二、妖刀
京都の夏は、盆地という地理的条件から風のまったく吹かない日がよくある。
藤本は強い陽光の下を避けるように、木陰に一人座していた。
不動堂村屯所。
壬生娘。の名の由来となった壬生村の仮宿から、西本願寺集会所の屯営を経て、
ようやく手に入れた娘。念願の、自分たちのために建てられた自分たちのための新たな屯所である。
それは大名の屋敷にも劣らぬ、まさしく壬生娘。の屋敷と言えるものだった。
新規隊士の加入による新編成にともない、ついこの間、
西本願寺からの大々的な引越し作業が行なわれたばかりである。
藤本はその隅に建てられた大道場の裏手縁側の、
ちょうど木陰になっているところで、黒鞘の大刀を抱きかかえるようにして、胡座を組んでいる。
木漏れ日が、まだらの影を縁側に落としている。
蝉がよく鳴いている。
少し離れた、垣根の方から子供たちの歓声が上がっている。
暇な隊士が近所の子供たちと遊んでいるのだ。
壬生の狼と京洛人に恐れられる娘。だが、
意外にも近所の人間たちとは割と仲良くやれているらしい。
ただ、藤本はそれらには決して近寄らない。人ごみが合わない。
矢口真里は、おとめ組屯営へ向かう石畳の通路をずんずんと歩いていた。
不動堂村屯所では、さくら組とおとめ組の屯営が分けられている。
業務的にもそれぞれ分担されており、そのための区分けである。
それまで壬生娘。が行なってきていた業務を、
この夏から、さくら組とおとめ組がそれぞれ並列して行なうことになった。
屯所内でそれぞれの仕事を営む平隊士たちが、
矢口の形相に恐れおののき、慌てて道を開ける。
鬼副長。ひそかにそう囁かれることもある。
非常に背の高い下駄をいつも履いている。
そのせいか歩き方が少し珍妙なのだが、
本人にとってはそんなことより少しでも身長を高く見せることのほうが大事であるらしい。
矢口はその勢いのまま屯所の一番大きな建物の中に入り、高い下駄を脱ぎ捨てると、
少しでも風を通すようにと戸の開け放たれた廊下をずんずんと進み、
一番奥の障子を開けるなり叫んだ。
「局長!」
「なんだ、矢口」
「矢口さん」
八畳ほどの座敷の中央に、飯田圭織が座していた。
その横に石川梨華がいる。
正座し背筋をぴんと伸ばした飯田は上背があるために、
ともすれば、立っている矢口とそう高さが変わらないようにすら見える。
何か書きものの途中だったらしく、体は机に向けたまま、首だけ矢口のほうに向けていた。
矢口は興奮冷めやまぬといった風に、正面に回ると言った。
「どういうことだ!」
「どうって?」
飯田が矢口を見上げる。
「決まっている。あいつのことだ」
「……まあ、座りなよ」
「あれはうちらの仕事だろ」
矢口は飯田に促されるまま、その場に座った。
「お茶でも、入れてきますね」
そう言って石川は逃げるように部屋を出ていった。
「明らかに越権だ」
藤本のことを言っていた。
矢口は濱口、有野両名を捕えるというさくら組の仕事を、
後から現れた藤本に横からさらわれたと感じていた。
実際に捕縛したのはさくら組だから、本当に横取りされたわけではない。
しかしこれは、組全体としての規律の問題だった。
こういった行為を許しておけば、互いの組の手柄の横取り、或いは補助を期待する甘えが生じ、
職務の線引きが曖昧になり、隊の組織力が弱体化する。
