――― 9話 挫折 ―――
何時もの様に朝娘市警察署に出勤した後藤真希は
自分の机で缶コーヒーを飲みながら新聞を広げた。
「…うん?」
社会面のトップ記事に特別指名手配犯の毒猿が殺され
被疑者死亡のまま起訴との記事が載っていた。
「……殺したのは‥一般の民間人…?!…民間人!!」
後藤の脳裏に、ある人物の面影が浮かんだ。
「やった!…やったね!市井ちゃん!!」
思わず声を出して喜ぶ後藤は、課長に毒猿を殺した民間人が誰かを聞いた。
「高校生だな…まぁ実際は飯田が殺ったと、皆思ってるがな」
「…こ、高校生?…市井ちゃん…以前ココ(朝娘市警察)に居た
市井ちゃん じゃないんですか?」
「市井…?……あぁ、アイツかぁ‥」
課長は思い出したようにタバコを吸った。
「毒猿を殺ったのは吉澤とかいう名前の高校生だが…
お前 何で市井を知ってるんだ?…
確か、アイツが辞めたのは、お前が入る一年以上前だったと思ったが…」
そこまで話して課長は呆然とする後藤に気付いた。
「おい、聞いてるのか?」
「…あ、は、はい…そ、そうですか…いや、いいです‥何でも無いです」
肩を落とした後藤は自分の机に もたれて天井を見上げた。
----何やってんだよ…市井ちゃん----
2年以上前、後藤の近所に市井沙耶香という朝娘市警察の巡査が住んでいた。
幼い頃からの近所付き合いの中で何時の間にか当たり前のように
仲良くなった市井は時が過ぎるにつれて後藤の姉のような存在になっていた。
その市井が、違法賭博組織の壊滅の為に特別チームに抜擢されたと
喜んで報告しに来た。
刑事になるのが夢と聞かされていた後藤も、自分の事のように喜んだ。
捜査は順調に進み、中でも市井の活躍は素晴らしく
黒幕を一人で逮捕したのが市井だった。
一人、署長賞を貰い、念願の刑事にも なれた市井は
有頂天になっていたのかもしれない…
刑事になってからの市井は変わった。
チームプレイを逸脱して、仲間が集めた情報を確認もしないで
身勝手に動き出す市井は、その後 仲間からの信頼を失った。
信頼を取り戻す為には、更なる成績が必要と考えた市井は
もう少しという所まで追い詰めた『毒猿』を単独行動で取り逃がした。
しかも、同僚2人の死を伴って…
同僚の2人は市井を庇って毒猿の洗礼を受けて殉職した…
追い詰めたのは良いが、暗殺の手口さえ掴めず
殉職者さえ出した捜査は完全に振り出しに戻ったのだ。
3人チームで編成された、毒猿捜査班は市井の独り善がりの行動のお陰で
失敗に終わり、市井は当たり前のように捜査から外され交番勤務に戻された。
そして、左遷された市井は警察を辞めた。
理由は毒猿への復讐の為…
----沙耶香!お前は逃げろ!!----
同僚の声が耳に張り付いて離れない…
捜査一課の生え抜き刑事から一介の巡査に降格した市井の取る道は
賞金稼ぎに転身して毒猿を殺す事だった。
「暫らく会えなくなるね…」
後藤の頭を撫でながら話す市井の瞳は
ある意思を持っているように見えた。
強烈な蒼い炎を湛える、強靭な魂の宿る瞳…
後藤はゾクゾクと背筋に走る市井の意思を感じて
自分の進む道を悟った。
「うん…私も警官になる!…そして、待ってるから…
市井ちゃんが帰ってくるのを…」
手を振って街に消える市井は
後藤の涙で滲んで見えた…
それから、連絡は無い…
連絡が来る時は毒猿を殺した時…
ずうっと、そう思っていた…
市警のホストコンピュータから、現在の賞金稼ぎ達を調べた後藤は
市井の名前を探し当てた。
---200X年0X月廃業---
市井は賞金稼ぎになってから僅か3ヶ月で廃業していた。
「どういう事…?」
近所の市井の家族は
「娘は元気にしてるから心配いらないよ」
と、いい続けてきた。
後藤自身も連絡が無いのが元気な証拠と
市井の両親を信じていた。
「…市井ちゃん…………‥‥-
その店を探し出すのに約一ヶ月程を要した…
市井の両親は後藤に心配を掛けまいと嘘を付いていたのだ。
その両親も一年以上連絡が無いと肩を落とした。
「真希ちゃん…沙耶香を捜して…お願いします」
涙を浮かべて後藤に頭を下げる母親…
「…分かりました…」
後藤は、そう答える事しか出来なかった…
---ギィ---
ドアを開けると、安っぽい音楽と淀んだヤニの臭いが鼻に付いた。
