539 :
書いた人:
―――
すれ違う車のヘッドライトが、網膜にかすかな残像を残して飛び去る。
のんちゃんはタクシーの後部座席でそれに振り返りすらしない。
二人は何かホッとしたような安堵と、そして高揚感に今更ながら触れているらしかった。
まだ余り実感は無くても、でも確実に予感はしているんだ。
10年間止まっていた何かが、次第に動き出しているってこと。
つんくさんが過去を見詰めつづけるのをやめて、のんちゃんがこの10年間を肯定できるように。
まだそう言い切れないし、ちょっと歩き出しただけかもしれないけれど。
それでもそんな予感を二人とも感じているらしかった。
それなのにまだ…私自身には影がある。
あさ美ちゃん…どうなってるんだろう?
明後日、もう明日…か、あさ美ちゃんは結婚する。
相手が誰か、私は知らない。のんちゃんに案内状を見せてもらったけど、知らない人だった。
結婚するんだもん、一生その人と過ごしていくんだもん。
とってもその人のこと、好きなんだよね?
あさ美ちゃんが過去から目を背けるだけのために、明日を迎えるわけじゃないことは分かってる。
なのに…私の頭から影が離れない。
540 :
書いた人:04/03/01 02:24 ID:7cbuHX7y
『過去に蹴りをつけるためかもね』
のんちゃんはそう言っていたけれど、でも…それってホントに正しいことなのかな?
新しい一歩を踏み出すときに、全部後ろにあったものを捨てちゃう…そういうこと?
それって…私と買い物したり、歌ったり踊ったり、おしゃべりしたり、時々喧嘩したり。
いやあさ美ちゃんのあの輝かしい2年半、全部忘れちゃうってこと?
コンビニの冷たい灯りが目に入って、その瞬間に後方に消え去った。
私は…小川麻琴は今、ここにいない。
もしもあさ美ちゃんが全部忘れちゃったら、私はもう永久にあさ美ちゃんに想い出だしてもらえないんだろうか。
その瞬間、猛烈な恐怖感が精神全体を駆け抜ける。
私がここにいないのなら、そして私が二度とここに来れないのなら、あさ美ちゃんは私のこと…
嫌だ、嫌だ、嫌だ
541 :
書いた人:04/03/01 02:25 ID:7cbuHX7y
「……寒い」
「え? そうですか? 暖房上げます?」
「…お願いします」
「なんや、のの。寒いんか?」
「ちょっと、ね」
私のこころの騒擾が伝わったのかもしれない。
加護ちゃんが押し付けてきたコートを膝にかけて、のんちゃんは小声で「ありがと」と呟く。
今ここで、『あさ美ちゃんに会いたい!!』なんて言えない。
多分のんちゃんは自分自身が抱えることを全部打ち消して、会いに行ってくれるだろう。
加護ちゃんだって『結婚式の前日やで? 非常識やん』とか言いながら、それでも携帯を開いてくれるだろう。
私があと少ししかここにいられない。
それを聞いたあの時の二人の調子を考えれば、
二人がそう言ってくれることがもう表情や言葉の調子まで一緒に予測できる。
けれど私は口をつぐんだ。
542 :
書いた人:04/03/01 02:25 ID:7cbuHX7y
私はあくまでも過去の…いや、別の時間軸の…人間なんだ。
わがままを通して私が満足しても、それが変な結果を残すとしたら。
そんなの、絶対に嫌だ。
のんちゃんや加護ちゃんは結婚式の前の日の深夜に突然電話をするとんでもない人、ってことになっちゃう。
あさ美ちゃんはお父さんやお母さんと過ごす最後の日を、永久に逃すことになる。
やり直しは利かないんだ。
タクシーはバックできるけど、私たちは絶対に後戻りできない。
私がこの時代で悔いを残したくないのと同じくらい、みんなが幸せであって欲しいから。
………そしてその二つだったら、私が選ぶのは勿論…
二人が何かを話し始めたけれど、それを聞き流しながら考えていた。
みんなに変な影響を与えないで、それでいてあさ美ちゃんに私を忘れないでいて欲しい。
矛盾だらけでとってもわがまま願いだってこと分かってる。
分かってるんだけど…どうしたらいいかなぁ…
543 :
書いた人:04/03/01 02:26 ID:7cbuHX7y
「ま・こっ・ちゃ・ん!!!」
「!!」
と、突然の咆哮にぎっくり腰が再発しそうになる。
危ないなぁ…実体がここに無いことを、神様にちょっとだけ感謝する。
脳内の居候と話すってサイケな行動が運転手さんにばれないように携帯を耳に当てて、のんちゃんが吠えていた。
加護ちゃんが眼鏡越しに、すこし気の毒そうな視線を送っているけれど、これは多分私宛だろうね。
「…返事くらいしてよねぇ。
明日夕方まで仕事だから、その後あいぼんとご飯食べるけど…どこがいい?」
「あ、ゴメン。ちょっと考えごとしててさぁ…うーん、なんでもいいよ」
「そう? 折角だから腰抜かすほど美味しいものでも食べようよ」
あんたのさっきの怒声でもう腰なんか抜けてるよ…とは当然言わない。
加護ちゃんは握りこぶしを口に当てて、くすくすと笑っていた。
「まこっちゃん、もうあと少ししかおれへんのやろ?
10年前の収入じゃ食べれんもんでも食べとけばええやん」
また昔の話を…
今はそれなりにお給料貰ってるけどなぁ…自由に使える分少ないけどさ。
お金の話をするときの加護ちゃんの三日月状の目つきが、無性に懐かしく見える。
544 :
書いた人:04/03/01 02:27 ID:UtGFZdPu
「そうねぇ…ご飯はどうでもいいって言うかさぁ…二人ともっと色々話したいね」
「…分かったよ」
そうだよ。
美味しいものなんか、いつでも食べれるじゃん。
今はもっと、二人と話していたいからさ。
のんちゃんから私の要望を聞いた加護ちゃんが、
『なんや、折角ののの奢りでいいもん食べれると思ったんけどな』
と、とんでもないことを言っていたのは、気のせいということにしておこう。
モーニング娘。のみんなとは結婚式で話せるけど…でも、私が来てるなんて言えないよね。
こんな与太話、普通の人間は信じてくれないし。
出来れば…私自身の言葉でみんなと話したいよねぇ…
でも今話してもなぁ…意識を変わってもらったところで、のんちゃんが喋ってるようにしか見えないし。
545 :
書いた人:04/03/01 02:28 ID:UtGFZdPu
私が私であること、私が今ここにいること…それを何で証明すれば…
「あ」
「何? どしたの、まこっちゃん」
思いついちゃった。
これだ、これしかない…って言うか、これしか思いつかない。
自分の脳味噌の優秀さが身に染みる。まさに自分で自分を褒めてあげたい。
やっぱりあれだね、日頃からバカやってると、いざって時に凄いね。
「いやぁ〜、加護ちゃん、誉めてつかわすぞよ」
「どしたん? のの?」
「いや…なんかまこっちゃんが殿になってる」
「はぁ?」
遂に大脳がご臨終したかのような目付きをしている二人をそのままに。
私は自分のひらめきを前に、だらしない笑いを止められなかった。