真っ白な廊下を歩く。
廊下に染み付いた消毒の匂いも、響き渡る私の靴音も、全てがもう慣れ親しんだもの。
この1ヶ月…一体何度この廊下を歩いただろう。
私立J大学付属病院第8病棟
この廊下を東向きに歩いているとき、そう今だけど、私の顔にはかすかに微笑むが浮かんでいると思う。
窓ガラスに映った私の口元、確かににやけていたもの。
当たり前。
だってこの廊下を真っ直ぐに行けば、大好きなあの人に会えるから。
紺野あさ美…私の今現在は、あの人…のんちゃんに会うために費やされていると思う。
娘。に入ったばかりの私をいつも笑わせてくれて、そしていつも慰めてくれた。
八重歯がキュートで、食い意地が私以上に張って、そして泣き虫な大切な友達。
彼女に会えるんだもの…この顔がにやけないはずがないじゃない。
でも
私がこの廊下を西向きに歩くとき、私の顔に浮かぶものは…なんだろう?
現実を真っ直ぐに見詰めたことで覚える、絶望と衝撃?
それとも…のんちゃんの瞳を見て感じる、諦めかな?
少なくとも、今の私のにやけた顔が続くことは、多分ないだろう。
そう!!
多分…この感情!!
【何で、第8病棟なんだろう?】
何で第1病棟じゃなかったんだろう?
何で第12病棟じゃなかったんだろう?
第8病棟じゃなかったら、どこでもよかったのに。
流石に心臓外科の病棟とかだったら困るけど…でも、なんで?
何で、第8病棟なんだろう。
のんちゃんの病室の前に着いたその時、私は軽く頭を振った。
いいじゃない。
そんな感情は帰りにとっておこう、今はとにかく…今を楽しもう。
お土産のポッキーが入ったレジ袋を高々と掲げて、一気にドアを押し開ける。
「のんちゃん!! お見舞いに来たよッ!!」
―――
全ての始まりは、5月の終わり頃からだった。
のんちゃんの遅刻の回数が、際立って増え始めたのだ。
しかも5分や10分じゃない、酷い時は1時間なんてこともあって。
それでもやっぱりのんちゃんの人徳なんだろうか、
最初のうちは矢口さんが悪態をついて終わっていた。
「辻さぁ…あんたいい歳なんだから、いい加減遅刻とか減らせよな」
「…ごめんなさぁい」
「まぁ…いっか。とにかく次から気をつけろよな」
「はい」
「それとも何か? 電車の中でキモヲタにでもからまれたりするのか?
だったらホント、車で迎えに来てもらったりしろよ…
マネージャーに頼みにくいなら、おいらから頼んでやるから」
「うん、ありがとう、やぐっさん。でも…大丈夫だから」
「そっか」
ホントただのよく見る光景、ってヤツだった。
そのやりとりを見ていた石川さんが、
「それじゃ、明日ののの家に迎えに行きますよ! それで大丈夫でしょ?」
「そうしてやってよ、石川」
そんなやり取りすら、この3年間で何度も見たような感覚がして。
私といったらそんな関係がちょっぴり羨ましくて、わけわかんない嫉妬心と戦っていた。
次の日
やっぱりのんちゃんは遅刻した。
何度マネージャーさんが電話をしても繋がらなくって、
矢口さんのオーラが徐々に黒く激しくなっていくのを、私とまこっちゃんは後ろから怯えて見てた。
1時間半遅れで二人が入ってきた瞬間、すくッと矢口さんが立ち上がる。
私とまこっちゃんは続く怒声に備えて肩をすくめた……けれど。
けれど、矢口さんは怒りを飲み込んだ。
多分…呆気にとられたんだと思う。
入ってきた二人の表情があまりに凄まじくて。
のんちゃんは満面の笑みで、ホントに悪びれもせずに、大きく挨拶をした。
そして………石川さんは、涙を浮かべていた。
「石川…何があったのよ?」
早々にメイク室に入ったのんちゃんを尻目に、石川さんを取り囲む。
口をへの字に曲げて、そしてこらえていたものが一気に吹き出したみたいに、彼女は声をあげて泣いた。
「ののが…おかしくなっちゃったんです」
「電車に…あの子、絶対に同じドアからじゃないと乗ろうとしなくて」
「しかも、ドアから入って斜め左前の席が空いてないのが分かると、電車降りちゃって」
「何本も何本も………電車見送って」
「引っ張って乗ろうとしたんですよ? でも……のの、絶対に足を前に出そうとしなくて」
「段々周りに人とか集まってきて…ホント、怖かったんです」
「ごめんなさい、私が悪いんです」
「…………ごめんなさい」
私たちは声をかけることも忘れて、呆然と石川さんの話を聞いていた。
ただひとつ、飯田さんが石川さんの頭を撫でていることが、何か救いがあるような気がして。
次の日から、のんちゃんはマネージャーの車で仕事に向かうことになった。
まだ仕事を続けさせるって結論に、飯田さんは目を見広げて怒鳴り散らした。
私だって……のんちゃんにお休みが必要なことくらい、十分分かっていた。
でもそれと同じくらい、今がとっても大切な時期だってことも。
やっぱりそれを分かっていたんだろう、加護ちゃんはのんちゃんに微笑みながら泣いていた。
6月の湿り気のある空気の中、私たちには一つの仕事…ううん、一つの大切なことが身についた。
ひたすらに、のんちゃんを見守ること。
のんちゃんはリップの蓋を、12回閉めなおさないと納得がいかないらしくて。
閉めて開けて、閉めて開けて…延々と12回。
ポッキーのパッケージを開けるときは、必ず向かって右側の袋から手をつけて。
