娘の背は小さく、顔にはまだあどけなさが残っている。
浅葱色のダンダラ羽織を着ていなければ、
誰もこの娘が京中で恐れられる壬生の狼とは気づかないに違いない。
それ程、見た目にはなんの迫力もなかった。
「名乗らない……んだったよね」
辻と名乗った娘はそう言うと、剣先を藤本に向けたまま、刃を横に寝かせた。
すっと腰が落ちる。
平正眼の構え。
向けられた刀身の美しい曲線が、藤本の位置からだと縮められて三日月のように見える。
やや緊張しているのか、肩に力が入っているように見える。
距離もまだ剣が交わる間合いではない。しかし……。
目の前の娘がこの構えをとった途端、背筋がぞくりとした。
それは幾人もの剣客と刃を交わしてきた藤本の、本能的な勘だった。
「ふっ」
辻の口元から軽い呼気が漏れた瞬間、
(――突き)
藤本は咄嗟に体の重心を右へと流した。
左頬のすぐ横を風が駆け抜ける。
ひょう。という風切り音とともに藤本の左耳の端が微かに、鋭利に裂ける。
(……はやい)
藤本は相手の刃線の動きを追っていた目を素早く戻す。
辻が剣の間合いに入っていた。
油断していたわけではない。
しかし一瞬で、音もなく間合いを詰められていた。
「あ〜、やっぱりよけちゃうんだ……」
既に間合いに入っているにもかかわらず、辻は見るからに肩を落として言った。
その仕種は外見そのままに、年端もいかぬ町の童女のようである。
「できれば殺さないようにって、言われてたんだけど」
辻の視線が上を彷徨う。まるでその場に藤本がいるのを忘れているかのように。
「あ〜〜、どうしよ」
藤本に向かってではない。何かを恨むように、天に向かって言っていた。
「……無理かも」
そしてあらためて藤本に向き直ると、
「次は二ついくね」
と真剣な顔に戻り、再び平正眼に構えた。
間を置かず辻が後ろ足を強く蹴った。
さっきよりも速い。しかし。
今度はしっかりと待ち構えていた藤本にははっきりと、辻の飛び込んでくる刃線が見えた。
――本来、突き技というものは、繰り出す側にとっても危険性の高い技と言われる。
もとより自分から相手に最も突き出した部分、刃先を急所に向かって最短距離で結ぶのだから、
技としてはどれよりも速く非常に有効である。
しかしその反面、縦に横にと長く斬ることに比べ、突きの有効な部分は刃先、
つまり刀の先の一点のみである。
となれば、逆に言えば受ける側はその一点を外しさえすればいい。
その一撃を外しさえすれば、
体勢を崩した突く側は成す術もなく相手の反撃を受けるしかない。
突きとはそういう技だった。
藤本は鋭く迫る辻の刃先の僅かな軸のかたよりを見切り、体(たい)を左に流した。
そして突き出た刀を右上に擦り上げ、そこから体勢を崩した相手の小手へ振り下ろす。
はずだった。
突き出されたはずの相手の刃先が藤本の目の前から消えていた。
恐るべき速さで一の太刀は既に辻の手元に戻されていたのだ。
瞬時、辻と目が合う。
(……まだ、くる!)
