そして大会前日。
吉澤ひとみは市井紗耶香の家を訪れていた。
待ち望んだニュースが海外から飛び込んで来たからである。
「Maki Goto won the victory in overwhelming ability」
「へぇ、結構きえいに英語しゃべれんだ」
「あの〜、私ずっとアメリカ暮らしだったこと忘れてんすか?」
「そうだった」
「ったく」
「…にしても、いよいよだな」
吉澤が頷く。
市井が手元のマウスを動かすたび、吉澤はピリピリとした感触に遭遇する。
ネットで海外のホームページを検索して手に入れた。
ブラジルで開かれた柔術のトーナメント速報。「後藤真希が圧倒的な実力で優勝した」
ピリピリした。
まるで肌が焼け付く様であった。
英語で記されたその文章を目にするだけで、たまらなく熱い。
「今や世界の格闘技の最高峰はブラジル柔術にある」
愛用のPCに目をやったまま、市井が言った。
その頂点に後藤真希が立った――と言いたいのだ。
吉澤は思わず唾を飲み込んだ。
「いったい、どのくらい強ぇんだろうな」
「この日本格闘議界の、勢力構図が一変するくらいだろう」
「簡単に言いますね」
「真希は大会が終わり次第、すぐに日本に戻ると言ってた」
「…ってことは?」
「明後日か?早ければ明日の夜にも…」
明日の夜には…後藤真希がこの日本の地に降り立つ!
熱が炎になって燃え上がる様であった。
「明日の大会が…ちょうど終わる頃ですかね?」
「吉澤」
「はい?」
「最低でも…優勝だぞ。それが後藤真希へのボーダーラインだ」
誇張でも冗談でもない。市井の顔はいたって冷静である。
燃え上がる炎を内に収束しつつ、吉澤は笑みでそれに答えた。
「帰ります。家で梨華ちゃんがうまい飯作って待ってる」
「ああ。たらふく食ってよく休んどけ。明日は私も応援に行く」
「はいっ」
とびきりの笑顔で、吉澤は市井の家を後にした。
窓の下には淡い街の光が広がる。
高級ホテル、その最上階にあるバー。
「美貴と二人で、こういう所来るの。初めてだっけ?」
「あんたが酒飲めねえからだろ」
「美貴が強すぎるのよ」
バーボンを氷で割ったものを藤本はグイッと飲み干した。
「同じもの」
無表情なバーテンに空のグラスを差し出す。
もう6杯目だ。安倍はまだ1杯目が半分以上残っている。
「大会は明日よ。あんまり飲みすぎちゃ…」
「明日だから飲むんだ。酔いたいんだよ」
「どうして?」
「吉澤ひとみのせいさ。楽しみで、気が狂いそうになる」
「へぇ」
「それと、安倍なつみのせいだ」
「あら、なっちも?」
「ようやく明日、あんたに辿り着くとかと思うと…」
「フフ…」
出てきたグラスを、藤本はまたグイッと喉に流し込んだ。
「もう何年になるかなぁ」
「何が?」
「美貴が夏美会館に入門してさ」
「3年半だ」
「そんなになるか。いやぁ…なつかしい」
「フン」
「創設以来、何万人という入門者を迎えたけどさ。今だに美貴だけだよ」
「…」
「入門初日に、なっちに殴りかかってきた奴はね」
「…フフン」
「あの日、なっちは確信したんだ。夏美会館は地上最強になるってね」
酒が入っているせいか。安倍がいつになく饒舌だ。
新たなグラスも飲み干した藤本は、微笑を浮かべたまま窓の外に目をやった。
満月が夜空に浮かんでいた。
「美貴は満月みたいだね」
「どうして?」
「なっちが太陽だから」
「ケッ!自分で言うな」
しかし“満月”という呼称が確かに合っている気もした。
太陽に様に熱く燃え輝き続ける存在ではない。
淡い美しさの中にどこか狂気を秘めた、闇に浮かぶ満月。
「じゃあ、さしずめあのガキはスッポンってとこか」
藤本がスッポンと例えたのは辻のことだ。
太陽と月とスッポン…というジョークである。
「アハハ…ひどいわよ。美貴」
「笑ってんじゃん。スッポンは今日誘わなかったのか?」
「あの子はまだ未成年でしょ」
「もう19だろ」
「どっちみち入れてもらえないわ。どう見てもお子様じゃん」
「あんたも人のこと言えねえけど」
「美貴!」
「可哀想だし、呼んでやっか」
藤本は携帯を取り出すと、ピピッと辻のアパートに電話をかけた。
『はい、こちらミニモニ留守番電話サービスセンターなのれす』と音声。
「留守だ。大会前に遊びに出てんのか?」
「まさか…まだ道場だったりして」
「そういえば、この2週間あいつずっと道場にいたらしいじゃん」
沈黙が流れる。
安倍と藤本に共通の想像が浮かぶ。二人は同時に席を立った。
「はっぱ、かけすぎたかな?」
大会前日のこんな夜遅くだというのに、道場には明かりが付いていた。
「やっぱり」
「世話のかかるガキだ」
「なっちがあんなこと言ったから…」
「とにかく行こうぜ」
藤本が道場の扉を開いた。
その中の光景に藤本、そして安倍の表情も変わる。
床にうつ伏せで辻は寝息を立てていた。
注目すべきはその手前、拳大の穴が開いたサンドバックの残骸が吊るされていたのだ。
(まさか、あの子…本当に正拳を)
「こいつ、本気で2週間、サンドバック叩き続けてたのか?」
藤本がしゃがんで辻の寝顔を覗き込む。
精も根も尽き果てた…だが満足気な表情の寝顔であった。
「…美貴」
「ん?」
「なっちは今、3年半ぶりに改めて確信したよ。夏美空手は地上最強だ」
「…ああ」
「明日、スッポンが奇跡を起こすかもしれないべさ」