――― 8話 魔界刑事 ―――
夜の帳(とばり)が落ちる頃、『スナックみちよ』の灯が ひっそりと燈った。
午前3時過ぎの明け方近くに開店する、繁華街の外れに有る
この店の本当の事業内容は勿論 飲食店のソレではない。
カウンターで水割りを作る店のママの平家みちよ が水割りと共に
一枚の写真を長い黒髪の美貌に差し出す。
「…コイツか」
水割りに口を付けながら写真を見る女性は、胸の開いた革ジャンの懐から
帯の付いた万札の束を2つ取り出し、カウンターに そっと置く。
「毎度、おおきに飯田さん…」
「…詳細を聞こうか」
取り出した手帳には朝娘市警察の紋章が飾ってある。
特殊捜査官に選任されてる、朝娘市警察の飯田圭織は
何処の部署にも属さない異端の はぐれ刑事(デカ)だ。
魔界街には銃火器が効かない犯罪者がいる…
魔人と呼ばれる犯罪者には、その者を超える超人で対抗する。
『魔人ハンター』
飯田圭織はそう呼ばれたいた。
情報提供を生業とする『スナックみちよ』を出る飯田が ふと横を見ると、
壁にもたれて欠伸をする美少年が片手を上げて出迎えた。
「…お前、来てたのか?」
「うんにゃ…今、来たところ」
壁にマッチを擦りタバコに火を点ける美貌の男は
眠そうな目を飯田に向けて薄く笑った。
「今から行くが、来るか?」
飯田から写真を受け取り、一瞥すると
そのまま返して黙って頷く。
「よし、今日はお前の腕を見させて貰うぜ、吉澤」
吉澤と呼ばれた美少年は、勿論 吉澤ひとみの事だ。
藤本美貴は勿論、石川梨華でさえ知らない
吉澤ひとみ の、もう一つ顔がココに有る。
約一年前…
吉澤は殺人現場に偶然遭遇し、初めて人を殺した。
鋏(はさみ)を持った男が一振りで被害女性の首を切断して
吹き上げる血飛沫を全裸の体に浴びて歓喜の身震いをする異常殺人を
目撃したのは、何時もの夜の散歩中だった。
全裸の狂人はそのまま射精した。
「ヒャハッ!」
吉澤の存在に気付いた狂人は
その日の2人目の生贄に吉澤を選んだ。
無表情の吉澤の唇はうっすらと笑っている様に見える。
「ウヒャヒャヒャヒャ!」
その微笑を殺人者は吉澤が恐怖で竦んで動けなくなっているから
と思い、両手に持った鋏を振り回し ゲラゲラ笑いながら、
一気に吉澤の懐に飛び込んで鋏を振った。
「……え?」
ドンと胸を蹴られて尻餅を付いた狂人はキョトンとしていた。
「血が付くだろ…離れろ」
侮蔑の表情で男を見下ろす吉澤の右手の人差し指には
鋏が2本 クルクルと回っている。
「……」
踵を返し10メートル程離れた吉澤が、そっと振り向き呟くように聞いた。
「返して欲しいか…?」
吉澤の右手に絡まる2本の鋏…
「…うん」
頷いた瞬間、男の後頭部に2本の鋏が突き刺さった。
「…返したよ」
崩れ落ちる殺人者に一瞥も繰れず、そっと その場を離れる
吉澤の前に立ちはだかる一人の影…
「見たよ…」
長い黒髪を靡(なび)かせる女性は警察手帳を見せた。
「……何を?」
「殺人…」
「…」
「…と、消える右手」
飯田圭織は警察手帳を胸の谷間に仕舞い、
ソコからタバコを取り出して火を点けて、一息吸った。
「…見えたのか?」
そう言う 吉澤の唇には たった今、飯田が火を点けたタバコが咥えられている。
無言でニーッと笑う飯田。
「…俺をどうするつもりだ?」
「殺人の現行犯で逮捕…かな」
