「寺田様」
石川もその男を見て言った。
すると男はどこか気まずそうに、
「……石川〜。こういうところではつんくって呼べ言うたやろ」
と言った。
市中に出回るとき、周りの人間に自分をつんくと呼ばせるこの男は、
本当の名を、寺田光男という。
幕府側最高の兵力と言われる、会府(あっぷ)藩藩主である。
会府二十三万石を領する堂々たる大大名の藩主。いわゆるお殿様である。
目の前のへらへらと笑っている軽そうな姿からはとても想像できない。
この男はまた、京都守護職という重職を幕府から仰せつかっている。
守護職、所司代といった、
天皇のお膝元である京都の治安を維持する組織群を束ねる最高権力者であり、
あの壬生娘。組も、指令系統をさかのぼれば京都守護職、つまり寺田に行き着く。
壬生娘。組が自ら名乗るときに言う「会府中将様御預(あっぷちゅうじょうさまおあずかり)」
の会府中将とは寺田のことである。
そんなことから現在、京都に居を置くこの男が、
激務から離れ、身分を隠して町に出るときの姿が「遊び人のつんく」であった。
本人曰く、「守護職たるもの、常に市井の空気を知っておかねばならない」という。
かの八代将軍、暴れん坊某もかくやである。
本来なら藤本のような、下級藩士ですらない浪人者が口を聞けるような人物ではない。
目通りすることすら叶わない。
身分で言えば、金貨と塵屑以上の差がある。
しかし「遊び人のつんく」は、そういったことにはあまりこだわらない、
こだわらせない性格だった。
「ひさしぶりやな」
つんくはしみじみと言った。
藤本とつんくの出会いは数年前にさかのぼる。
何より、藤本をこの生業に引き込んだのが、他ならぬこの「遊び人のつんく」であった。
しかし藤本には感慨に浸っている暇は無かった。
ここにつんくがいるということで、事情が少しずつ飲み込め始めていた。
目覚めたばかりの頭も、より鮮明に、覚醒しはじめている。
自分は恐らく気を失ったあの後、
壬生娘。組か、奉行所か、とにかく幕府側の人間に拾われたのだ。
その後何があったのかは分からない。
しかしここできちんとした治療を受け、つんくが現れたということは、
藤本の職務を知る者によって身分が保証され、
少なくとも、読瓜藩襲撃の罪を問われ、
罪人として拷問を受けるというようなことにはなっていないということだ。
藤本は痛みの走る腰の傷に我慢しながら、起こした体を両手で支えながら言った。
「あの娘はどうした」
「……まあ、落ち着きや」
「どうした」
「あなた、ちょっと」
石川が藤本の不遜な態度にしびれを切らしたように口を挟んだ。
つんくは藤本の取り付く島も無い態度に、ため息をついた。
「どうもこうも、ないで」
つんくの緩慢な様子に藤本は苛立ちを隠せなかった。
今にも床から飛び出し、あやを探しに走り出そうというほどの勢いだった。
しかし藤本は、その場の感情の勢いで行動できてしまうような人間ではなかった。
「大体の事情は聞いとるよ。
……あんなあ。今、外に出ても、お前一人じゃどうにもならへんで」
分かっていた。
外の桜が咲いている。ということは、あれからもう幾日も過ぎている。
今飛び出たところで、何のつても、力も持たない自分が、
たまたま出会っただけの、素性も知らぬ女のさらわれた先をつかむことなど、出来るはずが無い。
自分は言われるがままに仕事をこなしていただけの、ただの人斬りなのだ。
動いたところでどうにもならない。ましてや体も、頭も働かない今の状態では。
焦りと冷徹な思考が、藤本の中で交錯していた。
「一体何があったって言うんや。お前とあの娘に」
つんくがそれまで黙って聞いていた有紀のほうに目をやると、
有紀は心得たように詩子を連れてそっと部屋から出ていった。
部屋には、つんくと藤本と、石川の三人だけが残った。
「まだ無事や。たぶん、やけどな」
有紀と詩子が部屋から離れていったのを見計らい、
藤本を少しでも落ち着かせるためであろう、つんくの放ったその短い言葉は、
あやの行方がまだ知れてないこと、
しかし大事には至らないと確信できるだけのものが、何かあるのだろうということを示していた。
「これはな。もう、お上の政事(まつりごと)の話や。