私たちはひたすらそれを見守った。
微笑みながら、そして涙を流しながら。
のんちゃんが徐々に徐々に、少しずつだけど壊れていくのを見守っていた。
6月22日、のんちゃんの入院が決まった。
―――
私立J大学付属病院第8病棟
……精神科入院患者病棟
のんちゃんはいつもの調子で、ベッドに座りながら笑いながら私に振り返った。
「紺野ちゃん!! 来てくれたんだぁ!!」
「うん…これ、お土産のポッキーだから」
「へへへ…いつもありがとね」
おばさんは買い物に出かけたらしく、一人部屋の窓は閉ざされていて。
自殺衝動があるわけじゃないけど、やっぱり開けたまま外に出るのは気が引けたんだろう。
おばさんから借りてた窓のカギをお財布から出して、私は窓を開け放った。
初夏のとっても爽やかな空。
蒼い空を見ていると、なんだか立ちくらみがしそうだった。
窓を開けた私に目も向けずに、のんちゃんは夢中でポッキーの箱を開ける。
いつもどおりに、右側の袋から手をつけて。
「……やっぱポッキーは美味しいねぇ。紺野ちゃんも食べようよ?」
「うん、もらうね」
のんちゃんはいつも通り。
ちょっとだけ…ほんのちょっとだけ、変なこだわりが出ただけ。
「最近どう? ちゃんと娘。のお仕事やってんの?」
「うーん、まあまあ、ってとこかな」
「何それ」
『多分仕事のストレスから来たものだから、なるべく仕事の話はしないように』
担当医さんの言葉が耳に突き刺さる。
でも実際のところ、私は今ほとんどお仕事に出ていない。
のんちゃんを放ったまま出たくないって言うのも事実だし、
私のわがままに事務所の方も不思議と何も言ってこない。
それが不満なわけじゃない、むしろ感謝している。
……だって、のんちゃんを治すためのお薬、作る時間が出来たもん。
私には日課がある。
のんちゃんの様子を見て、そして部屋に帰ってお薬を作る。
今日だって……
「そうそう、のんちゃん。いいもの持ってきたよ」
「え? 何? 紺野ちゃん」
「エヘヘ……えーとねぇ…あれ? ないなぁ」
バッグの中に入れたはずなのに、お薬は忽然と姿を消していた。
おっかしいなぁ…どっかに落としたのかなぁ?
「無いの?」
「うん、ゴメンネ」
「何か毎日落としてるよね、紺野ちゃん」
愛想笑いを浮かべて私は言い訳を考えたけれど、検診に来た看護婦さんに私の言葉は遮られた。
のんちゃんと軽く手を振って、私は元来た廊下を西向きに歩く。
やっぱりやってくる、いつものあの感じ。
ちょっぴりの諦めと、そしてたくさんのやりきれなさ。
でも……その想いが募れば募るほど、気合が入ってくる。
いつか、ホントにいつになるか分かんないけど、のんちゃんを治す薬を作ってみせる。
精神科に内服薬が効くかなんて、試してみないとわかんないじゃない。
だからこそ、あまり試されていないからこそ、私はますます燃えるんだ。
でもなんであんなに普通そうなのんちゃんが、こんな病棟に押し込められているんだろう。
同じ電車の席に座りたくて、リップを12回閉めなおすのが、そんなにいけないことだろうか?
人と違うから?
だってみんな、同じ人なんて世の中にはいないじゃない。
誰がのんちゃんが標準外で、私たちが標準だって決めたんだろう?
帰り道、私はずっとそんなことを考えながら、ぶつぶつと呟いていた。
―――
「あ! あさ美ちゃん…お帰り」
「まこっちゃん!!」
部屋に戻るとまこっちゃんが椅子に腰掛けたまま振り返った。
私の白いベッドの上にバッグを投げ出してあるのはいつものことだね。
いつものぼんやりとした顔つき、でも最近ちょっと悲しそうかな?
「どこ行ってたの?」
「うん、のんちゃんのとこ。
もう少しでねぇ…お薬しっかりしたの作れると思うよ!!
ちゃんと持ってかないとダメなんだけどさ。
何かねぇ…前の日にバッグの中に入れといても、いっつもどっかに落としちゃってるみたいでさぁ」
「そっか」
一瞬だけまこっちゃんの目が泳いだような気がした。
でもすぐに微笑むと、ふっと窓の外を見る。
夕暮れが迫った部屋の中はちょっぴり薄暗くて、それがなんだか淫靡(いんび)な感じ。
「あさ美ちゃんさ…食べたがってたケーキ屋さんのチーズケーキ、買ってきたから。
生ものじゃないから…大丈夫でしょ?」
「うん、ちょっと待ってね。今、手洗ってくるから」
まこっちゃんは私の部屋に来るとき、いつもお土産を持ってくる。
しかも私が食べたいモノっていうツボをちゃんと押さえていて。
チーズケーキを思い浮かべながら、部屋の脇の水道で私は手を洗う。
液体石鹸を手の中に入れて、27回手のひらで泡立てる。
次に右手の甲を左手で23回、逆を23回。
指を一本7回ずつ、全部で…70回。
手首の周りを4回ずつ。
水道で一旦泡を流して、そしてあと3回これを繰り返す。
流れる石鹸の泡の色が、白色から段々ピンク色になっていって。
真っ白な洗面台に、赤い雫が何滴か垂れる。
それを見てようやく安心できる。
よし! ちゃんと洗った!!
「まこっちゃん!! それじゃ一緒に食べよ!!」
振り向いた私を、まこっちゃんが哀しげに見ているような気がした。
その目をしながらまこっちゃんが口元で呟いた言葉に、かすかなデジャヴを感じた。
「何で……第8病棟なんだろ」
「第8病棟」
おわり