「よっしー、おそいなぁ」
何度も確かめた、時計の針は午後7時を回っている。
「勝負にカツ」と寒い願いを込めて作ったトンカツが、冷えかけている。
石川梨華は部屋に一人、ため息をおとした。
(市井さんの所、千葉だし…遅くても仕方ないよね)
自分自身に言い聞かせる。
そして、はりきって造りすぎた料理の数々を眺めまわす。
(ウフフ。このご馳走見たら、どんな顔するだろ)
幸せだった。
石川は今、幸せだった。
吉澤と共に暮らし、彼女を応援するだけの生活が。
(うん、悪くない…)
コンコン…
そのノックの音は唐突だった。
最初はよっしぃーが帰ってきたんだと思った。
立ち上がって、扉に駆け寄る。
ドアノブが静かに回る。
「よっしぃー!おかえ…」
石川の顔に張り付いていた笑みが、次の瞬間、消えた。
異質な男だった。
スーツも、ズボンも、靴も、顔つきも、金髪の髪も、その存在自体が異質であった。
この平穏でありふれた日常の中に、ひどく似つかわしくない男だった。
その男がズカズカと部屋に入り込んできた。
「あ、あ、あ、あ…」
「えろうひさしぶりやのぅ」
男の口から出た関西弁、それさえも異質であった。
石川は小刻みに震えていた。それは尋常な怯え方では無かった。
「お、上手そうなトンカツや無いか。どら、一個もろた」
「あ、あ…」
よっしーの為に作ったトンカツ…。
それさえも言葉にはならなかった。
男は、勝手に部屋に上がり込むと、テーブルのおかずを勝手に物色しだした。
トンカツを口に含むと、勝手に眉をしかめる。
「イマイチ…いやぁイマサンってとこやのぅ」
「…どうして、ここに?」
ようやく石川が吐き出した言葉が、それであった。
男は口端を持ち上げ、嫌な笑みを浮かべる。
「どうしてやあらへんがな。俺が梨華をほっとく訳ないやろ」
「寺田さん…私は…もう」
「そや、俺は寺田や。そしてお前は石川梨華や。よもや忘れたとは言わさへんで」
寺田と名乗る異質な男は、馴れ馴れしく石川の肩を抱き寄せた。
石川はどうしようもないくらい震えていた。
「今の生活、楽しいんか?」
「…はい」
「幸せですか?」
目にいっぱいの涙を溜めて、石川は大きく頷いた。
すると寺田は石川の肩に腕を掻けたまま、アハハハと笑い転げた。
大粒の涙が、石川の目から今にも溢れ出そうになる。
耳元に触れるくらいの距離で、寺田は囁き変えた。
「忘れたんか?お前は、一生、幸せになったらあかん女やろ」
涙が石川の頬を伝い落ちた。
掻き消えそうな声で、石川は言った。
「…忘れてません」と。
寺田は、憎らしい笑みを浮かべると、石川の腕をとった。
「よっしゃ!ほな、行くで」
玄関の向こうには黒塗りの高級車が止まっていた。
運転席に黒いスーツの男。そして助手席には世にも美しい女性が座っていた。
石川はその美女を知っている。美女は車を出ると、後部座席の扉を開けた。
「どうぞ」
「ほら梨華。乗りいや」
寺田に背中を押され、石川は思わず前につんのめる。
ズンと、重いナニカが背中に圧し掛かった。
(この重圧…私はまた…またあの生活に…)
後ろを振り返ると、吉澤と共に過ごした家が見える。想い出の数々が蘇る。
たまらなくなり石川の頬にまた、涙が落ちる。
それを見た寺田が嬉々として言う。
「なんや?吉澤ひとみが恋しいんか?」
寒気が走った。何よりもこの男の口からよっしぃーの名が出たことに。
「なんなら、吉澤も連れてきたろか」
「ダメ!それだけは…それだけはやめて!お願い!」
「おい」
寺田は美女を呼び寄せ、ナニカを耳打ちした。美女は首だけで返事する。
「ダメ!連れてきちゃダメ!よっしぃー!来ないで!」
うあおおおお 更新来てた!
美女?誰でしょうか?気になるう
(ちぃっと遅くなったかな?梨華ちゃん、怒ってるかも)
駅から続く商店街の道を、吉澤ひとみは大きな紙袋を抱えてニヤニヤと闊歩していた。
(でも、これ見たら喜んでくれるだろ?)
