捨てていこう。と思った。
やはりこの娘といつまでも一緒にいるのは危険だ。
この娘は捨てて、一人で逃げよう。
おかしな出来事ばかりで少し気が動転していたのだ。
この娘を連れ出して、自分はこれから一体どこへ行こうと言うのだ。
娘をここに置いて、一人で身を隠し、朝になるのを待とう。
そして日が昇ったら、祇園からの人ごみに紛れて八馬屋に戻ろう。
そうすればまた今までと同じく、何事もなかったようにいつも通りの日々に戻る。
人斬りの日々に。
「うん?」
藤本のつぶやきに反応し、
懸命に藤本の傷口に布を巻いていた娘が見上げてくると、
藤本は思わず娘から目を背けた。
娘があまりにも無防備に、真正面から大きな瞳を近づけてくるので、
まともに見ることができなかったのである。
藤本のように闇の中に生きてきた人間にとって、それはあまりにも真っ直ぐで、眩しすぎた。
「あなた、名前はなんて言うの?」
「…………は?」
突然の問いに藤本は意表を突かれた。
「名前よ、名前。名前くらいあるでしょ〜?」
しばらく黙り込んだ後、まるで誰にも聞こえまいとするかのように、静かに言った。
「……美貴。藤本、美貴」
「へえ〜! かわいい」
「か、かわいい?」
すると藤本の恐ろしく不可解な表情をよそに、娘はひとりで楽しそうにつぶやき始めた。
「みき……、ミキ? ……みき! おいミキ! ……う〜ん。ちょっと呼びにくいな」
指を口に当てたりしながら、一人で何かを思案しはじめている。
「みきっぺ? ……いまいち。
みきたん? …………う〜ん、ちょっとまだ馴れ馴れしすぎるか。
えげれす風に、みきてぃ! とか。……でもなあ、
あんまり外国の話するとみんな嫌な顔するんだよね。う〜ん」
娘は腕を組んでしばらく考えた後、
「そうだ! じゃあ、みきすけ。ってどう?」
と高い声で言った。
藤本は娘が何を言いたいのか分からず、眉間に皺を寄せて首をかしげた。
「呼び名よ、呼び名〜」
「はあ」
「どう?」
「……どうでも」
藤本は少し鼻にかかった声で言った。川風で少し体が冷えてきている。
「じゃあ決まり! みきすけ! 私のことはあやでいいよ」
「……あや」
「そ。みんな亜弥々姫って呼ぶからあや。あややでもあやちゃんでもいいよ」
娘は一人で楽しそうに言った。
この娘には今の状況がわかっているのだろうか。と藤本は思った。
(姫……)
藤本はあらためて、あやと名乗ったこの娘を見る。
赤い豪奢なその着物は、
とてもそこらの身分で身に付けられるものではないことは藤本でも分かる。
それにこの混沌とした状況の中でも、浮世離れした、どこかずれた感覚、能天気さは、
俗世と隔離されてきた高貴な身分の人間特有のものなのだろう。
この娘は偽りなく、姫と呼ばれる身分なのであろうと思った。
気がつくと、亜弥々姫はまた藤本の顔を不思議そうに覗き込んでいた。
藤本は自分がぼうっと亜弥々姫のことを見つめていたことに気がつき、
あわてて目をそらし、誤魔化すように、
「きれいな、ものだな」
と言った。
亜弥々姫は不思議そうに藤本の顔をしばらく見つめた後、
「あ、これ?」
と頭をかしげて、頭の上の髪飾りを指さした。
「あ、ああ」
もともと誤魔化すために適当に言ったことだ。適当に答えた。
「本当? じゃあ、あげるよ」
亜弥々姫は嬉しそうにそう言うと、あわてて髪飾りを抜いて差し出した。
「あ、いや」
「いいからいいから」
そして藤本の髪が短く、とても髪飾りが刺さりそうにないのを見ると、
「はい」
と、にっこり笑って、手に持たせた。
藤本は手のひらに乗せられたそれを見て、確かにこれもきれいなものだな。と思った。
アメのように透き通った鼈甲の櫛に、
漆と金箔が複雑に絡み合った美しい細工が施されている。
おそらくこの娘と出会わなければ、一生触ることもなかったものだろう。