不自然に自分の唇から消えたタバコを意に介さず、
飯田はもう一本タバコを取り出しジッポーで火を点ける。
「…なんてな」
フーと紫煙を吹く姿勢はモデルのように美しかった。
「……」
「お前が殺した屑は、どうせ私が殺すつもりだったからね」
「…じゃあ、お咎めは無しだね」
背中を向けて帰ろうとする吉澤を飯田が止める。
「待ちな…見逃さなくも無いが、獲物を取られたって所が癪に触るな…」
「じゃあ、どうしろと?」
「私の体にパンチを入れる事が出来たら、見逃し…」
言い終わらない内に飯田の顔面に吉澤の右手が瞬時に飛んできた…
が、パンチは飯田の顔面数ミリの所で止まった。
飯田の左手が吉澤の右手の手首を掴んで止めたのだ。
しかし、飯田と吉澤との距離は5メートル強…
パンチが届く距離では無い。
「さて、どうなるのか…?」
飯田の掴んだ吉澤の右手は、手首の先から空間に溶ける様に消えていた。
「私が引き寄せられるのか?…それとも、お前の体が此方に飛ぶか?」
吉澤の秘密の能力…
それは、右手を瞬間移動させる能力…
男になる特異体質と共に授かった秘密の能力は
目認出来る範囲に右手をテレポートさせて戻す事が出来るのだ。
しかし、右手が離れられる時間は限られている。
どちらが引き寄せられたのかは解からない…
解からないが、吉澤の右手は元に戻った。
右手首を掴んだままの飯田圭織を伴って…
「未成年はタバコを吸っては駄目だよ…」
吉澤の唇からタバコを取り上げ、ピッと捨てる。
「み、見えるのか…?」
吉澤は信じられない思いだ。
パンチを飛ばすと言っても、振りかぶる構えはしていない、
右手はダラリとズボンのポケットに突っ込んだままだ。
つまり飯田は、瞬間移動で目の前に突然現れた吉澤の右手を
刹那の速さで受け止めたのだ。
「さて、これで お前の殺人を見逃せなくなった訳だが…」
ニヤニヤ笑う飯田は、愕然としている吉澤のオデコを
人差し指でピンと弾いた。
「私の助手になるなら見逃すぜ」
そう言いながら飯田は右手を差し出した。
「…なに?」
「出せよ、IDカード…持ってるんだろ?」
「……」
吉澤が渋々出したIDカードを 持っている端末に差し込んで
本人確認した飯田は少し驚いた。
「お前…男の癖にハロー女子高に通ってるのか?
どういう事だ?あそこはお嬢様学校だぞ…」
首を竦めるだけの吉澤。
「ふん、中々ふてぶてしい奴だな…
お前が殺した屑の死体は、私が処理する…
吉澤ひとみ か…お前は帰っていいぞ」
飯田は顎をしゃくって帰るように促し、
そして、何事も無かったように帰ろうとする吉澤。
「ちょっと待て…」
帰っていいぞ、と言ったのは飯田だ、
だが、一つ聞き忘れた事が残っていた。
動揺も無く 無慈悲にも、犯罪者とは言え あっさりと人を殺した
吉澤の殺人業には余裕が有り過ぎる。
「お前、人を殺すのは初めてじゃないだろう?」
「…うんにゃ」
立ち止まり、首をゆっくりと振って否定する吉澤は、
殺人を追及する刑事としての飯田を恐れた訳ではない。
相手は人間の心など持ち合わせていない事は明らか、
ましてや、生きていたら害悪を撒き散らすのは確実な狂人だ。
人間はハエ蚊を殺して『可哀相な事をした』などと思う心を持ち合わせては いないのだ。
「ゴキブリの類を潰して悲観する奴はいないよ…」
犯罪者を虫と言い切る、吉澤の言葉を聞いてニーッと破顔する飯田。