紙袋の中には、白いブラウスといっぱいの幸せが詰まっている。
「明日はこれ着て応援に来て、…なんてね」
髪を掻き、どうにもだらしない笑みをこぼす。
とてもボクシング世界チャンピオンには見えやしない。
商店街をこえて住宅街に入ると、もう家はすぐそこだ。
吉澤はいつもの調子で、いつもの様に、いつもの家の扉を開けた。
「たっだいまぁー!遅くなってごめん!いやー腹減っ…」
吉澤は一瞬、家を間違えたのかと思った。
見たこともない美女が居間に立っていたから。
(梨華ちゃん)(違う)(知らない人)(知らない家?)(いや…ウチだよ)
混乱する吉澤を尻目に、美女は懐からナニカを取り出してテーブルに載せた。
札束であった。
「これはマスターから。お世話になった分だそうです」
「ハァー?お世話?」
「ええ、石川梨華さんが、こちらでお世話になりましたから」
吉澤の目つきが変えるには、十分な台詞であった。
「梨華ちゃんは…何処だ?」
「マスターの元に帰りました。ですから、これは、そう…」
「…」
「手切れ金」
美女が妖艶な笑みを浮かべる。
手にしていた紙袋が落ちると同時に、吉澤は前に飛び出ていた。
空を裂く様なジャブが、妖艶な美女の顔面スレスレにて止まる。
美女は表情ひとつ変えることなく、言った。
「噂以上ですね。反応できませんでした」
「何者だお前。金なんかいらねえよ。とっとと梨華ちゃんを返せ」
「それは無理な相談…と言いたい所ですが」
「いいから。私が本気でブチぎれる前に、言う通りにしろ」
押し殺した声で囁く吉澤。美女の顔から笑みが消える。
「たいした殺気だ。私では、とうていあなたには太刀打ちできないでしょう」
「…早く」
「賢明な判断を。私を殴れば、永遠に石川梨華は戻らないでしょう」
「…!」
「ウフフ」
美女はツッと後ろに下がると、玄関の方へ歩き出した。
吉澤はずっと彼女を睨み続けたまま目を離さない。
「あなたに許された選択は二つ。
石川梨華のことは忘れ、表社会で今の輝かしい栄光と共に生きてゆくか?
石川梨華を追って、栄光も命の保証すらもない裏の世界へと飛び込むか?」
玄関を背に、美女は再び妖艶な笑みを浮かべ問うた。
「メロンを知っていますわよね。マスターに依頼されて石川さんを攫った」
「全部お前らの仕業だったのか」
「あれは裏社会のほんの表面に過ぎない存在。一緒にしてもらっては困ります」
「…」
「さぁ、どうします?吉澤ひとみさん」
吉澤は立ち尽くした。
色々なことが、頭の中を駆け巡った。
ボクシングで手に入れた栄光のこと…
日本一を掛けた明日の大会のこと…
対戦相手の藤本美貴のこと…
頂点に立つ安倍なつみのこと…
そして、帰ってくるごっちんのこと…
これまでの人生のすべてを…
(すべてを…私は…捨て…)
「そうそういい忘れてました。石川さんからあなたへの伝言」
妖艶な美女の言葉で、吉澤はハッと顔を上げる。
梨華ちゃんからの伝言…
「『来ないで』…だそうです」
まるで殺気の消えた、赤子のような顔で吉澤は動きを止めた。
(バカ、大バカ…私は何を迷っている)
自分の両の手を見た。
(何のために鍛えた手だ。栄光を掴む…じゃないだろう)
(梨華ちゃんはきっとたった一人で、苦しんでいる、泣いているんだ)
(誰かを守るための…手だろ)
二つの拳を強く握り締める。答えは決まっている。
「行くよ」
美女は今までで一番艶やかな笑みで、玄関の扉を開いた。
(私は戻る。梨華ちゃんと一緒に…戻ってくる)
(決着をつけてない奴はまだいっぱいいっぱい残しているんだ)
(藤本美貴!高橋愛!安倍なつみ!それと…)
「間違ってないよな。ごっちん」
静かに、吉澤ひとみはその一歩を踏み出した。
テーブルの上の冷え切ったトンカツに、気付くこともなく。
第14話「来ないで」終わり