――― 12話 死人返り ―――
「ゲホッ、ゲホッ…」
咳の中に血が混じり、意識が朦朧とする市井紗耶香は、
「死ぬ事だけが生の証」と自分に言い聞かせていた。
裸足に真っ赤なカクテルドレスを着た市井が
見上げる空には月も星も無く、濁った瞳には あの日のように淀んで見える。
後藤と再会した日から、殆ど寝ていない…
眠れなかった…
後藤と再会した日から「死」だけを考えている…
生きる気力は無に帰した…
だから、クスリに手を出した。
違法ドラッグから魔界街特製の魔薬にまで手を出したツケは、
左腕の関節が無残なまでに紫色に腫れ上がった注射痕の傷跡だ。
左手にウィスキーのボトルを持ち、フラフラと歩く先には
朝娘市が事故(自殺)防止の為に建てた高さ5メートル程の壁が
ベルリンの壁の如く永延と続いている。
この壁の向こうには朝娘市を囲む地割れが魔界の口を開けているのだ。
呆然と見上げた後、市井はおもむろにコンクリートの壁に指を食い込ませる。
薬物によって痛みも感じない体は、肉体の限界を超える力を発揮し、
爪が割れ抜けるのも無視して90度の角度の壁を這い上らせた。
ビューッと吹き上げる魔界からの風に髪を靡(なび)かせ
市井は だらしなく視線を落とした。
「私に相応しいドス黒さだな…」
目の前に迫る暗黒色に彩られた地割れの底は勿論見えない。
「…おお!」
強風に煽られ、バランスを崩した市井は地割れに落ちそうになり、
慌てて腰を下ろして苦笑いをした。
「…ハハ、これから死ぬってのにな」
最後にタバコを吸いたくなり、ポケットに手を突っ込むが
取り出したタバコの箱にはタバコが切れて入ってなかった。
「…チッ、最後まで使えねぇ人生だったなぁ」
タバコを吸う代わりに鼻歌を歌った。
歌詞を思い出そうとしても思い出せない、悲しいラブソング…
その鼻歌に共鳴するかのように地割れの底から唄が聞こえた…
「…ハハハ、呼んでるよ‥地獄が私を…」
ふと見上げる空は地獄と同じ漆黒の闇だった…
もう、どうでも良かった…
魔界街B地区に数箇所有る、C地点と呼ばれる僅かな面積の
誰一人として足を踏み込む事の出来ない場所が有る。
魔界と通じると言われる、その中心点から湧き出る瘴気は全てを腐食し、
空気に触れて薄まったソレはB地区を漂う。
犯罪者の巣窟のB地区を警察が隔離する理由がソコに有った。
そのC地点の中心点から瘴気と共に一人の影が湧き出た。
ズルズルと足を引きずりながら歩くソレは体中から瘴気が湧き出る歩く死人…
魔界街で俗に言う『死人返り(しびとがえり)』だった。
地割れに転落したと思われた人間が、ある日瘴気を携えて
ゾンビの如く街を徘徊する…
人々は死人になった理由を探し、噂し、そして忘れる…
この街では死ぬ理由など掃いて捨てる程有るのだから。
ただ一つ判っているのは『死人返り』は死人になった原因に向かい歩く…
自分が死んだ理由を求めさすらう様に目指すのだ。
だが、死人が その場所に辿り着いた事は一度も無い。
A地区に出た途端に警察の火力によって無に帰すからだ。
しかし、今回の『死人返り』は只の死人では無かった。
頭頂から爪先までをも黒い煙のように蟠(わだかま)る瘴気に包まれ、
顔さえも見えない死人は何故か真紅のカクテルドレスを着ていた。
スローモーションのように歩く跡には空気にさえも溶けない真の瘴気が
揺らめく綿毛のように続く。
A地区に侵入してから当たり前の様に武装警察に囲まれ、
放たれた銃火器にも平然と歩みを止めない死人に愕然とする指揮官。
「…幽体だ、銃が効く筈が無い」
射撃隊の一人がボソリと呟いた。
マグナムは勿論、火炎放射器の圧倒的な炎さえも通り抜ける
歩く死人の体は、物理攻撃が効かない 目に見える幽体だったのだ。
街を汚染する瘴気の足跡を残しながら向かう先は朝娘市警察。
其処に続く朝娘市中央通りは警察によって封鎖された。
「この道路は半年は使えなくなるな…」
「おい、目抜き通りだぞ」
「仕方ないだろ…」
別の射撃隊員達がゴクリと唾を飲み込む。
瘴気の毒に汚染された箇所は浄化するのに半年は掛かるのだ。
「専門家はまだか!」
苛立つ警官隊長は空を仰いだ…
「幽霊相手じゃ、私の出る幕は無いよ」
出動命令が出た飯田圭織は現場の隊長に
お手上げだと言わんばかりに肩を竦めて見せる。
「そんな…頼むよ、飯田」
「ハハ‥無理々々」
隊長に縋(すが)り付かれても、腕組みをして苦笑するだけの飯田は
黙って見ているしかなかった。
そこに…
「お主等、どきなしゃれ!」
警官隊と飯田を押し退けて死人の前に立ったのは署長に要請されて出てきた
魔人専門の賞金稼ぎの一人、退魔師の通称『陰陽婆』だ。
「おお、貴女は退魔師の!」
「世辞はよい、それより謝礼はタンマリと頂くぞい」
自分を見限り陰陽婆に擦り寄る隊長を鼻で笑う飯田は
退魔師の技に興味津々の顔付きだ。
「なんじゃ、おぬし‥」
その筋では有名な『魔人ハンター』飯田圭織に一瞥をくれる陰陽婆は
「黙って見てなしゃい」と馬鹿にしたように言い捨てた。
「ほう、見せてもらうよ」
ニヤける飯田の唇の端がピクリと引きつる。
「…ふん」
陰陽婆は両手を広げて気を溜め、パンッと目の前で指印を結んだ。
「臨・兵・闘・者・皆・陳・列・在・行」
背骨の曲がった巫女姿の陰陽婆は九字を切り、
密教の呪法『死人送り』を唱えながら破邪の護符を死人の額に貼り付けた。
「キエーー!悪霊退散!!」
ドサリと崩れ落ちる…
「…なっ!!」
愕然と見守るギャラリー。
護符を貼り付けた瞬間、言葉も無く骨と皮だけを残して朽ち果て、
冥府に送られたのは陰陽婆の方だった。
骨の屍と化した陰陽婆を瘴気が包み込み、死人が歩き出すと
その骨は砂の様に崩れた。
「こりゃ、ヤバイかも…」
流石の飯田も深刻に為らざるを得なかった。
「な、なんて事だ…誰かアレを止める事は出来ないのか!」
警官隊長は歩みを止めない『死人返り』を、只 呆然と見守るしかなかった。