自分と同じ年頃の娘でありながら、
この娘は、いつもこのようなものを当たり前のように身に付けているのだろう。
「もったいないなあ、こんなにかわいいのに」
亜弥々姫が残念そうに藤本の短い髪を見つめた。
「かわいい?」
また不可解なことを言われた。
「うん、みきすけかわいいよ」
藤本は何も言えず、黙り込んだ。どうもこの娘とは話がしづらいように感じる。
「みきすけは、何してる人なの?」
また亜弥々姫の顔が迫る。
「……人斬りだ」
「人斬りさん? はあ〜」
亜弥々姫は興味深げに藤本の顔を見ながら頷く。人斬りの意味がわかっているのだろうか。
「お前は何者なんだ」
言い返すように、ずっと持っていた疑問を再び口にした。
「あやはあやだよ」
亜弥々姫が何故か嬉しそうに、瞳を真っ直ぐ向けてくる。藤本はまた目線を反らした。
やはり捨てていこう。心の中でもう一度、念を押すように言い、立ち上がろうとした。
娘が何者であるかなど、今さら自分が知っても得はないし、興味もない。
今ここに置いていけば、きっと“奴ら”が拾うだろう。
藤本は暗闇の、たった今渡ってきた橋の反対の袂の方向を見た。
後のことは、自分の知ったことではない。
自分が生き残れれば、それでいいのだ。
「あ〜あ。マギマギ先生大丈夫かなあ〜」
そんな藤本の心の内を知ってか知らずか、亜弥々姫は鴨川の流れを眺めながら呟いた。
川のせせらぎが相変わらず大きく聞こえる。
京の中心からも、祇園からも距離を置いているため、
頭上にはこぼれんばかりの星空が広がっていた。
「あんたは、何とも思わないのか」
「あやだよ。あ・や」
亜弥々姫が眉をしかめ、わざとらしく怒ったような表情を見せる。
「……あや」
「にゃははは」
亜弥々姫が嬉しそうに、しかし少し照れたかのように顔をほころばせた。
笑うと顔がくしゃくしゃになるんだな、と藤本は思った。
「……あや、は、今の状況を何とも思わないのか」
「今の状況って?」
「私のような人斬りに連れ去られているこの状況をだ。
どこかへ行く予定だったのだろう」
亜弥々姫はふうっと軽くため息をつくと、満天の星空を見上げた。
「あやはですねぇ〜。どうでも、いいんですよね〜」
意外な言葉だった。
身分のある人間が、いきなり襲われたあげく、
身も知らぬ人間にさらわれているのだ。人も多く死んでいる。
どうでもいいはずがない。
それとも高貴な人間にとって、下賎の者の命などどうでもいいということか。
亜弥々姫は言葉をつづける。
「亜弥々はですねぇ〜。あやのものじゃないんですよ」
「……?」
「おかしいですか?」
亜弥々姫が藤本の顔を見る。
「亜弥々姫は人形なんです。人形浄瑠璃の」
口調がそれまでの馴れ馴れしかったものとは少し違う、
他人行儀のようなもの変わったような気がした。
「人形……」
人形浄瑠璃とは、当時芸能文化の一つとして一般に楽しまれていた人形劇のことである。
三味線の音と太夫の語り、人形の三者で成り立ち、
平安末期の英雄、源義経と浄瑠璃姫の悲恋の物語で人気を博していたことから、
その名をそのまま受け継いだ。
「そ。人形なんです」
「いいなあ〜。みきすけは」
「いい? 私が?」
藤本の心が揺れた。自分が人より不幸と思ったこともないが、
人より幸福と思ったことなど、生まれてから一度もない。
「だって、自由じゃない?」
「いや。……自由では、ない」
「でも、縛られていないでしょ?」
「いや……」
言いかけて藤本は黙った。なんとなく、言い返すことが出来なかった。
考えてみれば確かに、自分を縛るものなど何があっただろうか。
こうして逃げていると、それが余計にいくらかの実感を伴って感じられる。
さっき橋の上で走っている時に感じた、奇妙な高揚感を思い出す。
