四、浄瑠璃姫
深夜の寝静まった町のはずれに、二人の激しい息遣いだけが響いていた。
藤本は走りながら、冷徹に頭の中に考えを巡らせていた。
既に途中で能面の追手を一人斬り倒している。
残りの追手は、藤本が手を切り落とした者を入れても五人。
それも奴らが壬生娘。組の連中とやり合って無傷であれば、だ。
いくらか時間は稼げているはず。
どこへ身を隠すか。
できるならば読瓜藩邸が一番いい。もともと娘は読瓜藩の縁の者なのだ。
駕籠を襲った立場である藤本とは敵対する立場ではあるが、何も藩邸まで入る必要はない。
娘を門の外に置いて、自分はどこか他のところに身を隠してしまえばいいだけのことだ。
しかし、藩邸は今逃げてきた方向である。遠回りしても、手前で待ち伏せに合う可能性も高い。
ならば八馬屋か。
町で遊ぶことも無い藤本には、八馬屋くらいしか身を寄せられるような場所が思い当たらない。
だが、このまま八馬屋に飛び込んでも、何の意味も無いことも藤本には分かっていた。
恐らく逃げ込んだとして、店主たちは何の役にも立たないだろう。
彼らは幕府に軒を貸しているに過ぎないのだ。
幕府との連絡方法も限られているはずで、自分を匿えるような場所ではない。
むしろ、自分から逃げ場を無くしに行くようなものだ。
それにもし自分と幕府のつながりが外部に知れるようなことがあれば、
幕府は迷わず自分を切り捨てるだろう。
幕府にとって、自分のような猟犬を一匹失う程度は大した痛手ではない。
そこまで考えて、藤本は紀伊坊のことを思い出した。
あの、いつもへらへらと笑う男色趣味のような遊び人風の男のことだ。
藤本と幕府をつなげる唯一の連絡役であり、そして恐らく自分の監視役でもある。
奴と連絡を取れればいいが。
しばらく身を潜め、様子を探るか。
紀伊坊の方から連絡を取ってくれば、それでもいい。
そう思い、藤本は祇園を抜ける。と考えた。
祇園には男達が女遊びをするための遊里があり、京に点在する遊里の中でも特に品位が高いとされる。
働く者の中にはいわゆる“わけあり”も多く、
そんなこともあって遊里全体が独特の自治体制下にあったため、
雄藩であろうと幕府の者であろうと、そうたやすくあちこちの店に踏み込むことは出来なかった。
いかに悪名高く無頼の名を馳せる壬生娘。組相手であろうと、
それなりの時間を稼ぐことはできよう。
なんだったら祇園の者に娘を預けてもいい。
いくらか手持ちの金を渡して、夜が明けたら藩邸に連れて行くように言えば、悪くはしないだろう。
藤本は早々に鴨川を渡り、祇園を抜けて京の外に出ることを決めた。
その先は、またその時になってから考える。
鴨川に掛かる大橋は、追われる者にとっては危険な場所である。
周りに身を隠す場所が無く、逃げ場も無い。
また障害物も壁もないので、藤本のように単独で行動する人間にとっては、
多勢に囲まれやすいのである。
藤本は娘の手をいっそう強く引き、足を早めて橋板を蹴り進んだ。
橋の中頃に来たあたりで、藤本の体に変化が起きはじめていた。
肺からふり絞るように吐き出される空気の音が大きくなる。
視界が狭くなり、頭の中を呼吸音と足音が支配する。
何とも言えない高揚感に包まれはじめていた。
走り疲れたのだろうか、先程の戦闘による興奮状態か。
それとも右手の出血から、軽い貧血にでもなったのだろうか、
娘の手を引きながら足はふわふわと、どこか夢見ごこちに、宙を舞うような気分になっていた。
幻覚か。
妙に現実感が無い。足にも地につく感覚が無い。
まるで常世への橋を、渡っているかのようだった。
いや。自分が行くのは冥府であろう、と、妙に冷静に思った。
あれだけの人を斬ってきたのだ。このまま、闇に誘われるままに冥府に旅立つのもいいだろう。
言われるがまま、何の感情も持たずに人を斬ってきた。
それはきっと、罪というものなのだろうと。
まるで他人事のように思った。
と、急に後ろから娘の大声が藤本の耳に入ってきた。
「いた〜い。い〜た〜い、ってば! もう」
瞬時に藤本は振り返り、娘の口を右の手のひらで押さえた。
ここで騒がれてはまずい。
娘は藤本に口を押さえられたまま、頬を膨らませながら上目づかいで藤本を見つめていた。
その時、藤本は、自分がこの娘の手を引いて走っていたことを、あらためて思い出した。
理屈の上では分かっていたのだが、自分が現実に、この高貴ななりをした娘の小さな手を、
強引に握りこんで連れ回しているという事実をあまり実感していなかったのである。
藤本は慌てて、握っていた手を離した。
弓から弾かれたように娘の手が離れ、娘は少し距離を置いた。
静かな川風を受けて、左の手のひらがひんやりとした。手が汗ばんでいた。
藤本はその手に包まれていた、娘の小さな手のぬくもりの存在さえもすっかり忘れていた。
実は娘は、藤本に引き回されている最中もずっと「ちょっと待って」だの、
