573 :
書いた人:
―――
遠足や運動会の前日…そんな感じ、かな。
いつもと全く変わらない一日の筈なのに、私とのんちゃんの動悸は少しだけいつもより早く。
そして日常の隅々には、ちょっとだけ違う何かが潜んでいて。
さり気ない「忙しなさ」ってやつを私たちは一日中感じていた。
「ちょっと辻!? つんくさんがスーツ一式作れっていきなり言ってきたんだけど、どういうこと?」
そんな保田さんからの電話があったのは、ランチにアラビアータを食べているときだった。
そのテンパリ具合がホントに「おばちゃん」って感じで、あたふたとする保田さんが面白くてたまらなくって。
「紺野ちゃんの結婚式、出てくれるんだって」
「いや、それは電話で聞いたけどさ、いきなりどうしたんだろう? ってこと」
「さぁ? …で、おばちゃん、明日までに出来そうなの?」
「やんなきゃなんないでしょ。従業員総出なの!!」
電話の後ろから『保田さん! この寸法…!』って女の人の声が聞こえて、また保田さんが壊れる。
くすくす笑いながら、のんちゃんは電話を切って。
574 :
書いた人:04/03/05 23:30 ID:PyWdg6GN
トマトに赤く染まったパスタをクルクルとフォークに巻きつけながら。
とっくに一口大を越えてるのに、それでものんちゃんはずっと笑いながらフォークを回していた。
外から見ればかなり危ないその風景も、止める気はまったくしない。
テレビ局近くのこのお店、のんちゃんが何度足を運んでいるかは知らないけれど。
多分のんちゃんの目には、このお店を流れる空気は全く違ったものに映るんだろう。
それだけじゃない、軽やかなジャズピアノの音も、この胡椒の効いたパスタの味も。
全てが生まれ変わったみたいに見えているんだ。
それはあさ美ちゃんの結婚式を控えた忙しなさだけじゃない。
きっと新しい何かが始まった、それを頬の辺りにぴりぴりと感じているから。
つんくさんは伏せた目をゆっくりと上げて、のんちゃんはしっかりと過去を掴み始めた。
砂時計はひっくり返った。
10年を過ぎて、今ようやくひっくり返ったんだ。
575 :
書いた人:04/03/05 23:31 ID:PyWdg6GN
でも…あと一つだけ。
これが終わればのんちゃんの砂時計は確実に流れ始める。
これだけはなぁ…のんちゃん次第なんだけどなぁ…
ピタリとフォークを操る手が止まる。
「なぁ〜に考えてんの? まこっちゃん」
「え……いや、ハハハ、なんだろう?」
「どーせ、私がちゃんとあさ美ちゃんと話できるか、心配になってたんでしょ?」
図星。
えへへと、締まりのない笑いを返すことしか出来ない。
いつもだったら『脳味噌大丈夫?』とか言ってきそうなもんなのに、
ふっと視線を窓の外に向けた。
576 :
書いた人:04/03/05 23:31 ID:PyWdg6GN
「……大丈夫だよ」
「え?」
「手紙を書くのは伝えたいことがあるから、でしょ?
私はここに実体があるのに、それなのに伝えられないなんて馬鹿げてる」
すこし刺のある風にも聞こえるその口調は、少なくとも私に対しての怒りではない。
お冷を口に含んで少しその冷たさを味わって、そして手で長い髪を一度梳いた。
「おかしいよねぇ…十年前に学んだはずなのに。
伝えたいたいことがあったら、友達だったらすぐに伝えよう、って。
脳味噌の皺は増えてるのに、こういうことってどんどん忘れてっちゃう」
「…うん」
「結婚式でちゃんと言うよ。あの時叩いてゴメンね、って。
できればまこっちゃん来てる、ってことも伝えたいなぁ」
いや新婚ほやほやなのに、そんな衝撃でかいこと言わない方が…
そう言いかけた瞬間、自分のバカさ加減に気付いた。
伝えたいってことが彼女の気持ちなら、それに逆らうことなんて私には出来ないって。
伝えてどんな結果になっても、伝えないで後悔するよりは何百倍もいいじゃない。
577 :
書いた人:04/03/05 23:32 ID:PyWdg6GN
私の反応がないのに微笑むと、飲みかけのコーヒーを静かにソーサーに置く。
そしてぱんっと手を合わせて、軽く頭を下げてごちそうさま。
「行こっか。まだ便箋買ってないし……楽屋で2時間くらい寝れるから、その時書いてよ」
「ホントに寝んの?」
「だって私が私宛ての手紙読んだってつまんないじゃん。
私が見てたら照れくさくて書けないことだってあるでしょ?
明日も朝早いし、今のうちに寝とく」
午後からの仕事を遠くに見てか、お店から出てのんちゃんは大きく伸びをして。
そして薄青色の空をしばらく見上げて、笑った。
「だってさ、まこっちゃんの方が伝えられる時間が少ないんだから。当然でしょ?
まこっちゃんに残されたのがどれくらいか分かんないけど、今出来る内にやっちゃわないと。
さもないと、私はこれから残りの人生、ずっと後悔しちゃいそうだよ。
こればっかりはもう、取り返せないからね」
「…うん」
足元の鳩が一羽、ポップコーンみたいな音を立てて飛び立つと、
ビルの狭間の空に向かってまっすぐに上がって行った。
その絵がとても綺麗で、のんちゃんも私も鳩が視界から消えても、じっと空を見ていた。
「せめて…あと少し、私が紺野ちゃんと仲直りするまでは、見守ってよ」
「……うん」
努力じゃどうしようもないことだって事は分かってるんだけど。
だからこそ私は両手を組んで、年末にしかさして気にしない神様にお願いしたんだった。
578 :
書いた人:04/03/05 23:35 ID:PyWdg6GN
頭の中でのんちゃんの寝息を聞きながら、私は一文字一文字丁寧に手紙を書いた。
みんな…私がモーニング娘。に入ってからお世話になったみんなに。
こんなバカな話信じないかもしれない、悪戯と思われるかもしれない。
それでも10年前に言い忘れたことが伝えられる、それだけを信じて。
「……終わった?」
最後の手紙に封をした丁度その時、のんちゃんの欠伸交じりの声が聞こえた。
秘密文書みたいに大事にその束を抱えて、局のポストを一心に目指して。
一通一通ポストに入れると、その度に紙の擦れる音が微かに耳を打つ。
みんなの砂時計を滞らせているかも知れない何かを、この手紙が吹き飛ばしてくれることを祈って。
過去に目を瞑らないで、未来に歩いていけるように。
そして私の言い忘れたことが、しっかり伝えられるように。
579 :
書いた人:04/03/05 23:36 ID:PyWdg6GN
――― そして、2013年12月18日
チャペルの前の石階段で、泣きながら空を見つめる私がいた。
ウエディングドレスに包まれて、私の肩をギュッと抱く紺野ちゃんがいた。
笑顔で泣きながら、両手にいっぱい花びらを乗せたあいぼんがいた。
そして、少し俯き加減で、それでも優しくみんなを見守るつんくさんがいた。
中澤さんも飯田さんもなっちゃんも、
おばちゃんもやぐっさんもごっちんも、
梨華ちゃんもよっすぃ〜も愛ちゃんも、
マメも美貴ちゃんも亀ちゃんも、
シゲさんもれいなも、みんなみんないた。
けれど
彼女だけはいなかった。
一週間ぶりに、頭の中からは何も聴こえなかった。
すがすがしい気分のはずなのに、私はただ空を見上げて、はるか彼方を睨みつけた。