藤本の全身が総毛立った。
この突きの速さで、一の太刀を藤本に外されていながら尚、辻の体勢が全く崩れていない。
むしろ突きを外した機に乗じて反撃を繰り出そうとした、
藤本の体のほうが、左のほうにわずかに泳いでいる。
流れた藤本の体に向かって容赦なく辻の第二撃が迫る。
胴への突き。
「むう」
小さなうめきにも似た声を漏らしながら藤本が踏み出した左足に力を込める。
足元で小石がじゃり、と音を鳴らせる。
藤本は柄から左手を瞬時に離し、
振り下ろす勢いでそのまま右手を支点に刀をぐるりと回転させると、
体を流しながら刀身の棟で辻の突きを横からはたき、受け流した。
甲高い金属音が暗闇に響く。
そしてそのまま更に刀を回転させ、上段の位置に持ってくると、
体勢を立て直し、思い切り縦に振り下ろした。
刀身を円月のように一回転させる、曲芸のような技だった。
辻がぎりぎりの捌きで体を引き、それを躱す。
逃げ遅れた辻の髪が、斬撃の勢いで絶たれ、川風に飛ばされ消えていった。
手首近くから、つつーと血が流れる。藤本の切っ先が、わずかに届いていた。
「……すごい。避けた!」
辻はどこか感心するように言った。
(なんだ、こいつは)
藤本は戦慄を禁じえなかった。
繰り出すたびに突きの鋭さが増していく。
少しずつ力が抜けてきているのか。
最初の突きは、力みゆえに遅かったとでも言うのか。
「じゃあ、次は三つ」
どこか藤本に避けられたのが嬉しいことでもあるかのように、辻はそう言った。
言ったからには三つ来るのだろう。藤本はそう思った。
複雑な駆け引きをしてくるような相手ではないと分かっていた。
そして恐らく、その三つが可能であることも。
河原は小石が敷き詰められ、とても足元が安定しているとは言えない。
それでも尚、あの速い突きが三つも連続で繰り出せると言うのか。
わかっていた。
この小さな狼は藤本が刀を抜くまで、足音一つさせず近づいてこれるような奴なのだ。
変わっていない。藤本はそう思った。
こいつらはやはり獣の群れだ。“あの頃”と何ら変わってはいない。
と、その時だった。
風の向きが変わった。
藤本はとっさにその場から数歩後ろに飛び、
ぼーっと二人の戦いを眺めていた亜弥々姫の近くに走り寄った。
辻がむっ? とういう顔をした。
あたりの暗闇が蠢いていた。
星明りに、不気味な能面がいくつも浮かびあがっていた。
いつのまにか周辺を囲まれていた。
七、八、九……。
藤本は数を数えた。二十人近くいる。明らかに数が増えている。
すかさず辻が懐から仲間を呼ぶ呼子を取り出し、吹いた。
ぴり、ぴりり、ぴりりりりと、高い音があたりに鳴り響く。
藤本はしまった、と思っていた。
橋のあたりで考えていたのと同じように、ここでは身を隠す場所が無い。
辻との戦いに時間を取られすぎた。ここでは壁も無く、周りを囲まれてしまう。
多対一というものは、思う以上に無理のある戦いである。
特に周りを囲まれてしまうと、前、横、だけでなく後ろにも常に注意を配らなければならない。
単純に言って、三人に囲まれたら三倍の、
速さと、体力と、知覚の鋭敏さが求められる。
本来なら挑むべき戦いではない。
だからこそ一人で多人数と戦う時は、
壁や障害物の多い場所で、大勢での一気攻めをしにくくし、
乱戦に持ち込み、局地的に一対一の関係を作るのである。
しかしこの河原のように広く、何も無い場所ではそれができない。
せめて塀のある町中まで走るか。
藤本は隣の亜弥々姫を見て思った。
だが、能面の集団は既に周りを厚く取り囲み、じわじわと輪を縮めてきている。
自分一人ならいざ知らず、
果たして亜弥々姫を連れてこの輪から無傷で連れ出すことができるだろうか。
徐々に輪が縮まっていく。
藤本はその輪にあわせて、じわじわと後退するしかない。
そしてそのうちに、完全に輪の中心に追い込まれてしまうのだ。
分かっていても避けることができない。
牽制するように、能面が輪の中からときおり飛び出しては、藤本に突っかけてくる。
それを丁寧に逃さず一人ずつ斬り倒していくか、
それとも、ある程度の傷を覚悟して、輪の縮まりきらないうちに一点を突破するか。
そう思ったとき、突然、藤本の背中に触れるものがあった。
はっ、と咄嗟に藤本は数歩引きながら、
振り返りざまに背中に触れた相手を刀を横薙ぎにしようとした。
辻だった。
藤本は途中で刀を止めた。
辻も能面に囲まれ、突然背中に触れた者に対して咄嗟に振り返り、
斬ろうとした刀を途中で止めていた。
その隙を逃さず、能面が背後から襲い掛かる。
藤本と辻の目が合ったのは一瞬だった。
二人はお互いに向かって更に大きく足を踏み込んだ。
一瞬の出来事だった。
辻の背後に襲い掛かった能面は藤本に、藤本の背後に襲い掛かった能面は辻に、
一太刀で斬り伏せられていた。
互いを襲った能面がうめき声を上げながら地に伏せると、
二人は再び背中合わせになり、能面の輪に視線を戻した。
何も口には出さずとも、一瞬のやりとりで二人は通じ合っていた。
――ここは共闘だ。
二人の目が語っていた。
この場を切り抜けるために、一時的に手を組む。
ここで敵対しても、多人数の敵の前に互いに自滅するだけだ。
障害物も何もない河原だった。
しかし藤本の背後に、背は小さいが、強固な壁ができた。