり、愛はすぐに会場を飛び出した。
関係者出入口付近で小川は携帯電話をいじりまわしていた。
「どう?」
「ダメだ、くっそ!アニキの携帯ずっと圏外だ。何処行ったんだぁ?」
「何かあったんじゃ…」
そのとき、青いスポーツカーが物凄い勢いで前に止まった。
片腕で器用に運転する市井が、窓から顔を出す。
「お前も乗るか!?吉澤の家に行く!」
「は、はい!」
「私も…」
「馬鹿!愛は選手だろ!!任せとけ!!」
麻琴が愛の胸をドンと叩き、青いスポーツカーに乗り込んだ。
「愛!負けんなよ」
そう言い残し、二人を乗せた青いスポーツカーは物凄い速さで走っていった。
残された愛は、空にまだ決着を付けていないライバルの顔を浮かべた。
(吉澤さん、何してるんやって!)
――――――――ここで時間は昨夜に遡る。