高級クラブから一人で出て来た、千鳥足でふらつく志村けん社長を
遠くから双眼鏡で見張る飯田圭織は、今日この時間に
『KEI』の名を持つ魔人が志村を襲う事を確信している。
平家の情報は信頼に足りるのだ。
飯田の仕事は志村の護衛ではない。
志村を殺害する暗殺者を殺す…
だから、志村を泳がせているのだ。
人通りの無い路地に入った、ほろ良い気分の志村は
電柱に向かってチャックを下ろした。
路地の奥からスーッと湧き出る黒い影…
ジョボジョボと長い用足しに ホッとした顔の志村に近付く、
体にフィットした黒ラバー製のボディスーツの女性のシルエット。
音も無く近付く、その女を確認した飯田は 双眼鏡を投げ捨て
道路を横切り、ダッシュしながら志村に向かって叫んだ。
「志村ぁああ!後ろぉぉぉおお!!」
キョトンとトボケた顔の志村は、後ろを向く間も無く崩れ落ちた。
自身の血の海に崩れた志村の後ろに立っているのは、
飯田が探していた『KEI』の名前の暗殺者…
妖艶な魔人の右手には、志村の心臓が握られている。
---ザン!---
路面の砂を巻き上げ、走り寄った飯田が
止まった場所はKEIの正面3メートル…
「…見つけたよ」
飯田の唇の両端がキューッと吊り上がる。
吊り上がったのは飯田の唇だけではない、
ブシュッと右手の心臓を握り潰したKEIの笑みも同じだ。
その右手がビキビキと音を立てて禍々しく鉤状に曲がる…
「それで心臓を抜くのかい?」
飯田の体から揺らめくオーラが立ち込め、
2人の間の空間が歪む。
「一応聞くが、アンタ…誰?」
右手から鋭角な闘気を発しながら素性を聞くKEIは、
飯田が胸元から取り出した警察手帳を見て辺りの気配を探った。
「安心しな、私一人だ」
「…じゃあ、アンタを殺しても誰にも知られない?」
「そう言う事だ」
飯田が言い終わると同時にKEIの右手が、滑るように飯田の左胸に吸い込まれた。
虚を付かれて、一瞬 前のめりになる飯田。
しかし、愕然としたのはKEIの方だ。
そのまま飯田の心臓を抜き取る筈のKEIの右手は止まっている。
「…甘いな」
唇の端からツーッと一筋の血を垂らしながら、飯田が歯を見せてニヤリと笑う。
超人の大胸筋は鋼の力でKEIの魔指を締め付け
あと数ミリで心臓に達する指をピタリと止めたのだ。
「ぬ、抜け…」
万力のような筋肉で締め付けられ、指が抜けないKEIは
腰を低く溜める飯田の拳が消えるのを見た。
---パンッ!---
刹那の正拳はKEIの左胸に綺麗に叩き込まれ、何かを破裂させる音を響かせた。
それは、ゲフッと鮮血を撒き散らす魔人の心臓が破裂した快音…
「…ぁぁああ…」
崩れ落ちるKEIの顔面に新たに叩き込まれた剛拳は妖艶な顔の形を破壊し、
十数メートルも体を回転させながら吹き飛ばして、路上にゴロゴロと横転させた。
「…うん?」
ズカズカと大股で歩み寄る飯田が歩を止める。
KEIの震える指が腰のポケットから注射器を取り出し、
それを自身の胸に注すのが見えたからだ。
そのまま大の字になって横たわるKEIは息をしていない、
だが、飯田は腕を組み様子を伺う。
KEIが最後に打った注射によって起こるであろう出来事に興味が沸いたのだ。
「…ほう」
ドクンとKEIの胸が波打った…
瞬間KEIは立ち上がり脱兎の如く逃げ出した。
KEIの打った注射の中身は即効性の魔薬だ。
破裂した筈の心臓は急激に鼓動し、全身の血が流れ出るまで心停止はしない。
吐血を繰り返しながら走るKEIは、持って後30分ぐらいだと思った。
それまでに…
風を切り裂く音に振り返ると、飯田が猛烈な勢いで迫って来る。
---やばい!---
思うと同時に、目の端に人間の姿が映った…
