「愛する人はアノヒトだけ。誰も邪魔させない。」
いつもは騒がしい【部屋】が、そのときだけはなぜか一瞬静まり返っていて、
ドスのきいたれいなの声が聞こえた。
れいな。彼女のフルネームは知らない。
この仕事にかかわってる女の子同士、みんなそうだったから珍しいことではない。
不思議な視線を持つこの彼女は、鳴物入りで入ってきた新人だった。
この仕事は初めてのはずなのに、加入当初からわたしなんかよりもたくさんの仕事を取っていた。
でも・・・、彼女には悪いが、それは正直言って不思議以外の何者でもなかった。
アノヒトの悪趣味な──刷りガラス越しに現役で働く娘たちが眺めている──面接、そのときも、
まさか、ガラが悪いだけで取り立て美人でもない彼女が通るとは思いもしなかった。
だけどもこの言葉を聞いて、なるほどアノヒトによる直接のスカウトか、って納得したんだ。
「アノヒトの愛に包まれてるのはわたしだけがし。わたしだけのアノヒト・・・」
愛ちゃんは、わたしと同期。
れいなの人気振りを見て、愛ちゃんを連想する時はあった。
でも愛ちゃんは、加入当時から多くの仕事を任されていてもそれを疑問に思わないくらいの美貌。
ちょっとだけ地方のかおりが残るところがあるけれど、それも魅力のひとつなんだろうって思ってた。
だけど、だけど、数時間前の噂話・・・そして今、本人からアノヒトの名前を聞いた今となっては、
わたしが持っていた仕事そのものに対する意義は、このとき急速に薄れていった。
―─愛ちゃんは、普段は喧騒状態にある【部屋】を信じきっていたんだろう。
その言葉はれいなにだけこっそり忠告したつもりだったのだが、みんなに知れることとなってしまったのだ。
「ドコ行ったんだよ〜!!」
突如、予想外の声が聞こえた。あっ!さゆみだ。
ここに来た当初の第1印象は、とかく消極的で声の小さい少女だった。
でも実際に話してみると、謎の自信がみなぎっている『不思議少女』さゆみ。
その雰囲気を一発で気に入ったわたしは、加入当時、実の妹のように接していた。
でも彼女はいつのまにか、れいなに対して金魚のフンのようにくっつくようになり、
次第にわたしから離れていったんだ。
あぁ。
今わたしは納得する。
さゆみもアノヒトのことを好きだったんだ。
だから、アノヒトと接点のないわたしよりもれいなといたほうが彼と近づける。そう思ったに違いない。
加入から半年を経過した今のさゆみは、目がうつろ。焦点が定まらない。
彼女はれいなに隠してアノヒトを愛する代償に、精神を病んでしまっていたのだ。
わたしはここしばらく彼女の声を聞いていなかった。聞こうとしていなかった。
そんな時に聞こえてきた、今までにない、甲高いさゆみの叫び声。
常識の範囲を超えた奇声に、
「あぁーうるせえっ!!」
美貴ちゃんが叫んだ。それは珍しいことではない。
普段から騒がしい【部屋】の中で、一括を入れるのはいつも彼女だ。
「お前の声もうるせぇんだよっ!!」
これも珍しいことではない。
美貴ちゃんとは犬猿の仲にある真里さんがこのタイミングで叫ぶのは。
だけどこれが、わたしたちの働く【部屋】――そう「シャボン玉」の平穏を壊す引き金になったのだ。
――時間は、少しさかのぼる
「ねぇねぇ知ってる、あさ美ちゃん?愛ちゃん、アノヒトと付き合いだしたんだって!!」
リサちゃんが顔を蒸気させてわたしに報告してきたのは、この数時間前のことだった。
リサちゃんとわたしは、同じ時期にこの【部屋】で働くようになった。つまり同期だ。
聞けば実家は裕福で、なぜこの仕事に身を沈めたのかわたしには理解不能だった。
この界隈で道に迷った時に親切にしてくれた人がこの店の人だった、そう言っていた。
それだけで決めるものなのかどうか、わたしには納得しきれないものがある。
だけど、リサちゃんがそう語っている以上深くは追求していない。
「・・・え?だってアノヒトって、梨華さんとつきあってるって聞いたけど?」
「ん。。。そうなんだけど・・・だけどぉ、愛ちゃんも声掛けられたって!