そこには一種の、開放感もあったのではないか。
「そう……」
それを見透かすように、亜弥々姫は続けた。
「もし、それでもみきすけが自由じゃないんだとしたら、それは……
大切なものが、まだ分かってないんだよ」
「……たいせつ、な?」
「そ」
亜弥々姫はそう言うと右手を上げ、
人差し指をそっと、藤本の胸に当てた。
「ここ。ここにぎゅーっと。ぎゅぎゅぎゅーっとね」
亜弥々姫がほほえんだ。
「するんだよ」
その表情に藤本はどきりとした。
「みきすけはきっと、まだ、知らないんだよね。きっと」
正直を言うと、藤本には亜弥々姫の言葉の意味が半分もわかっていなかった。
しかしこの娘が何かを持っていて、自分にそれは無いのだということだけは、
何となくわかった。
「あやには、ありますよ」
そう言って再び星空を見上げた亜弥々姫の瞳が輝いていた。
確信を持った人間の目だ。と藤本は思った。
何かのために、命を厭わない覚悟を持った人間の目だ。
自分はそういう人間を、これまで何人も斬ってきた。
自分と変わらぬ年の娘に、どうしたらこんなにも凛々しい顔ができるのか。
『斬らなくてもいい』という言葉を思い出す。
斬れ。でも斬るな。でもなく、『斬らなくてもいい』。
この言葉自体が、この娘の所在を表しているのかもしれないと思った。
娘の言った「どうでもいい」は、
周りがどうなろうと構わないという意味ではなく、
自分自身がどうなってもいい存在なのだと、彼女は言っていたのだ。きっと。
こんな小さな、華奢な娘が。
亜弥々姫は自らのことを人形と言った。
しかし藤本は、きっとそんなことはないだろうと思った。
中身もなく、ただ人に操られるだけの浄瑠璃人形。
それはきっと自分のような人間のことを言うのだ。そう思った。
気がつくと藤本の口から、自身も思いもよらない言葉がこぼれていた。
「あんたは……人形じゃない」
「みきすけは、優しいよね」
亜弥々姫がほほえみながら言った。
「ほんと、うれしいよ」
「……私が?」
「うん」
「……そんなことはない」
「そんなことあるよ。わたしを助けてくれたじゃない」
「……そんなことはない」
「一つ、聞いていいか」
しばらくの沈黙の後、藤本が立ち上がって言った。
「……なに?」
「さっき、橋の上で止まれと言ったのは、私の」
腰のあたりを指差した。
不器用だがしっかりと、時間をかけて丁寧に布が巻かれていた。
「傷のためか」
「ん? ……そうだよ?」
亜弥々姫は、なぜそんなことを? と言いたげに、
藤本を見上げながら不思議そうな顔で答えた。
「何故だ」
「なぜ? ……って、だってああでも言わないと、みきすけ止まらなかったじゃない」
それは藤本の問いに対してはまったく見当はずれの、答えにもなっていないものだったが、
藤本が求めたものの答えには、なっていた。
「……わかった」
藤本はきっぱりとそう言うと、おもむろに腰に差した刀に両手を添え、すらりと抜いた。
黙ってそれを見守る亜弥々姫を一瞬、じっと見つめた後、
藤本は亜弥々姫に背を向け、言った。
「離れていろ」
と同時に、橋の袂のあたりの暗闇の中で、何者かが止まる気配がした。
そう。ずっと気配を殺し、様子をうかがうようにゆっくりと二人に近づいている者がいたのだ。
藤本はそれに気づいていた。
藤本が刀を抜いたのを受けるように、
暗闇からゆっくりと、その人影が姿をあらわした。すでに抜刀している。
星明りに照らされたそれは浅葱色の、ダンダラ模様の羽織を纏った一人の士だった。
浅葱色の獣。
壬生の狼。
じゃり。
と、そこで初めて、獣の足に踏まれた河原の小石が音を鳴らした。
獣は間合いの一歩手前で足を止め、
剣の先を藤本に向け、じっと見据えたまま、ゆっくりと口を開いた。
「壬生娘。組。四番隊組長……辻希美」
藤本が対峙する、三匹目の狼だった。