野放しにしておくわけには行かないと矢口は思っていた。
そもそも最近は虫の居所があまり良くなかった。
先日まで矢口は、藤州藩の海事を取り仕切る南原清隆、
内村光良らによる一部局、通称『笑犬隊』に個人的に接触を図っていた。
藤州の独自外交による諸外国からの武器輸入や軍備増強の具合を探るためである。
ところがその幹部らが突然、何者かによって『天誅』で暗殺されてしまい、
南原、内村、そして『三本の矢』を失った笑犬隊は事実上の壊滅。
矢口のそれまでの接触はまったくの水泡に帰してしまった。
読瓜藩の手の者による犯行ではないかとの噂もあるが、
暗殺者の行方は未だつかめていない。
その暗殺者が他ならぬ藤本であったことは、壬生娘。の誰も知らない。
「ん〜……」
飯田が唇に人差し指を当てながら、視線を宙にさまよわせはじめた。
「局長!」
矢口もよく知る、何か考えているようで、あまり考えていない時の癖である。
このままにさせておいても、矢口に理解できる言葉は出てこない。
「まあまあ矢口さん。あ」
石川が茶を三つ、盆に乗せて戻ってきた。
矢口は石川が置く前に盆の上から茶を奪い取ると、一気に飲み干した。
「熱いよ!」
「そりゃあ、入れたてですもの」
「本人はたまたま通りかかっただけだと釈明していたが」
「そんな見え見えの言い訳通じるかよ」
矢口のいらいらは治まらない。
藤本が必ずしも悪いわけではない。
見方を変えれば、命の危険に晒された味方を救ったとも言える。
しかも手柄を横取りしたわけではないのだ。
しかし、それではいけないのだと矢口は思っている。
さくらに与えられた仕事は、さくらがやり遂げなければいけない。
たとえそこで重傷を負ったとしても。
それが戦いの最前に立つ者の責務というものだ。
初陣の亀井と、新しく幹部に昇進した新垣はそれをやり遂げなければならなかった。
それをあんな形で、あっさりと横から持っていかれてしまった。
恐らく藤本にはそんな意識は全くなかっただろう。
ただ、その場の処理をするためにもっとも効率のいい手段を選択しただけである。
それは今まで単独で行動してきた藤本には理解できないであろう、矢口なりの組織の論理だった。
矢口には、壬生娘。をここまで大きくしたのは自分ら初期の人間だという自負がある。
小さな甘えの積み重ねは、いつかギリギリのところで組織にとって大きな穴になる。
また。どこのものとも知れず、
いきなり壬生娘。に入ってきた者にやすやすと任務を遂行されてしまうことに、
抵抗感があったのも正直な気持ちではあった。
「矢口さん、まあそう言わずに」
気まずい雰囲気を取り繕うとしてか、石川が横から口を挟む。
「ほら、ああやって小っちゃなかわいい花でも、地面の下に大きな根っこがあるんですよ?」
部屋の外、廊下の先に見える、庭の隅に咲いた黄色い小さな花を指さす。
「もうこんな、こおんなおっきな根っこなんですよ」
大袈裟に目を大きく開けて手を広げてみせる。
「これって何か私たちに似てませんか?」
石川は一人でニコニコとしているが、二人は言わんとしていることがよく分からず、
微妙な面持ちで二の句を継げずにいる。
「……これって、おもしろくないですか?」
「わけわかんないよ!」
「石川は時々変なこと言うね」
「そんな〜。……みなさん前向きに行きましょうよ。そう! 前向き前向き!