名前も知らない、いや、知りたくも無い場末のキャバレーだった。
女性だけのお客さんは‥と断るボーイを無視して
テーブルを一つ一つ回って見た。
キャップを深く被り、サングラスで目を隠した後藤を
最初は誰だか判らなかったようだ。
市井沙耶香は禿げたオヤジに胸を揉まれて
水割りのグラスを傾けていたのだ。
「なんだい、アンタ?…ちょっと誰か!」
市井は訝しげに後藤を見ると、摘み出せと言わんばかりにボーイを呼んだ。
「おい、お前!…」
肩を掴んだボーイの鼻が潰れた。
裏拳でボーイを突き飛ばした その手で
警察手帳を取り出して市井に放る。
「……‥」
手帳を持つ市井の手が小刻みに震えた。
「…捜索願が出ている…アンタの両親からだ」
「…‥」
市井は顔を上げる事が出来ず、ジッと警察手帳を見詰める。
「どいつだ!暴れてるって奴は!!」
用心棒らしき風体の男が店の奥から出てきて後藤を見つけた。
「テメエか!ゴルァ!!」
後藤は振り向きもせず、腕を振る。
「撃つよ…」
ピタリと額に当たった銃口に、用心棒は言葉を失った。
「この人は警官だよ…」
ポツリと呟く…
「…場所を変えよう…」
市井は顔を上げずに手帳を返した…
「親には 廃業した時に、アンタにだけは話すなって言ったんだけどなぁ…」
近くに有る小さな公園のベンチに腰を下ろし
市井は星空を見上げた。
「で…何か用でも有るの?」
メンソールタバコに火を点けて、フーと紫煙を吐き出す
市井の唇は禍々しく真っ赤だった。
「毒猿は死んだよ…」
「そう…」
そう言って俯(うつむ)く市井は暫らく黙り込んだ。
「ハハ‥良かったじゃん」
誰が殺したかも聞かずに
メンソールタバコを吸い終わってから出た言葉がコレだった。
「……なんで辞めたんだ?」
賞金稼ぎを辞めた理由を問い質す後藤…
声が震えてるのが自分でも分かる。
「…なんでだろうねぇ?」
市井は、まるで人事だ…
「…答えられないのか?」
胸にズシリと鉛が沈むような感覚に、出る言葉が重かった…
「……」
無言の市井の半笑いの横顔…
「…答えろよ…」
雲が月を覆い隠し、虫の声が辺りを包むように市井が呟く…
「…気付いたんだよ…自分の実力に」
市井から出る言葉も、同じ重さなのだろう…
「最初は出来ると思ったんだよ…」
「……‥」
「賞金稼ぎの仕事でも トップに成れると信じてたんだよ…」
「…‥」
「…でも、現実は違ってた」
「…」
「ハハハ!私なんか足元にも及ばない連中がゴマンと居る世界だったんだよ!
ハハハハ、信じられるか?この市井沙耶香様がだよ?ハハハハ!」
市井は立ち上がり、大仰に手を広げて見せた。
「だから逃げたんだよ!ハハハハ!やってられねえってな!」
「……」
「お笑い種(ぐさ)だよな!ハハハハハ!ハハハハハハハ!!」
「……」
「ハハハ!どうした?答えてやったぜ!笑えよ!八八ハハハ!!ハ ハ ハ ハ…」
「…」
笑い疲れた市井がベンチに座るのと入れ替わるように
後藤は立ち上がり、そっと その場を離れた。
少し離れてから振り返ると、市井はタバコに火を点けようと
百円ライターを回し続けている。
「…市井ちゃん?」
後藤の声が聞こえないかのように
火が点かないライターを回し続ける市井…
「一度も私の顔を見ないんだね…」
ピクリと市井が振るえて動きを止める…
「今日、会ってから一度も私の顔を見ていない」
サングラスを外して、市井の足元に放った。
「……」
目の片隅でサングラスを見る市井は怯えた小動物のようだ。
「こっちを向けよ!!」
「…」
市井は、またライターを回し始める…
「市井ちゃん!!」
「見れると思ってるのかよ…」
市井の声は震えていた。
「……」
「ふざけんじゃないよ!バカヤロー!」
足元のサングラスをワナワナと震える足で踏み潰す…
「な、なんで、アンタの顔なんか見なきゃいけないんだ!
こっちは見たくないんだよ!…もういいだろ、帰れよ!私の前から消えてくれよ!!
…ちくしょう、点かねえ!このライター!!…ちくしょう!ちくしょう!!」
市井は最後まで後藤の顔を見なかった…
----ちくしょう、ちくちょう、ちくしょう、ちくしょう----
虚無感に包まれながら公園を後にする後藤の耳に
何時までも市井の声が響いた…