第14話「来ないで」
まるで寝付けない。
(あいぼんも…見てくれたかなぁ)
地上最強へのトーナメント出場が決定した晩、辻希美は言い知れぬ不安に襲われた。
消息を絶った加護の最強を証明する為に負ける訳にはいかない。
だがそれには、あの出場メンバーの顔ぶれはあまりに手強すぎた。
辻はベットを抜け出すと、夜の道を道場へと走った。
バゴォン!バゴォン!
不安をかき消す様にサンドバックを叩く。
何回も…何回も…。
パンチが当たる度にサンドバックは大きく揺れ動く。
だが不安は一向に解消されない。自分だけがひどく矮小な存在に思えてならなかった。
他の出場選手は皆、何らかの栄光や結果を残して選ばれた人ばかりだ。
自分だけが何一つもっていない。
「本当に勝てるのかなぁ…」
サンドバックに額を打ち付けてつぶやいた。そのとき背後から微かな気配を感じとる。
「ののでも悩むんだねぇ」
「なちみ!」
「館長でしょ」
安倍なつみだった。
突然の登場に辻は大きな口をあんぐり開けてうろたえる。
「どうして…ここに?」
「深夜の秘密特訓でもしよっかなって思ったら、先客で君がいただけ」
そうだ。普段、安倍なつみのトレーニングを目にすることは少ない。
彼女は別格で練習しなくても強いのだと誤解していた。
いつも人知れず、こんな夜中まで特訓していたとは少しも知らなかった。
「のの、うちに来て約2ヶ月…少しは空手覚えた?」
「うぅぅ…型とか技とか結構むずかしくってまだあんまり…」
「積み重ねが大事だしね。とりわけ、ののは覚えが悪そうだし」
「どうせののは頭悪いのれす…」
「そんな辻希美でもすぐできる空手を一つ、教えてあげよっか?」
「へ、へい!」
安倍は辻の右手を持つと、指一本ずつ正確に折りたたんでゆく。
そこに「正拳」がひとつ完成した。
「これを全力で相手に打ち込む。それだけでいい」
「詐欺なのれす」
「わかってないね。ののは確かにパワーはある。多分なっちより、誰よりも。
でもそれを活かしきれてないの。ただ力まかせにブンブン振り回しているだけ。
今まではそれで良かったかもしれないけど、さらに上を目指すならそれじゃ勝てない」
言い終わると安倍は、自らの正拳を目にも止まらぬ速さでサンドバックに叩き込んだ。
信じられない事が起こる。サンドバックは揺れず、中央に拳大の穴が開いたのだ。
中から零れ落ちる砂を見つめながら、辻はポカンと固まった。
「こんな風に、拡散する力を一点に集中させる訳。
ただ力任せに殴るのとは速度も威力も格段に違う」
「やっぱりなちみは凄い…」
「ちなみに、美貴もこれができる」
最後の台詞が辻の闘志に火をつけた。
「ののも練習する!なちみやミキティには負けたくない!」
「バカね。言ったでしょ積み重ねって。なっちや美貴でもこれができる様になるまで
3年はかかったんだから。ののはとりあえず形だけでも覚え…」
「大会までに!二週間でやる!」
辻の瞳が燃えていた。
正直無理だろうけど、それでも辻の不安を取り除くことにはなる。
「ま、がんばんな」
「へい!」
辻は正拳を作ると別のサンドバックに打ち込み始めた。
微笑みながら、不器用な拳の音がこだまする深夜の道場をなっちは後にした。
抽選会の後、高橋愛は再び紺野あさ美と共に山に籠もった。
「やっぱり強い奴との実践が一番の修行やの」
「そうね。どうだった、実際に対戦相手を目の当たりにして」
「どいつもこいつも本気で強ぇえなって思った」
「そう」
「…でも、届かないとは思わんかったわ」
愛がニィっと笑うと、紺野は自分の拳を手近な木の幹に叩き込んだ。
穴が開く…とまではいかないが、幹が拳大で凹んだ。
紺野あさ美の「正拳」は完成に近づきつつある。
「おぉ!凄っ!」
「この山篭りで私も強くなった。多分、自分が思う以上に…」
「そやの」
「そんな私と一日中闘えているんだ。愛、尊敬するよ」
「いまいち誰を褒めてるんかわからんの」
二人は、食事と睡眠以外のほとんどの時間を実践に当てた。
天才柔術家高橋愛との闘いの日々が確実に紺野あさ美を進化させていった。
その進化する空手家紺野あさ美との闘いの日々が高橋愛を進化させた!
この相乗効果が二人のレベルを限りなく押し上げていたのだ。
「言っておくよ。反対のブロックは間違いなく藤本さんが上がってくる」
「なんで分かるの?吉澤さんや矢口さんもいるんやよ」
「館長が選んだ人だからよ。あの人は本当に強い!」
「紺ちゃんがそこまで言うなら、よっぽどなんやの」
「ええ…」
「いいんか。倒しちゃっても?」
「え?」
「私が夏美会館を倒しちゃってもええんか?」
愛の問いかけに紺野はしばらく動きを止めた。そして言った。
「私が愛に負けた試合、何処に差があるのかって考えたんだんだ。そしてわかった。
私は館長を目指していた。愛は館長を倒そうとしていた。その差だと思う」
「うん、よう分からん」
「だから私も変わる。館長を目指すんじゃなくて、いずれ超えるんだって」
「安倍なつみと闘うの?」
「仮に今度の大会、夏美会館以外の人が優勝したら、私は夏美会館の為にその人を倒す。
そして館長に挑む。最強を掛けて!」
「優勝が私でもか?」
「もちろん。だから夏美会館を倒せるものなら倒してみろ!」
実に久しぶりに紺野の顔に笑みが浮かぶ。
紺野の決意を聞いた愛も、喜んで言い返したのであった。
「おーし!私が大会優勝して!もう一度紺ちゃん倒して!安倍なつみも倒してやるわ!」
1週間が過ぎる。
出場選手はそれぞれの方法で最後のトーレーニングに入る。
矢口真里もまた講道館をあげての最終調整段階へと入っていた。
1回戦の相手田中れいなを想定し、八極拳の名士を呼んでの模擬戦。
さらに次を見据えて、空手家やボクサーとの模擬戦。
だが誰一人として「倒れない女」矢口真里を倒すことはできない。
格闘家矢口真里のコンディションは最高潮にまで達していた。
(いける。オリンピック前より遥かに調子がいい。まるで負ける気がしねえ)
稽古後の帰り道、矢口は自分の体を確かめ、気を高ぶらせていた。
超有名人の矢口はいつもひと気のない道を選んで帰る。この夜もそうだった。
(ん?)
いつもは人っ子一人いない道に、中学生くらいの少女が立っていた。
少女は矢口を認めると小走りに近寄ってきた。
(なんだぁこんな時間に?もしかしておいらのファンの子?)
「かわいい?」
「ハァ〜?」
その見知らぬ少女は自分を指差して、いきなりこう尋ねてきたのだ。
矢口が呆れて聞き返すのも無理はない。にも関わらず、少女はまた問いかけてきた。
冗談でもふざけてる訳でもなさそうなその瞳に、矢口は不気味なものを感じる。
「ねぇ、私ってかわいい?」