ほら、どうですかこの桃色の柄。五条通りの呉服屋で見つけたんですけど、
わたしに似合うと思いません?」
ニコニコとしながら反物を取り出して矢口に見せる。
「きしょいんだよお前は! 空気読めよ!」
矢口は思ったことは結構そのまま口に出してしまうほうである。
「矢口さんひどいっ」
石川はよよよとその場に崩れた。
「まあ、色々とあるのだよ」
飯田は曖昧に呟いた。
飯田も実は、心中どうしたものかと悩んでいた。
藤本には、諸士調査役兼監察という役職を与えている。所属はおとめ組。
内外の情報を収集し、上に報告する役である。
各隊の組頭と同じく副長助勤並の幹部扱いだが、
組頭のように部下は持たず、ほとんどが単独で行動する。
組織というものに慣れておらず、
また寺田と直接のつながりを持っている藤本には、
そのほうが何かと都合が良いだろうという判断だった。
しかしその役職のために、今回のように結果的に他の組の仕事とかち合ってしまうこともある。
どうも藤本はその辺りでの他組に対する気遣いが根本的に欠落しているらしく、
独断で行動に走り、相手の矜持を無闇に損なってしまうようなこともあった。
今回も実は、藤本がさくら組の現場に向かうのを飯田は知っていた。
それを察し、外に出ようとする藤本を呼び止め、
普段は本人も着ていない浅葱色の隊服を着るよう、わざわざ言ったのである。
かち合う部外者やさくら組隊士らに藤本が壬生娘。であることを認識させるためだけでなく、
藤本本人にもあくまで個人としてではなく、壬生娘。組隊士としての自覚を促すためであった。
実際、藤本は規律でがんじがらめに縛りつけてしまうには惜しい、優秀な人材ではあった。
正直なところ今の娘。組には人材が不足している。
人付き合いなどから収集するような情報には疎いが、
各藩、不逞浪士らの動向などには敏感で、
驚くほど客観的で正確な情報を飯田に上げてくる。
剣の腕も言うまでも無い。
あの、読瓜駕籠襲撃で対峙した時のことをまだ覚えている。
適度に抑えられた剣気。
飯田の細かな仕種、体(たい)の流れを、藤本が完全に追いきっているのがわかった。
獣の集団を統括する局長たるこの自分をして、
全力で立ち向かわなければ克ちきれない相手と思わせた。
何よりもそのとき飯田を戦慄させたのは、
邪心の全く無い、まるでからくり人形を思わせるようなその正確な動作だった。
人としての心の揺らぎが見えなかった。
殺人に向かう者特有の、情念のようなものが何ら感じられなかった。
いかに人斬り集団と恐れられる壬生娘。組の者でも、
人を斬ることに対してそれぞれ形は違えど、
皆、何か畏れのようなものを心の内に持っていることを飯田は知っている。
藤本にはそれがなかった。
同じ組の者として接するようになった今ならその理由が少し分かる。
あの娘には何か欠けている。
藤本には人としてあって当然の、中心の何かがぽっかりと抜け落ちているのだ。
それが飯田には何よりも恐ろしく感じられた。
「とにかく。しばらく間をやってもらえないか」
飯田は考えた末に、そう言うしかなかった。
「巡回に行ってくる」
矢口は半ば諦めたように、立ち上がる。
「……あいつは、いつか娘。を崩壊させる」
飯田を睨み、そう言い捨てて部屋を出ていった。
「あ、矢口さん」
石川が矢口を目で追う。
「いいんですか?」
飯田に訪ねる。
「……いいよ」
矢口の言い分も飯田はよく分かっている。
本音を言えば、自分も藤本を心から歓迎はしていなかった。
藤本の事情をある程度解っているのは飯田と、あとは石川くらいである。
その二人でさえ、まだ分からないことが多くある。
藤本が壬生娘。にとって本質的な同志でないことも分かっている。
矢口にも自分の想いを全て話してしまえればいいのかもしれない。
だが言ってしまえば、矢口はその気性のまま猛烈に反対するだろう。
そうするわけにはいかないのだ。
藤本美貴を壬生娘。として受け入れる。
それは幕府や寺田との関係性から、組の局長として、飯田が自分で判断したことであった。
