30.道重さゆみ、もう一つの顔
「えっ?」
安倍はまったく微動だにすることができなかった。
早大付ベンチも、観衆も言葉を失った。
一瞬夜になったかのような静寂が球場を支配する。
「なんなの?今の球は……。」
思わず電光掲示板に目をやる。
151km/h。
それは紛れもなく道重が投げた球だった。
「絵里、さゆがあんな球投げたの見たことある?」
「ううん、私もはじめて見た……。」
バックネット裏で観戦していた田中・亀井も、突然の道重の豹変振りに呆然としていた。
「かめいちゃんたちもあのたまはみたことがねーのれすか?」
二人の様子を察した辻が確認も含めて聞いてみる。
「はい、というよりもあんな表情をしたさゆなんて見たことないです……。」
亀井にも何がなんだかわからない。
今まで見てきた道重とはまったく別人のような道重を見て、亀井はただただ驚くばかりだった。
安倍はその後も道重の速球にタイミングが合わず、続く藤本と連続で三振に倒れた。
道重はその後も150km/h代の速球で早大付打線を全く寄せ付けない。
一方の紺野も、1点のリードを打たせてとるピッチングで必死で死守してきた。
しかし、土壇場の9回表。
先頭打者の道重が紺野のスローカーブを打った。
やはりさっきまでとは別人のような豪快なスイング。
打球は弾丸ライナーでバックスクリーンへと突き刺さり、ここに来て岩国が同点に追いついた。
さらに紺野は続く打者を二者連続で四球で歩かせてしまい、無死一・二塁と初回と同じような大ピンチを迎える。
この時、紺野は肩で息をし始めていた。
球数はすでに130以上を数えている。
初登板である紺野はもう限界をはるかに超えていた。
「すいません、タイムお願いします。」
ここでサードの藤本が間をとる。
そして、ゆっくりとマウンド上の紺野の下へと歩いていく。
と同時に飯田に何かを目で合図した。
飯田はそれに頷く。
それを見て藤本は紺野に話しかけた。
「紺ちゃん、お疲れ様。」
そう言って藤本が右手を差し出した。
紺野は軽く息を整える。
そして……。
「すいません……あと……お願いしますね……。」
そう言って紺野は藤本の右手にパチンとタッチした。
それを見て飯田が主審に交代を告げる。
そして場内にウグイス嬢のアナウンスが入った。
『守備の交代をお知らせします。
ピッチャーの紺野がショート、ショートの安倍がサード、サードの藤本がピッチャー、以上に代わります。
2番、ショート、紺野。4番、サード、安倍。5番、ピッチャー、藤本。』
投球練習を始める藤本。
しかし、いつもの藤本とは少しばかり表情が違っていた。
どうやら、紺野のピッチングを見てかなり燃えてきたらしい。
その証拠に、投球練習から藤本はかなり熱が入っていた。
「紺ちゃんがあれだけ頑張ってくれたんだから、ここで美貴が打たれるわけにはいかないでしょ。」
そして試合再開。
藤本はいきなり4番の城山を速球三球で空振り三振に斬ってとる。
後続もオール速球で、この回三者連続三振と見事にこの窮地をリリーフしてみせた。
道重も負けじとオール速球。
9回裏も三振二つを含め、三者凡退で終えた。
ますます投手戦が激化していく中、ついに試合は延長戦へと突入していった。