「貴様ぁあ!!」
飯田は止(とど)めを差さなかった事を後悔した。
「動けば潰す…」
KEIが右手に持っているのはドクンドクンと脈打つ心臓…
先程の志村とは明らかに違う方法で抜き取ったと分かったのは
持っている心臓が動いているのと、KEIの足元に倒れている
セーラー服の女子高生の胸から、うっすらとしか血が流れていない事で明らかだった。
魔界の暗殺者は、通りすがりの女子高生の心臓を瞬時に抜き取り
それを質にして逃亡を企てる。
「この娘は、まだ助かる可能性はある…
だが、私を追えば確実に死ぬ」
KEIは胸を膨らませてブオッと自身の血を噴出すと
その血は霧のように広がり、飯田の視界を血色に染めた。
「…オマエの事は忘れない!必ず御礼はさせて貰う!」
響き渡る言葉を残し、血色の視界が晴れた時には、KEIの姿は消えていた。
「こ…これを渡して…」
自分の胸に揺れている、薔薇の形をした宝石が付いているペンダントに
力無く手を当てて、心臓の無い女子高生は、抱きかかえる飯田に
最後の言葉を伝えるとグッタリと力が抜けた。
「…まだ、助かるかもしれない、待ってろ…」
携帯で救急車を呼ぶ飯田は、ピクリとも動かない女子高生の小さな鞄から
IDカードを取り出して、腰のポーチに付いている携帯端末に差し込んだ。
「ハロー女子高…吉澤の学校の生徒か…うん?」
端末に出たデータは最重要人物の星が点滅している。
「まずい事になったかも…」
ハロー製薬ナンバー2の藤本専務の一人娘の息は止まっていた。
「……?」
藤本の傍らに転がる携帯から声が聞こえる。
拾い上げて耳を当てると聞き覚えのある声…
藤本を呼び続ける、その声の持ち主は吉澤ひとみ だった…
ドアを開けた瞬間、KEIは大量の鮮血を吐きながらソファに突っ伏した。
「ち、ちょっと、どうしたの?人に見られなかったでしょうね!?」
仕事を終えて事務所の明かりを消そうとしていた石黒音楽事務所社長の
石黒彩は、慌てて窓から外を見回してカーテンを閉めた。
「た、助けてくれ…心臓を潰された」
体内に流れる殆どの血液を流したKEIの崩れた顔は青ざめ、
ヒューヒューと漏れる呼吸音は、死が目前に迫っている事を示している。
「あんた…魔女なんだろ…頼む…」
「潰れた心臓は元には戻らないわ、それに血を見るのは
嫌いだって言ったでしょ、諦めなさい」
まるで虫けら でも見るかの様な、醒めた眼差しの
鈍い光を放つ石黒の瞳は、KEIの右手に吸い寄せられた。
「代わりなら有る…」
KEIの血塗られた右手には、未だに脈打つ藤本の心臓が握られている。
「ほう…生ける心臓か、面白いわね」
抜き取った心臓に、死んだ事さえ気付かせないKEIの妙技に
何を思うのか、石黒の目が線のように細まった。
「一応聞くけど…志村は殺したのかい?」
無言で頷くKEI。
「そう…それは良かったわ」
KEIの持つ心臓を受け取りながら微笑む石黒は、
豪華な造りの棚から真っ赤な葡萄酒の瓶を取り出し
何やら呪文を唱えながら心臓に注ぎ掛ける。
「カオスと契約する事になるけど、覚悟はいい?」
自分の人差し指を噛んで血を滴らせた石黒は
飯田のパンチによって潰されたKEIの顔面と
左胸の心臓の辺りに血の五芒星を描いた。
頷く力も無くなりつつあるKEIは、縋る様に石黒を見た。
「本来の心臓の持ち主が貴女を殺すかもしれないわよ?」
胸の五芒星が捲(めく)れる様に開き、中から潰れた心臓が浮かび上がった。
「…た、頼む」
その言葉を最後に、KEIの潰れた顔は人の色を失う…
「OK、分かったわ…」
葡萄酒の詰まった心臓を、そっとKEIの胸に沈め、
唇の両端をキューッと吊り上がらせた石黒の笑みは、
魔女本来の微笑みに見えた…