「新しい隊服だぞ!」
「おお〜!」
藤本のいる道場の表側。
中庭のあたりに荷物を抱えてやってきた数人の隊士のもとに、
手空きの隊士たちが群がりはじめていた。
新編成、屯所移転に合わせて、隊服も一新することになっていた。
そして隊服と共に『娘。』の文字が染め上げられた隊旗、
『桜』『乙女』の字がそれぞれ書かれた隊旗、提灯も新たにしつらえられた。
藤本は“あて”が外れたことに、少しいらついていた。
ある筋から、藤州脱藩浪士の有力者、濱口、有野が浪士を集めているとの情報を得た。
藤州藩と読瓜藩の同盟に関係することで密会を重ねているという。
藤本はそれを聞き、すぐさま現場へと向かった。
たまたま飯田に呼び止められ、隊服を着ていくようにも言われたので、
少々鬱陶しくもあったが、特に拒否する理由も無かったので言われるがままにした。
その時、飯田に、
「お前は壬生娘。組の隊士なんだから、壬生娘。らしく行動しろ。
昼に梟が森を飛んでいたらおかしいだろう。それと同じだ」
と言われた。
局長の飯田は、時々わけのわからないことを藤本に言ってくる。
よくわからなかったので軽く受け流した。
――(大体の事情は聞いた)
壬生娘。加入に伴って初めて顔を合わせたとき、藤本は飯田に、そう切り出されたのを覚えている。
(会府藩ゆかりの者だそうだな)
実際は違う。
しかし、京都で幕府の命により暗殺を行なっていたと言うわけにもいかないので、
会府藩付で主に密偵活動を行なっていたということに寺田がした。
寺田の屋敷で目覚めたとき横にいた色の黒い女が、
壬生娘。組の幹部であったことも、その時に知った。
壬生娘。組は同じ志を持つ者たちによって結成された組である。
新隊士は常に募ってはいるが、剣力、学、思想性など審査は厳しい。
いくら組の後ろ盾となってもらっている会府藩藩主の申し入れとは言え、
獅子身中の虫のような自分を受け入れることには忸怩たる思いがあるだろう。
向こうは藤本と寺田の本当の関係性もよく知らないのである。
だからあえて、本来なら隊長級の力を持つ藤本に部下はつけなかったのだろう。
娘。組は実力主義が建前で、
実力さえ認められれば、段階を踏まず一気に伍長、組頭になれることもある。
藤本を監察にしたのは、平隊士を囲い込み、組が内部崩壊する可能性を恐れているからだろう。
ただ、隊務に縛られることなく、一人で自由に行動できるのは、
藤本にとって単純にありがたいことだった。
しかし、そうして捕まえた濱口、有野の両名は、
藤本が最も欲する能面についてのことは結局何も知らなかった。
と。それとは正反対の方向の、藤本の背のほうで、がたんと大きな音がした。
建物の戸が勢いよく閉められた音だ。
いらつくように強く踏み鳴らされる高い下駄の音が、
かんかんかんと少しづつ近づき、横の石畳を通り過ぎ、
そしてはたと何かに気づいたように止まった。
見ると、副長の矢口が黙ってこちらを睨んでいた。
木陰の下の藤本の方から見ると、炎天下の石畳に立つ矢口の姿は白く、眩しい。
藤本は何の感情も持たず、ただ何故か自分を睨んでいる矢口を見つめた。
「おいらは認めないからな!」
矢口はそう言い捨てると、再び高い下駄の音を鳴らしながら、
石畳の上を正門のほうへ歩いていった。
藤本は何も感じることなく視線を正面の木立に戻すと、
抱きかかえるようにしていた刀の黒鞘に、何気なく手を触れた。
刀を手にしていると、心が落ち着くのが自分でもわかる。
(刀をくれないか)
そう言った藤本につんくから渡されたのが、この刀だった。
堀川にある寺田の別邸では、
風を少しでも入れるためか、いたる所の戸が開け放たれていた。
人けのない静かな屋敷の中で、遠くの蝉の声に混じって、茶せんを振る音がする。
寺田が茶を点てていた。
冬には炉であった部屋中央の穴は畳でふさがれ、
横に風炉と呼ばれる、夏用の湯沸かし器が置いてある。
特に仰々しい作法はない。ただのくだけた茶である。
炉の穴があったところを挟んで向いに、二人の男が座っている。