「ねえ待ってってば」だのと声を掛け抵抗を試みていたのだが、藤本はいっこうに気が付かず、
ただひたすら無言で振り向きもせず、力づくに娘を引き回していたのである。
そこでついに、娘はしびれを切らして、駄々子のように痛い、痛いと大声で叫び始めたのだった。
「もう! ちょっと待ってって、言ったじゃない」
藤本は何と言っていいのか分からず、黙って娘を見つめた。
娘は頬を膨らませたまま、ふうっと軽くため息をつき、藤本を指さした。
「そこ、血」
藤本は咄嗟に右手の甲を見た。能面の剣を受けたときに斬られた傷である。
しかしそれはほんのかすり傷のようなもので、大して血も出ていない。
「ちが〜う。そこ」
娘は藤本の左腰のあたりを指さしていた。
暗くてよく見えないが、着物が黒くにじんでいた。右手で触れてみる。
「くっ」
鈍い痛みが腰から全身に広がった。
着物の中に手を入れ、指先で傷口を探る。大きさはそれ程でもなかったが、やや深い。
痺れているせいか痛みは少ない、指先がずぶりと傷口にもぐりこむ深さだった。
骨や内臓に別状はないようだったが、血が止めどなく溢れてくる。
(これのせいか)
この傷の出血のせいで、幻覚を見たのだと藤本は悟った。
「だからちょっと待ってって言ったのに」
娘は不機嫌な顔でそう言いながら、自分の着物の左袖を右手で引っ張った。
「えい」
しかし、何も起こらない。
「……あれ? えい」
しかし、どうにもならない。恐らく着物の袖を引きちぎろうとしているのだが、
娘の高級な着物の生地が厚く、娘の力ではできないのである。
娘が自分の着物の袖と悪戦苦闘しているのを見かねて、
藤本は自分の着物の袖をびりりと引き裂き、娘に差し出した。
「あ、うん」
娘が気まずそうに言った。
早いうちに町の外へ出たかったが、幻覚を見るほどだ。
この出血を放って置くわけにもいかなかった。
川べりに腰を降ろし、着物の上をはだけた藤本のさらしには血がにじんでいた。
藤本は、娘の不器用な布の巻き方に、何度か自分がやったほうが早いと進言しようと思ったが、
娘の必死な様を見て、なすがままに身をまかせていた。
いつものとおり、人を斬るだけの仕事のはずだった。
多少は違うところもあったが、それほど難しいことではない。
なのに今、自分は何故かここでこうして、見知らぬ娘の手当てを受けている。
目の前を流れる川のせせらぎが意外に大きく聞こえた。
藤本は腋の傷のことを思った。
恐らく、娘を救うために能面の集団に飛び込んだときに負わされている。
それ以外、手傷を負わされる可能性のあった場面はない。
藤本が集団の中に切り込み、娘を押さえる能面の手首を切り落としたあの時だ。
あの瞬間に、素早く藤本の腋に小刀を差し込んだ者がいる。
相当の手錬であることは間違いない。
(あの連中……)
幕府の手の者では、おそらく無いだろう。
もし幕府の者ならば、あの場には藤本、壬生娘。組と、三組もの幕府の手のものが、
それぞれ違う目的で読瓜藩一行に鉢合わせしたことになる。それは考えにくい。
読瓜藩は、先に藤本が斬った内村、南原らの仕えていた藤州藩に並ぶ、西国の雄藩である。
数年前の公家暗殺事件により、京における一時の勢いこそ失ったが、
地元には今なお強力な軍と、優れた藩士を多くかかえていることに変わりは無い。
もともと倒幕派の勢力が強い藤州藩に比べ、
読瓜藩は以前、幕府と共に公武合体論を提唱していた時期もあり、
最近でこそ藤州藩を含む数藩と同盟を結び、幕府による藤州征伐を失敗に終わらせるなど、
はっきりとした倒幕の意志を前面に押し出して来てはいるものの、
本来は藤州藩とも違った独自の主張を持っている。むしろ藤州藩とは仇敵とさえ言ってもいい。
倒幕派は決して一枚岩ではない。
事実、紀伊坊の言っていた『仕掛け』により、藤本による内村、南原の襲撃事件は、
読瓜藩の仕業ではないかとの噂も世間では広まってきており、
藤州藩と読瓜藩の間には微妙な緊張が漂いはじめている。
そんなとき、藤本に『読瓜藩の大物』を斬れと言う。
これは読瓜と藤州の間に混乱をもたらすための天誅だったのか。
それとも、全く関係なく徳光和夫という存在を消すこと自体に意味があったのか。
壬生娘。組の存在にも疑念を抱いていた。
思えば現場に現れる『間』が妙に良すぎたような気がする。
駕籠の一行は誰にも知らせぬ忍びであったはず。
しかも襲いかかったのは無音の乱波らしき一団であり、
藤本と同じく叫び声ひとつ上げず静かに襲いかかっている。
壬生娘。組が現れたのが早すぎるのである。
あらかじめ何かしらの密告を得ていたと考えても不思議ではない。
つまり、幕府は藤本による徳光暗殺実行のあと、
壬生娘。組にすぐに場を治めさせる腹づもりだったのか、
徳光を殺し、娘を救うという条件ならばそれもありうる。
それとも……壬生娘。組にこの娘を?。
あるいは徳光を斬る予定だったこの、自分を……?
「お前は……何者だ」
藤本は思わずつぶやいていた。