第二部
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一、その名は
四条通りの少し奥まったところにある、
旅籠の裏口の脇にできた軒下の小さな日陰で、
亀井絵里は緊張していた。
通りを行く人の群れは、そんな亀井に全く気づかず通り過ぎていく。
とく、とく、と胸が高鳴っている。
うだるような夏の京都の暑さに、額に浮き出た汗がつつーと、
亀井の家鴨のような口の横をつたって、顎の先から落ちる。
「そろそろだ」
前で建物の中の様子をうかがっていた新垣里沙が、振り返って小声で囁く。
「はい、組長」
緊張した面持ちで大きく頷くと、
新垣は亀井の目をじっと見て何かを確認したように口を一文字にして二度三度、小さく頷き、
また前に向きなおる。
壬生娘。組が新編成された後の、最初の大きな捕り物だった。
そのこともあってか、今日は副長の矢口真里自ら出陣し、指揮をとっている。
亀井は幹部候補生として、今は組頭――副長助勤の一人、新垣里沙の下に、
伍長としてついている。
新垣は見た目は小柄で華奢だが槍の名手で、
その明るくさっぱりとした人柄から、多くの隊士に慕われている。
亀井たちが加入してくるまでは組の最年少だったために、
先輩幹部にもよく可愛がられていたらしく、
加入した新人の教育係に抜擢された時はそれは張り切って、
その張り切りぶりから「よ、塾長!」と矢口らに、よくからかわれていた。
組の大幹部である安倍、飯田、矢口たちは、会合で顔を合わせるたびに、
自分こそがもっとも娘。組を愛しているのだ。いや自分だ。と、
喧嘩しそうな勢いでよく言い合う。
新垣はそんな彼女らを遠くで嬉しそうに眺めながら、
いや自分こそが、そんなみんなを含めた娘。組を一番愛しているのだ。と、
笑ってよく亀井に言った。
亀井は、そんな新垣も含めた娘。組を、自分こそが一番愛していると言いたい、と思っている。
気がつくと、新垣が振り返って、亀井のほうをじっと見つめていた。
それを見て亀井は、不思議そうに首をかしげる。
「……?」
「か〜めい〜」
自慢の濃い眉を釣り上げながら言う、妙に芝居がかった大袈裟な言い方。
新垣は亀井を叱るとき、いつもこういう言い方をする。
本人の中に、何かそういった教育者像のようなものがあるらしい。
「はい?」
「ニ〜ヤニヤしてんな」
「あ、は、はい」
亀井は思わず口元を押さえた。知らないうちに、新垣の背中を見る顔が微笑んでいたのだ。
「くねくねするな〜」
「は、はいっ」
言われて反射的に背筋を伸ばす。
困った時に思わず体をくねくねさせてしまうのは、亀井の悪い癖である。
「しっかり、しろ〜」
「押忍!」
新垣が再び背を向けて建物の中に集中したのを確認すると、
亀井は気持ちを落ち着けるように深呼吸をし、
青く澄みきった空を見上げて故郷の両親のことを思った。
(お父さん、お母さん。絵里はこれから、人を斬ります)
家鴨のような口を、強く結んだ。
亀井たちのいる裏口とは反対側の、通りに面した表口の方が騒がしくなる。
斬り込み隊が、旅館の玄関から突入した。
「御用改めである!」
先頭は副長の矢口真里。組で一番の小柄だが、胆は誰よりも大きい。
「壬生娘。さくら組副長! 矢口真里!」
と同時に建物の中で叫び声と怒号とが交錯する。
「上がれー!!」
「おおー!」
「どけっ」
「ちょ、ちょっと待っておくんなはれ」
「壬生娘。組やー!」
胸の鼓動が一段と高まる
「抜刀しておけ」
中の様子をうかがいながら新垣が小さな声で言った。
槍の名手は、今日は屋内戦闘では不利になるため、槍を刀に持ち替えている。
「はい」
亀井は腰の黒い鞘から、白い刃をすらりと抜いた。
初めての突入経験だった。
目的はこの旅籠を隠れ家にしている藤州浪士らの摘発。
その中でも特に重要人である、濱口優と有野晋哉両二名の捕縛。
数々の悪事をはたらきながら自らを「よゐこ」と名乗る不逞の輩である。
亀井たちは、それが裏口に逃げた場合の待ち伏せの役割を担っていた。
「娘。組や」
通りを行く町人が突入に気がつき、ひそひそと呟きあい始めている。
人々の視線が外の亀井たちに集まってくる。
「壬生狼(みぶろ)や……」
「壬生の狼どもや」
皆、遠巻きに畏れと好奇心の混じった視線を送ってくる。
しかし決して目は合わせようとはしない。
亀井はそんな町人たちの視線に耐え切れず、思わず目を伏せる。
「亀井!」
背を向けたまま、新垣が渇を入れる。
「はいっ」
背筋を伸ばす。
「目を離すな」
静かに言った。
「……押忍」
「追えー!」
屋内が俄かに緊張に包まれる。
その時、亀井が上を指差した。
「あ、上!」
建物の二階の障子が開き、数人の浪士が外に逃げ出そうとしていた。
「濱口さん、こっちだ」