名をそれぞれ鈴木おさむ、都築浩と言った。
「つんく」の個人的な友人である。
どちらも西南雄藩とも縁が深いが、
特にどこかに深く肩入れするようなことはせず、多事に関わり続ける浪士である。
幕府とも繋がりがあるとの噂があり、壬生娘。の結成にも関わっている。
「ところで。八馬屋の娘を、入れたそうで」
鈴木が言った。
――(刀を、くれないか)
藤本の言葉が、寺田には少々意外だった。
寺田の知る藤本は、そういう人間ではなかった。
頭が悪くない。
己の分を知り、過ぎた欲は持たず、自分の身に余ることには関わらない。
ただ言われるがままに人を斬る。人を斬ることに罪の意識も持たない。
幕府にとってこれほど使いやすい者はない。
そんな人間だった。
今回の亜弥々姫の件、明らかに藤本が関われる大きさではない。
途方もなく身分の高い人間が、たまたま襲撃した場所に居合わせただけである。
事情をきちんと話せば、あっさりと手を引き、こちらが望む協力だけを得られると思っていた。
それが、従わなかった。
「ああ、入れたな」
茶を点てながら、そうとだけ寺田は言った。
「どんな、つもりで?」
興味深げに鈴木が追い討ちをかける。
「つもりて言うかなあ」
「ただの思いつきとか」
都築が言った。
面白い。と、確かにつんくは思った。
何があの、冷徹で無垢な藤本の心を動かしたのか。
――(お前、なんでそないにあの姫にこだわるんや)
あの時、いくら寺田が聞いても、藤本は決して答えなかった。
もしかしたら、本人にもよくわかっていなかったのかもしれない。
(ひとつ、オレと取り引きをせえへんか)
しばらく思案した後に寺田は言った。
(お前、壬生娘。組に入らんか)
藤本よりも、横にいた石川が驚いていた。
藤本には、寺田の筋から手に入った亜弥々姫の情報をこれからも下ろしてやる。
姫の身柄が戻れば、目通りさせることも考えてやらなくはない。
ただしそのかわり、壬生娘。組に入り、組のために働けと。寺田はそう言った。
(上のほうにはオレが話を通してやる。どうや?)
(……なにが、狙いだ)
(何って。京の平和を守りたいだけや。京都守護職やからな)
寺田はそう言ってへらへらと笑った。
「ははは、そうかもなあ」
寺田は都築の言葉に笑いながら、茶を差し出した。
「壬生娘。組の中にいる藤本が見たくなったんや」
「また適当なことを」
鈴木が半笑いで言う。
寺田の身分を気遣いながらもからかう、少し媚びへつらったような笑い。
「いやいや、ほんまやで」
「はあ……」
寺田は二人が困惑する姿が楽しくてたまらないらしく、
嬉しそうににやにやとする。
「ちょっとまじめな話をするとやな」
「はいはい」
「今回の件で、御庭番が動いとる」
茶碗を持った二人の動きが一瞬止まる。
「御公儀。……ですか」
公儀御庭番とは将軍直轄の隠密である。将軍の命だけを受け、将軍のためだけに働く。
その名のとおり将軍家のお庭の番という役目を隠れ蓑として、
将軍の手足となり情報を収集し、時には破壊活動も行なう手練(てだれ)の集団である。
「御庭番は、藤州やないかと見とるらしい」
二人は押し黙った。
いかに多くの藩の政事に携わった二人とは言え、
公儀御庭番の話ともなればそれは禁忌にも近い。
大袈裟な話、たった今この場の会話を御庭番に聞かれていても不思議ではないほどなのだ。
茶をずずっとすする。
都築が黙ったまま、気まずそうに茶室に目線を泳がせた。
床の間に、ふと目が留まる。
いかにも京都の治安を守る武家の茶室らしく、
そこには掛け軸や壺などではなく、刀が飾られていた。
専用の掛け台に縦に置かれたそれは、黒光りする漆塗りの鞘、金の鍔、金糸を巻かれた柄、下緒。
と、いかにも宝刀といった豪奢な拵えである。
「そう言えば。あれをその娘に与えたそうですね」
「ああ、あれか」
また寺田が何を思ったのか、不思議と嬉しそうな顔になった。
「いいんですか、一介の浪人者に」
「ん、ええんや」
あれとは会府藩に伝わる宝物の一つで、