魔人と呼ばれる『人間』を人と思わず殺せるパートナーが出来たのだ。
「今日から、お前も『魔人ハンター』だ…必要な時に連絡する」
振り向きもしない吉澤は軽く手を振っただけで、夜道に消えた…
白々と夜が明け始める午前5時…
飯田と吉澤は一人の男を待っていた。
ギャーギャーと喚くように鳴くカラスの群れが煩わしい、
舗装もされていないボロアパートが立ち並ぶ、長屋然とした古い町並み。
復興が遅れた この通称泥水町は、犯罪者が隠れるのには絶好の場所…
警察も足を踏み入れたがらない、危険度Aの集落帯の一つだ。
そして、警察の肩書きなどはココでは通じない。
そんな町に一人、いや吉澤と二人で平然と足を踏み入れる美貌の女刑事は
そこの住人にとって格好の慰み者、つまり生贄だった。
だが、生贄の条件は「普通」の女刑事の場合だ。
灰色のアパートの壁にもたれる飯田の足元にはピクリとも動かない
人間が3人倒れている。
獲物が来たと飯田達を取り囲んだゴロツキ共の末路だ。
路地の至る所から此方を伺っていた粘る複数の視線は
瞬殺されたチンピラを見て気配を消した。
「…ふん、それでも気配を消したつもりかねぇ」
飯田は周りを気だるそうに見回すが、動くつもりは無い。
雑魚を相手にする気はサラサラ無いからだ。
案外治安がいいと言われる朝娘市…
それは、警察が掌握している街の約8割の表の顔…
しかし、真の魔界街の裏の顔がココに有った。
『スナックみちよ』の平家からの情報だと、今日必ずこの道を通る筈…
写真の男は毒猿と呼ばれている殺人を生業とする暗殺者だ。
「ひでえ顔してるな…まさに毒猿だよ」
シゲシゲと写真を見る飯田は、初めて見る暗殺者の顔に表情を曇らせた。
この男に殺された人間は二十数名、全て毒殺だった。
どのように毒を盛ったのか解からないが、共通しているのは
被害者から検出される毒の成分…
優に20種類以上の毒を体内に入れられて殺される
被害者の姿形は毒によって腫れ上がり正視出来る物ではなかった。
正体も判らない毒猿に警察が掛けた懸賞金は200万円、
勿論、生死は問わない。
毒の痕跡しか残さない暗殺者は、その後も警察を嘲笑うかのように
自分の仕事を繰り返した。
暗殺を依頼する人物さえ、見付け出せないジレンマが焦燥感を生む…
そして一人、独自の捜査を開始した飯田の元に待ちに待った平家からの返答。
数える程しか、その存在を知らない『スナックみちよ』は
どのようにして情報を得るのか解からないが、
その信憑性は他の情報屋の比ではない。
200万円という懸賞金と同額の情報料を支払った平家みちよ からの報告は
毒猿の正体を朧気(おぼろげ)ながら浮かび上がらせる。
「ふん、コイツ自身が毒の塊(かたまり)って訳か…」
飯田は皮の手袋を嵌めて皮ジャンのチャックを全て閉めた。
毒の体で相手を触って殺す…
暗殺者の手口が見えたからだ。
果たして、毒猿は来た。
ヒョコヒョコと片足を引いて歩き、
スッポリと頭からフードを被った身長が150センチも無さそうな小男は
体を隠すように飯田と吉澤の前を通り過ぎるが、
妖気を漂わせる歪んだ空気は隠す事は出来ない。
「よう兄さん、人を殺して御帰宅かい?」
ピタリと立ち止まる毒猿。
「お前の住む糞みたいなアパートは突き止めたが…」
毒猿は肩を揺らしている…