しばらく秘密にしてたんだけど、リサには教えてくれたの!ん。きっと、たぶん、同期だから!」
同期なのは間違いないが、愛ちゃんが言ったのは同期だからではないだろう。
ただただうれしくて、愛ちゃんはうれしくて、
その場にいたリサちゃんについ言ってしまったんだろう。
リサちゃんの代わりにその場にわたしがいたとしても、
愛ちゃんはおそらく、わたしには言わないはずだ。
忠告するまもなく走り去るリサちゃんに、わたしが何か言う暇はなかった。
きっともう1人の同期、マコトにも言いに行くんだろう。
追いかけてたしなめることが友達だったのかもしれないが、
そのときのわたしには、ほかに夢中になっていることがあり、
とにかくそういうことが、めんどくさくてしょうがなく思えた。
「なっちもねぇ〜そういう時代あったんだぁ」
「・・・そうなんですか?」
「なっちが好きになった人が別の人とも付き合っててね、
だからみんなにナイショでね・・・あ、このいい感じのホシイモもらっていいべか?」
「あ。どうぞ。ほかにもまだ焼いてますから」
なかなか暑くならない今年の夏。
わたしはストーブを出してきて大好きなホシイモを焼いていた。
そんなときに、リサちゃんが部屋から出て行ったのと入れ替わりに入ってきたなつみさん。
彼女こそ、道に迷ったリサちゃんに親切にしてあげたその人なのだ。
そんななつみさんに、リサちゃんや愛ちゃんの名前は出さず、地元の友だちに相談された話として、
さっきの話をしてしまった。
わたしの中でその話題が切羽詰っていたわけではない。
ただ、なつみさんがわたしのホシイモが焼けるまで出て行ってくれる気配がなく、
それまでの世間話のつなぎとしてしてしまっただけなのだ。
22才のなつみさん。
アノヒトともめていた頃は、ストレスのせいで体型が悲惨な状態になってしまって、
この仕事を続けることが危ぶまれた時期もあったらしい。
でも今の彼女は、わたしのホシイモをいくら横取りしようとも、
あらゆる経験を踏まえたことからくる自信のせいだろうか、とてつもなくかわいらしかった。
リサちゃんが惚れ込むのも無理はない。
「モグモグ・・・したっけなぁ」
なつみさんはわたしの食べようとしていたホシイモをほおばりながら、満足げに部屋から出て行った。
数分後、なつみさんに取られつつも、新たにやっと焼けたホシイモを食べていると、
仕事を終えた梨華さん、ひとみさん、美貴ちゃんが連れ立って部屋に戻ってきた。
仕事が終わった後にふたりと会って、ここまで来る間にアノヒトの話をしていたのだろう。
「やっぱりわたし、アノヒトに直接聞いてくる!」
いつにも増した梨華さんのアニメ声が響いた。
梨華さんはかなり興奮している様子だ。
アノヒトと梨華さんは公認の中なのだ。
なつみさんとアノヒトが付き合っていたというのはとうに昔の話で、
わたしたちが入ってきた時はすでに梨華さんは幸せの絶頂にいたのだ。
それがおかしくなってきたのは最近の話。
梨華さんの一番の友だちであるひとみさんは「気のせいだよ」ってなだめてる。
わたしは見抜いている、ひとみさんは梨華さんを好きなんだ。たぶん、友だち以上に・・・。
そのとき、一瞬顔がほころんだ梨華さんに「じゃあ聞いてきなよ!」って、
美貴ちゃんが、苛立ちまぎれにそう言ったんだ。
止めようとしたひとみさんの手を振り払うようにして、梨華さんは部屋から出て行った。
部屋は大所帯だ。
仕事に出る人がいる反面、仕事を待ち続ける人もいる。
かおりさんは今では待ち続ける側の1人だった。
相性が悪いせいか、部屋にふたりっきりでいるときもわたしには話かけようとすらしてくれない。
だけども、インスピレーションとでもいうのだろうか、
彼女には波長がぴたりと合う人間がわかるようで、
そういう人には仕事のノウハウはおろか私生活のアドバイスまでするようだ。
新しく――れいなやさゆみといっしょに――入ってきた子の髪をときながら、
なんだか頭が混乱するような比喩を用いてしきりに話している。
そんな話を聞きながらでもエリはかわいらしい笑顔で受け答えしている。
あの笑顔・・・あの無邪気な八重歯・・・かおりさんに気に入られる少女・・・
かつてそういうポジションにあった彼女が、相方を連れて元気に部屋に入ってきた。
「わたしのぉ〜ぃっ」
「らんきんぐぅ〜っ」
「「な・ん・い・だろうか〜?っお〜ぉ・あぃっ!」」
あいかわらず即興のわけのわからない歌でかけこんでくるあいぼんさんとののちゃん。
ふたりをみると思わず微笑んでしまう。
なつみさんにさえも自分からは渡さなかった、いい感じに焼けた2枚のホシイモを
ふたりの口にいれてあげるのは、わたしの毎日のひそかな楽しみだ。
「もごもごぉ・・・ぃひはちゃんが・・・んぐっ。血相変えてでてったでぇ。」
「んぐんぐぅ・・・んこれすかねぇ?」