「ちょ、ちょい待ってや〜」
赤ら顔の濱口は徳利を片手に持ったまま、浪士に引きずられるように現れ、敷居をまたいだ。
「こっちだ! ニ階から逃げるぞ!」
亀井の発見を受けて新垣が周りに向かって叫んだ。
「あ、やべえ〜」
濱口は焦って、屋根の上をどかどかと逃げ始めた。
勢いよく踏まれて割れた瓦の破片がぱらぱらと下に落ちてくる。
「ガキさん。逃がすな」
二階の窓から色の白い、まるで美男子のような娘が顔を出した。
二番隊組長の吉澤ひとみだ。
「はい! 追うぞ亀井」
「押忍っ」
人ごみをかき分け、勢いよく走り出した。
濱口らは屋根づたいにいくぶん、移動が遅い。
しかしこのまま通りの死角に入って、他の建物の中にでも入られてしまえば、見失ってしまう。
逃げる先を意識しながら追う新垣の足は速い。
亀井は新垣の背中を必死に追いかけた。
しばらく行くと、
新垣は走りながら近くの団子屋の店先に掛かっている暖簾を見つけ、
ひょいと取り上げると、
「おばさん! ちょいと借りるよ」
と竹竿の端を両手で持ち、
「おりゃー!」
と叫んで、屋根上の濱口らの方向に投げつけた。
赤い布をばたばたとさせながら、青い空を団子屋の暖簾が一直線に飛んでいく。
暖簾は見事に先頭を行く浪士の足元を絡めとり、
「うわああ」「お、おい押すな」「ちょ、ちょっと酒が――」
三人ともを屋根の下に転げ落とした。さすがは槍の名手。
逃げ出した旅籠から五軒ほど先の路上であった。
「痛ってえ〜」
尻餅をついて動けなくなっている三人に、すかさず新垣が詰め寄り刀を突きつけた。
「壬生娘。さくら組五番隊隊長! 新垣里沙だ!
藤州浪士、濱口優! 貴様を――」
が、その時である。
追いついた亀井が、走ってきた勢いそのままに路上の小石につまづいた。
「あ!」
とっさに目の前の新垣の着物をつかんでしまう。
「あ」
不意に後ろから亀井に寄りかかられて、小さな新垣はよろけて地面に手をついた。
「くふぅ」
浪士の一人がそれを見てすばやく刀を抜いた。
「きえええええええ」
迷わず新垣に向かって刀を振り上げた。
「新垣さんっ!」
亀井が叫んだ。
赤い鮮血が、青い空を染めた。
――路上に倒れこんだ二人の前に、黒い影が立ちはだかっていた。
太陽の逆光で、亀井にはその容貌がよく分からない
前の新垣も、同じように影の背中を見上げていた。
新垣に向かって刀を振り上げた藤州浪士は、それを振り下ろすことなく、
立ちはだかった影の人物に胴を横薙ぎにされていた。
「あああああああああああ」
浪士は胸から鮮血を吹き上げながら断末魔の叫びを上げ、路上に突っ伏した。
影は浪士が動かなくなるのを見届けると、
まるで紙片でも斬り捨てたかのように全く揺らぐことなく、
そのまま剣先を地面にへたり込んでいる濱口の顔に向けた。
「濱口、優だな。……私は、壬生娘。おとめ組――」
「藤本!」
影の言葉をさえぎった叫び声の方を亀井が振り返ると、
そこに矢口が立っていた。
亀井の後を追ってきていたのである。
ひときわ背が低いために、背後の群衆の中でも矢口のところだけ頭一つ二つ分、へこんでいる。
矢口に続いて、隊士たちが次々に人ごみを掻き分けて集まってくる。
有野は既に突入組の手によって捕縛されていた。
口を布で縛られているために声を出せず、ひょろ長い体を必死でばたばたさせている。
本人は必死のようだが、なぜかふざけているように見えてしまう。
名を呼ばれた影の人物が、剣先を濱口の眼前からそらさぬまま、ゆっくりと振り返った。
それは狼の装束――
浅葱色の、袖口をダンダラ模様に染めた羽織を着た、藤本がそこにいた。
昏い目をしていた。
冷酷と言うより、無垢と言ったほうが近いのかもしれない。
柔らかくはないが、固いわけでもない。
なにもない。
「捕えろ」
「はっ」
矢口の声に従って、平隊士らが濱口を捕縛する。
まだ赤ら顔の濱口が叫んでいる。
「ていねいに扱えや〜、お前ら。オレはな〜」
隊士たちが濱口らを縛り、連行していく中で、
矢口はむっとした表情で藤本を睨みつづけた。
藤本は足元の新垣を一瞥して、
「……やる気のない餓鬼を前に立たせるな」
そう矢口に言った。
新垣が悔しそうにうつむく。
矢口は何も答えず、ただ藤本を睨んだ。
藤本は矢口の目線を平然と受け止め、しばらく見つめあった後、
「邪魔なだけだ」
と言ってきびすを返し、周りを取り囲む人ごみに向かった。
藤本の姿を畏れる人々が、おののき次々と道を開いていく。
やがて藤本の浅葱色の後ろ姿は、群衆の中に消えていった。
「くっそ〜」
藤本の後ろ姿を見送りながら、新垣が言った。
「藤本さん……」
亀井も藤本の後ろ姿を追っていた。
「……カッコいい」
「はぁ〜!?」
新垣が太い眉毛を八の字にして叫んだ。
藤本を見送る亀井の目が、きらきらと輝いていた。