笑っているのか、フードからはゲッゲッゲと篭もった声が漏れる。
「汚い毒が充満してるアパートで待つのが嫌なもんでね…」
毒猿は薄っぺらいフード付きのコートを脱ぎ捨てた。
「ここで待たせて貰ってた訳だが…」
「……」
横を向いたままの毒猿の皮膚は人の色を成していない…
「早速で悪いが…死んで貰うぜ…」
飯田に向かって振り向く毒猿の顔は正に毒に犯されたように浮腫(むく)み
肌は紫色に染まっていた。
ダラリと垂らした両手は異様に長く、手の甲が地面に付いている。
「ふん、思った通り、その長い毒手が武器だったか…」
戦闘体勢の飯田は前屈姿勢で体重を前に掛けて、
今にも飛び出さんばかりにジリジリと詰め寄る…
対する毒猿は後ろに体重を乗せて受けの構え。
どちらも口には笑みが漏れている…
----ドン!----
大気を突き破る瞬速の早さで一気に間合いを詰めた
飯田の正拳突きが毒猿の胸に叩き込まれた。
吹き飛ぶ毒猿は向側の壁に激突してガラガラと崩れるブロックに埋もれる。
「馬鹿め!」
ズカズカと歩み寄る飯田の体は闘気に包まれて周りの空気が歪んでいた。
ボン!とブロックを蹴散らして回転しながら飛び出した毒猿は
そのまま両手を飯田の肩口に叩き込もうと毒の手刀を振り下げた。
その両手首をガッチリと掴む飯田の両手。
----ボキン!----
両手を掴まれた毒猿の手首は、超人の握力でアッサリと折れた。
しかし、飯田の顔は苦痛で歪む。
毒猿の手首を掴んだ飯田の手の平はブスブスと煙を上げた…
皮の手袋をも腐食させる毒手は飯田の手の平を伝い体内に毒を塗りこんだのだ。
「ゲッゲッゲ‥オデの体に触れれば死ぬ…」
篭もるダミ声で笑う毒猿は折れた手首も気にしないようだ。
「成る程…」
それでも、ニヤリと笑う飯田は徐(おもむろ)に歩み寄り
万力の握力で毒猿の両肩を掴んだ。
ギリギリと肩に食い込む鋼の五指に今度は毒猿の顔が苦悶に歪む。
「吉澤!やれぇ!!」
振り向く飯田の先、20メートルの所に吉澤はポケットに手を突っ込み
気だるそうに立ち尽くしていた。
飯田に釣られて吉澤を向いた毒猿の胸に
ニュッとマグナムの銃口が突き刺さっていた。
そのマグナムを握る右手は手首より先が空気に溶けるように消えている。
----ドゴーン!----
飯田が吉澤に持たせていた、飯田専用の特製マグナムは
毒猿の胸にポッカリと風穴を開けた。
普通の人間が撃てば、その反動によって確実に腕と肩が砕けるビッグマグナムは
反動など関係無い吉澤の右手に託されていたのだ。
ガクリと膝を付いた毒猿の顔面に飯田の正拳…
超人と呼ばれる飯田の鉛の様に重い一撃は
毒猿の頭をスイカのように粉砕した。
「…ふう‥」
毒が回ったのか、流石にフラつく飯田はベルトのバックルから
注射器を取り出し自分の首に中身の血清を打ち込む。
「…お前の毒の成分は分かってるんだ…解毒剤ぐらい用意しとくぜ」
胸に穴が開き、首が無い暗殺者の屍骸を見下ろし
飯田は呟くように吐き捨てた。
一仕事終わったとタバコを咥え、
毒猿の屍を冷ややかに見詰める吉澤も漂々(ひょうひょう)とした物だ。
「で…どうするの?」
「吉澤、賞金の200万は、お前が貰えよ…
刑事の私は貰えないからな…
ハハハ‥高校卒業後の就職先が確定した祝い金だよ」
携帯で本署に連絡しながら、飯田は肩を竦める吉澤にウィンクしてみせた…