エリの髪をとかし終えたかおりさんが、
梨華さんの代わりに「しないよ」とぽんとふたりのあたまをなでた。
かおりさんはさっきの話を聞いていたんだろうか。その表情からは窺い知ることはできない。
ひとみさんは青ざめている。
男っぽく見えるけど繊細な彼女は、きっと梨華さんが知ることになる事実を予想しているんだろう。
美貴ちゃんはポーカーフェイス。
美少女に見えるけど鬼の彼女は、梨華さんのことも知ったことかというように、タバコに火をつけた。
「ねぇ?悪いことがあったら言って?なんでもするよ?」
「チョット何?話してる時くらい電源切ってよ!」
「ぎゅっとして!抱きしめてよぉー!!!」
小1時間後、梨華さんが戻ってきた。
ひどく興奮状態にある彼女は、必死でひとみさんにアノヒトとの会話の一部始終を話している。
だけどもそんなことは日常茶飯事、あいぼんさんとののちゃんが騒いでいる声でかき消されて
聞こえているのは当事者のひとみさんと、聞き耳立てているわたしだけ。
実際はみんなも聞いているのかもしれない。だけど誰も何も言わない。
てんでばらばらなことをお互いに話している。
「「いっけんらくちゃくじぞじぞぽーん!!」」
自分たちのやっている仕事を忘れるくらいに無邪気な二人の声。
なんとなく、本当になんとなくだったんだ、
その二人の声を聞いて、みんなの話が一瞬やんだ。
そんなときだったんだ。
「愛する人はアノヒトだけ。誰も邪魔させない。」
「アノヒトの・・・愛に包まれてるのはわたしだけがし。わたしだけのアノヒト・・・」
アノヒト。その言葉を聴いて、梨華さんの顔色が変わった。
「なに、何の話?なんなのよ!!」
その直後、
「なのに、ドコ行ったんだよ〜!!」
いつのまにか仕事を終えて戻ってきたさゆみが奇声を上げた。
「あぁーうるせえっ!!」
「お前の声もうるせぇんだよっ!!」
タバコを吸い終えた美貴ちゃんと、
最近、人一倍に理不尽な仕事が増えてストレスを感じていた真里さんに火がついた。
「っあいっ!!」
普段はヘタレなマコトが、大きな声で愛ちゃんに詰め寄るのを見て、
美貴ちゃんも真里さんも、ほかのみんなも一瞬息を飲んだ。
「あいっ・・・ちゃんさぁ・・・
・・・ふへぇぇ・・・なぁにいってんのさぁ」
ぽんぽん。いつもの調子で肩を叩く。
あぁだめだ。マコトはいつものまこっちゃんだった。
引き返しのつかなくなった愛ちゃんは、涙目で梨華さんとれいなを見つめている。
梨華さんはしきりに何か叫んでいる、けど、いかんせん、音波が外れすぎていて意図が聞き取れない。
そんな彼女をひとみさんが必死に抱きかかえている。
れいなに視線を移すと――
彼女は恐ろしいくらいに冷静で、泣きもわめきもせずに冷え切った視線でにらんでいた。
それに対照的だったのが、さゆみだ。
「しゃぼんだまー!!」
そう叫んで、部屋から飛び出して行ってしまったんだ。
さゆみがいつものあらわな衣装で繁華街に飛び出してしまったせいで、
わたしたちの店「シャボン玉」は警察の目につくところになってしまった。
さゆみがとびだした瞬間に、持ち前の冷静な判断をした美貴ちゃんのおかげで、
方々に逃げ出したわたしたちは難を逃れた。
れいなと愛ちゃんはさっきまであんなに盛り上がっていたくせに、
現金なものだ。自分たちに危険がおよんだら、一目散に逃げ出した。
梨華さんだけはひとりで残ろうとしていたが、ひとみさんが力づくでいっしょに逃げたと、あとで聞いた。
繁華街で保護されてしまったさゆみも、
既に精神が病んでいたということで罪に問われることはなく・・・
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数年後、偶然町でマコトに会った。
「ふぇー、あさ美ちゃん、大学行ったんだぁ。」
「ん。あの頃いも焼きながら教科書読んでたからね、なんとかなったんだぁ。」
「そっかそっかぁ。あのねぇ・・・ホントはサ、あの頃リサちゃんと言ってたの
『あさ美ちゃん、仕事こなくて落ちこぼれだよね』って。
でもっ、でもね!そんなことなかったんだよね、今はあさ美ちゃんが一番さぁ!」
ほんっと不器用なマコト、言わなくていいことまでしゃべっちゃって。
くすっと笑いながら、ハニーパイを一口食べる。
「くー、あさ美ちゃん、相変わらずぶきっちょな笑顔だねぇ。でもそれがか・わ・い・い♪」
言いながら、相変わらず間抜けな笑顔でパンプキンパイをほおばるマコトちゃん。
あういうお店で働いていた過去があるにもかかわらず、
今のわたしたちは、みんな幸せな人生を歩んでいる。
ただ「シャボン玉」の経営者であるアノヒトだけは、その時の逮捕をきっかけに、
人生が、シャボン玉のようにあっけなくはじけとんでしまったらしい。
○ o 。 お わ り 。o ○