弐:浅間麒麟
えぇ、見たんですよ。あたし
あの浅間山の峠をね、こう、つぅっと走ってくんです
一瞬だったんですけどね、でも、あれは確かに
麒麟でしたヨ
間違いありません。だって、ここ、ひたいの部分に
大っきな角がね。一本にゅぅっと。
それにね、全身が光ってるンです。
おじいが一度、あたしに話してくれたことがあるんですよ
浅間山には、麒麟が出るぞって。
もちろん信じちゃぁいませんでした。昨日まではね。
でもあたし、見ちゃったんです。本当なんですよゥ―――
ねぇ、お嬢さんは、信じてくれますよねエ?
「紺野さんは、神獣というモノを信じますか?」
「なんですか、いきなり」
尼僧はふと亀井を見やって、それからあぁ、と頷いた。
「浅間辻の茶屋の娘の言葉を信じてるんでございますか?」
「いえ、そういうわけじゃ…」
図星だった。
つい先日、隣町へ父の使いへ走った亀井は
帰り際に「あさまや」という茶屋で休憩をとった。
そこで知り合った娘、れいなというのが
このような話をしたのである。
「お嬢の物語り好きは理解していますけどね。
その旺盛な好奇心をもっと他のものに向けたらどうです」
紺野と呼ばれた尼僧(兼亀井の養育係)がそういうのも最もで
亀井は好奇心だけは人一倍旺盛なくせに
滅多なことがないかぎり、外出をしない。
昨日の使いの件であっても
あんまり篭り気味なのを心配した父が、
わざわざ亀井に隣町への使いを依頼したぐらいなのだ。
「分かってますよ。でも、なんか引っ掛かるんです」
「・・・浅間山の、麒麟ですか・・・」
「こ、紺野さん!?知ってたんですか!?」
「もちろんです。巷じゃ、有名ですからね。麒麟が出たという噂は」
「じゃ、じゃぁやっぱり、本物の・・・」
さぁ、それはどうでしょうか、と
尼僧は茶を啜る。
「今の所、目撃者はあさまやの茶娘だけと聞きますからねぇ」
「れいなちゃんですか」
「まだ14,5の娘さんでしょう。あの子は」
そうなのか。
昨日見た限りでは、身長こそ亀井と同じ位だったものの
風貌も顔つきも、亀井よりよほど大人びて見えたのだが。
「それで」
「目撃者は、そのれいなっていう娘だけでしょう」
「そうなんですか」
「えぇ。麒麟を見た、というのは唯一その子だけなんですよ。
でも、たかが小娘の言うことでしょう?誰も信じちゃいないんでしょうねぇ」
紺野さんは、と亀井が問う。
「私ですか?私はそういう妖怪とか、神獣みたいなモノは信用しませんよ」
「じゃぁホラだと思うんですか?」
「お嬢はどうなんです」
「・・・・・私は」
よもやこんな時代に神獣とかいう存在は信じがたい。
だが。
昨日その話を嬉々と語ったれいなの真剣な表情は信じられなくもない。
「私は・・・分かりません」
「だったら忘れることですよ」
紺野は最後の茶を飲み干す。
「些細なことだと忘れてしまって罰のあたるもんじゃありませんよ」
「でも・・・」
「そっちの方が楽なことだってあるんです。
ずっと考え込んでたって、どうにもなるモンじゃないんですからね」
しかしそう簡単にはいかなかった。
再び亀井が耳にした「浅間麒麟」の噂は
意外にもさゆの口から出たものだったのである。
「浅間麒麟の噂でしょ?知ってるよォ」
「知ってるの!?」
「市で凄い噂になってたもん。お母さんと誰かが話してるのきいたんだぁ」
だがその噂というのはどうやら「浅間麒麟」のことではなく
それを見たという唯一の目撃者、れいなのことらしい。
――――いい加減なことをいう娘がいる。
――――あさまやの茶娘は、寄る客人に麒麟の話をしては怖がらせて面白がっている
――――なんと迷惑な娘だ。
――――あいつは、ほら吹きだ。
――――茶娘のれいなはほら吹き娘だ。
「黄金に光る角の生えた神獣なんて、いるわけないよねぇ」
「うん・・・」
その夜も、亀井は眠れなかった。
翌日、意を決して、再びあの浅間辻を訪れた亀井は、
あさまやの店内にれいなの姿がないことに気づく。
店主やその他の茶娘の姿は数日前と変わらないが、
れいなの姿だけが見当たらないのだ。
「あのぅ・・・ご主人」
「へぃ」
「つい先日までここで働いていた…あの娘さんは?」
「へぇ。どいつのことですかい?」
「れいなっていう―――子なんですが」
途端、店主の顔色が変わった。
「どうしたんですか」
「お嬢さんは・・・れいなの話を聞いたんですかぃ?」
「・・・えぇ。まぁ」
年老いた店主はふぅ、と息を吐き、
どっと亀井の隣に腰を下ろし
ぽつり、ぽつりと話しだした。