『独り舞台』と別名のある刀だった。
黒い石目塗の、地味な何の変哲も無い鞘。
拵えにもこれといった特徴は無い。
藤本の抱えている刀である。
しかしそこに収められた刀身は、どこか心を惹きつける。
反りはやや深く、細い。
反りが浅く肉厚の、現在流行しているいわゆる『勤王刀』と呼ばれるような刀とは一線を画している。
まるで古刀のようである。
重量は普通の刀と変わらないはずなのだが、
重みの散り具合が良いのか、持つと柄が手に吸い付くように、驚くほど軽く感じられる。
抜きん出た実力のために研修期間を必要としなかった藤本は、
他の同時加入した隊士より先に現場に就かされ既に何回かの突入を経験している。
『独り舞台』の切れ味は驚くほど鋭かった。
濱口を捕えるために浪士を横薙ぎに斬った時も、
すらりと、決められた軌道の上を奔るように刃紋が宙を滑った。
その斬り口は浪士の胸から背骨まで達した。
藤本は寺田の提案を受け入れ、あの屋敷で有紀と詩子の看病を受け、養生した。
傷はもう癒えている。
だが。まだ足りない。まだ。
自分にできることは、ただ斬ることだけだ。
そうすることでしか何かとてつもなく大きなものに対して、
自分が関われる方法はないと思っていた。
しかしこのままではあの白般若すら斬ることはできない。
あの時は傷を負ってはいたが、
たとえ傷を負っていなくとも互角に渡り合うことが出来たかどうか。
もっと、鋭くならなければならない。
あやに会わなければならない理由があった。
藤本は縁側の上ですっと目を閉じ、神経を研ぎ澄ました。
目の前の、葉の一枚が落ちるのも聞き逃さないように。
(……?)
すぐ近くに、何かの気配を感じた。
すると、まるでそれを邪魔するかのように、子供たちの声ががやがやと近づいてきた。
目を開くと、おとめ組の道重が子供を引き連れて歩いていた。
「あ、藤本さん。こんなところで何してるんですか」
道重が藤本の姿に気がつき、呑気に言う。
子供たちがわいわいとついてくる。
皆一様に、上のほうをきょろきょろと見ている。
「こっちじゃないのかなあ」
「どこにいるんだー」
「でてこーい」
何かを探しているようである。
「あ! いた!」
子供の一人が、藤本の前の木を指さした。
それに合わせるように、にゃあという小さな声が、木の上のほうで聞こえた。
枝の上で、小さな子猫が震えていた。
「ほんまお宝やで」
寺田が言った。
「オレもちょっと振ったことがあるけど、ありゃ妖刀やな」
銘は打たれていないが、江戸初期の刀工、武州住上杉洋史の作と言われている。
あまり知られた刀工ではない。
しかし、その一振りにだけは、ちょっとした“いわく”がある。
ある古物市に、それはあったという。
ある武士がそれを見つけ、手にした。
地味な黒石目塗の鞘に地味な黒巻きの柄。
しかしその場で試しに抜いて見ると、
反りがやや深く細身で、まるで古刀のようだが、
乱れ刃紋の刀身はそれは美しく、武士の心を魅了した。
すると突然、武士は手先から痺れていくような感覚に襲われた。
まるで阿片を吸わされたような、幻想的な気持ちになった。
気分が高揚し、浮かれたような状態になった。
気がつくと、周りでいく人もの人間が血を流し倒れていた。
話を聞きつけた奉行所の与力たちが駆けつけた。
近くの武士も数人駆けつけた。
しかし誰も、その刀を手にした武士を止めることが出来なかった。
浮かれ状態の武士は群集の中心でただ独り舞い踊り、
止めようとする与力、武士をことごとく斬り捨てていった。
周囲で見ていた人が後に話したことによれば、
それはさながら、独り舞台のようであったという。
無論、ただの伝説である。
後に実際に幾人もの人間が『独り舞台』を抜いたが、
そのような惨事になったということは、いくつかの眉唾物の伝承を除いて、聞かない。
伝説とは、得てして周りの人間が勝手におもしろおかしく作り上げていくものである。
ただ、周囲の人間が『独り舞台』をそうして畏れたのは事実であるし、