お前らはもう、全く知る必要の無いことや」
つんくは確かめるように藤本の目を覗いて、またため息をついた。
藤本のつんくを見る目に、まったく揺らぎが無かった。
「そやけどな。それでもお前には助けてもらったし、
こっちに協力してくれるなら、少しくらいなら話したってもええ。
……どうや?」
協力。とは、あやのこと、あの能面の集団のことについて、
知っている限りのことを話せということなのだろう。
つまり守護職も、能面の集団の正体をまだよく分かっていない。
これは取り引きなのだ。藤本はそう思った。
誠意を見せるから、こちらにも誠意を見せろと。
そこにはつんくの、藤本に対する個人的な思い入れもいくらかは関係していたのだろう。
本来ならば、壬生娘。組に捕らえられて、
重要人物として拷問にでもかけられてもおかしくなかったのだ。
藤本は表情を変えず、小さく頷いた。
それを確認すると、つんくは石川を目で促した。
石川が小さな紙包みをすっと藤本のほうに差し出した。
藤本の表情がわずかに変わった。
「あなたの懐に入っていたものよ。治療のときちょっと邪魔だったから……」
白く薄い油紙に包まれたそれは、アメのように透き通った鼈甲の櫛に、
漆と金箔が複雑に絡み合った美しい細工が施されたものだった。
あやが藤本にあげると言ったもの。
あやはその時、藤本のことをかわいいと言った。
懐にしまったまま忘れていた。
藤本はそれを手にとった。
少しも傷がついていなかった。
「何から、話そうか」
つんくが静かに言った。
「そうや。まず、あの姫はな……」
藤本は手の櫛を見つめていた。
その時、たとえつんくの口から御三家、御三卿の名が出ても藤本は驚かなかっただろう。
読瓜藩の徳光和夫、会府藩の寺田の名が出ていて、
あの姫がそこらの武家の娘ごときでは、その方がおかしい。
夜陰に隠れるように行く駕籠の一団、能面の集団、それにあの、なんとも言えぬ気品。
しかしつんくの口から出てきたものは、藤本の想像を越えたものだった。
「あのお方の父君は――」
(……お方?)
会府ニ十三万石の領主が、「お方」と呼ぶ。
「天子(てんし)様や」
「……天子……様?」
何も考えず、その言葉を繰り返していた。
「そや、帝(みかど)や」
つんくは確かにそう言った。
帝――天皇のことである。
覇牢(はろう)幕府三百年の歴史の中で、
天皇は実在から、象徴の存在に追いやられていた。
戦乱の時代を制し、全国を統一した覇牢家は、
まず諸大名とともに、朝廷を徹底的に弱体化させた。
生きるにやっとの棒禄と小さな領地しか与えず、政治への口出しを事実上一切禁じた。
日本は古来より神の国とされ、天皇は神の子、天子とされていた。
人を統べるのは天子の役割であり、それは今でも根強く人々に信じられている。
鎌倉の時代より続く武家政権はあくまで朝廷の代理によって行われているもので、
実権はあくまで朝廷――天皇のもの。とされていた。
覇牢幕府は諸大名だけでなく、その朝廷の力を弱体化させ、発言力を徹底的に弱めることで、
天皇を無力な象徴上の存在として政事の外に追いやり、
三百年もの、世界的にも稀に見る安定した政権を築いたのである。
しかしそれでも、三百年の間に時代のほうが限界に来ていた。
商品文化の発展により、商業を中心とした商品経済へと移行しつつあった時代に、
古くからの農業を中心とした自給自足を基盤とする幕藩体制が対応しきれず、
幕府を含め、多くの藩が構造的な財政難に陥っていた。
さらに追い討ちをかけるように黒船が来航し、
諸外国からの圧力に揺れ動く幕府に対して民衆の不満が蓄積していく。
そんな時流に乗るように、全国に広まっていったのが、
尊皇攘夷という思想だった。
疲弊した幕政を批判する象徴として。
「幕府」の対義語としての「天皇」の名に、再び衆目が集まった。
皮肉にも、三百年間幕府が天皇の力を封印し、
実体あるものから象徴へと追いやったことが、
当時の幕政に反感を持つ民衆の天皇に対する想いを、より特別な、至高のものへと高めていた。
帝の子。
藤本の視点は定まらず、ただつんくのほうをぼうっと見ていた。
視界の隅で、桜の花びらがゆらゆらと落ちた。