確かに見事な刀ではあったので、宝物として大名に預かられることになった。
「なぜそこまでその娘に?」
寺田は少し考えたあと、笑顔で言った。
「わからん。なんか、面白いかなと思っただけや」
「またそんなことを……」
「しかし、おもろい顔するようになったもんやなあ。藤本」
寺田は遠くを見ながら感慨深げに、呟いた。
とても、藤本が人斬りをするようになったきっかけを作った人間が言うようなことではない。
都築が言った。
「楽しんでるんですか? つんくさん」
「どうやろな」
「降りられなくなっちゃったのかな」
道重が爪先を伸ばして木の上方を覗き込む。
子猫は高い枝の上で縮こまり、動けなくなっている。
手を伸ばすが、届かない。
局長の飯田くらいの背なら、手を伸ばせばなんとか届きそうな高さではある。
生きた経験の少ない幼い猫は、知らず知らずのうちに高いところまで登ってしまい、
愚かにも自力で降りられなくなってしまうことが、たまにある。
「重ちゃん、どうしよう〜」
子供たちが道重を見上げる。
道重は困ったように口に手を当てて一人思案する。
「木に登るとか! あ……でも。細いから揺らしちゃったら危ないし……、
じゃあ! 箒でも持ってきて……、でも掃ったりしたら落っこちちゃうかな……」
ああでもない、こうでもないと、子供たちが口々に騒ぎ立てる。
子猫はにゃあにゃあと鳴いている。
一人で静かにしていた藤本にとっては、迷惑この上ない状況である。
「藤本さん。どうしたらいいと思います?」
しかしそんなことはまったく気にせず、道重は助けを請うように藤本を見る。
子供たちも追って藤本を見た。
道重の期待が子供たちにも伝わったのか、
自分たちの見知らぬ謎の武士に対し、
まるで未知であることが、どんな不可能も可能にしてしまう法力使いの証であるかのように、
無邪気な期待のまなざしを藤本に向ける。
藤本はふと、八馬屋で、突然子供に泣き出されたことを思い出す。
うっとうしい。と思った。
「藤本は野生の獣や」
寺田が言った。
「壬生娘。も獣やが、ちょっと檻の中に入ってたのが長かったかな、
おとなしくなってきてしもうたからな」
寺田は茶碗を持った。
「なんか変わりはじめた野生の獣に『独り舞台』をやったったんや。
それが今度、壬生狼。の中でどう生きるか。それはまあ、
娘。とっても、藤本にとっても、見ものやな」
と、葉が一枚、茶室にひらひらとどこからか入り込んできた。
「やっと風が吹いてきましたかね」
都築が言った。
日が傾きはじめ、山の上からわずかな風が降りはじめてきたようである。
どこからともなく有紀が現れ、あちこちの開け放たれた戸を丁寧に閉めていく。
一枚の葉を見ながら、ふと寺田は思った。或いは……
「なんか、託しとるのかもしれへんなあ」
「え? なにか言いました?」
鈴木が言う。
「いや、ええわ」
つまらない感傷だ。と、寺田は思った。
日が傾いたせいか、屯所の周りにも風が吹きはじめた。
と。ふうっと強めの風が、屯所の中を駆け巡った。
道重と子供たちはいっせいに、とっさに顔をそむけ、目を閉じた。
その瞬間。
かん、と。小さな堅い音がするのを道重は聞いた。
それは道重もよく知る、刀を鞘の中に納める音だった。
一体どこから聞こえたのかと道重がきょろきょろ辺りを見回すと、
それまで縁側に胡座をかいていたはずの藤本がいないことに気がついた。
「あ、藤本さん」
立ち去ろうとする藤本の背中を、少し離れたところに見つけた。
しかしもう届いていないのか、藤本は声に全く反応せず歩いていく。
何か悪いことでも言っちゃったかな、と呑気に思う道重の後ろで、子供が叫んだ。
「あ!」
声に振り返ると、木の上で縮こまっていたはずの子猫が道重の足元に立っていた。
子猫は何事も無かったかのように、にゃあと一つ鳴き、そのまま木陰に消えていく。
そばに、子猫が乗っていた枝が落ちていた。
黒く、大人の手首ほどの太さのあるそれは、
まるで何度も鉋を掛けられたかのような滑らかな白い断面を、道重のほうに向けていた。