「合格だ」
ジョンソン飯田の口から漏れた言葉を、隣にいた石黒は聞き逃さなかった。
だが石黒はもう一度念を押すように聞き返す。
「圭織。今、何て言った?」
「合格って言ったんだ。松浦亜弥はうちのエースに育て上げる」
飯田圭織という女は唯我独尊、他人を認める発言をほとんどしない。
その飯田がたった一試合で認めたのだ、松浦亜弥の才能を。
しかもハロープロレスのエースにするとの発言まで。これはただごとではない。
驚嘆に震える石黒を尻目に飯田は席を立ち、会場を後にしようとする。
「おい、どこ行くんだよ?」
「もう用は済んだ。帰る」
「この先の試合は見ていかないのか?」
「ああ」
長い髪を振りかぶり飯田は歩き出した。
頑固な女である、こう言い出したら止められない。石黒も諦めて立ち上がる。
ところが無謀にも、そんなジョンソン飯田を止めに入った娘がいた。
「ちよっと、むぁったぁ〜!」
「愛!」
飯田の後ろにいた石黒と、通路で二回戦を待っていた亜弥が同時に叫ぶ。
ジョンソン飯田の前に恐れ多くも立ち塞がったのは高橋愛であった。
「飯田さん。私の試合も見てってや」
「誰だ?お前は?」
「私が以前通っていた道場の娘で、松浦の友人の高橋愛だ。愛ちゃん何を!」
すかさず石黒がフォローに入る。しかし愛は少しも悪びれない。
長身の飯田が目を細め、高みからスーッと愛を見下ろした。
「お前、強いのか?」
「強えよ!」
「このジョンソン飯田を引き止めるからには、それだけのものを見せてくれると?」
「おお!例えば両手を使わずに勝つってのはどや?」
「愛ちゃん!バカなこと言って何を…」
「おもしろい。見せてもらおうか」
ジョンソン飯田がUターンする。
心配そうに見やる石黒に向けて、愛はピースサインを造って微笑んだ。
相手は今大会最重量!女子相撲関取、谷絵瑠!愛との体重差は倍以上!
細身の愛と並ぶとその違いは歴然。ハンデをもらってもおかしくない体格差である。
それを逆に両手不使用というハンデを背負って相手するというのだ。
「高橋流柔術。高橋愛。18歳」
「大相撲。谷絵瑠。18歳」
二回戦第一試合、高橋愛vs谷絵瑠
開始の合図。愛は少し下がり距離をとる。問答無用と言わんばかりに谷絵瑠は突進。
彼女にすれば体当たりが強烈な必殺技と化す。一回戦もそれで勝ち上がってきた。
それを愛は華麗な足捌きで難なく交わす、と同時に膝へローキックを打ち込む。
また距離を置く。谷絵瑠はまた突進。それを愛はまた同様に対処する。
(恐ろしく速い!無闇にいっては捕まえられない!)
気付いた谷絵瑠は戦法を変える。手のひらを大きく広げ胸元に添える。
じわじわと追い込み、その巨大な張り手で叩き潰す作戦に出た。
「そうきたか〜。んじゃ、今度はこっちがいくよ」
すると今度は愛が突進してきた。慌てて谷絵瑠は張り手を放つ。
愛はしゃがんで交わす。そのまま物凄い速さで谷絵瑠の懐へ!
腹!胸!肩!まるで階段を駆け上がる様に、愛は蹴り足で谷絵瑠の巨体を昇る!
まるで映画の様なアクロバティックに、会場中が驚嘆の渦に染まる。
そのまま両足を谷絵瑠の首に絡め、空中を横に回転した。
これは堪らない!激痛で谷絵瑠は自ら体をよじる。関取が宙を回った。
ズドーォォォン!!!
足で首を絡めたまま一回転して床に叩き落した。谷絵瑠はもう立つことができない。
審判が止めるまでもない。観客達の歓声が決着を表していた。
「勝負ありぃぃ!!勝者高橋愛!!!」
愛は拳を高々と掲げる。壇上に上がってから初めて手を動かした瞬間。
この小さな娘は、本当に両手を使わずに勝ってしまった。
闇の武術が生んだ天才、高橋愛!堂々の準決勝進出!
最前席でこれを見届けた飯田が、腕を組んだまま石黒に尋ねる。
「石黒、あいつの名前何だったっけ?」
「高橋愛です」
「…高橋愛。覚えておこう」
足を組み替え、独り言の様に飯田はそう言った。
そのまま退場しようとしない。愛がジョンソン飯田を引き止めたのである。
「そうこなくっちゃ」
通路で観戦していた松浦亜弥がひとりごちた。
口元は笑みの形をしているが、目は笑っていない。
同様に、刺す様な視線で愛を見つめる人物がいた。紺野あさ美である。
紺野は自分の手のひらが汗で濡れていることに気付く。
今の試合で自分が高ぶっている、熱くなっていると悟った。
その様な感覚は今まで一度もなかった。落ち着きを戻す様に帯を締めなおす。
(いつもの様に、いつもの拳を、いつもどおり撃つだけ)
「押忍!」
空手特有の気合を入れ、紺野あさ美出陣!
「松浦亜弥。高橋愛。いいねえ。本当にいい。紺野と闘らせたいねぇ」
VIP室ではさっきからなっちがこの調子である。
半ば呆れた藤本はもう相槌も打たない。すると突然ノックの音が鳴り響いた。
「誰だろ?これから紺野の試合だってのに。美貴、開けてあげて」
「へいへい」
藤本が扉を開けると、廊下には白髪でこじんまりとした老人が立っていた。
いや、こじんまりとしてはいるがその服の下は見事な体躯が備わっている。
藤本は人目見て、その老人が只者でないことに気付いた。
「誰だ、あんた」
「安倍なつみさんに会いたいんじゃが?」
呼ばれて部屋の中から顔を覗かせたなっちは、その老人の顔を見て声を高らげた。
「いやー!小川五郎さんじゃない!」
「ひさしぶりじゃの」
「小川五郎!?マジで!このジジイがあの?」
講道館の天才小川五郎が安倍なつみの元へ訪れていた頃、その孫娘は燃えていた。
幼い頃から叩き込まれた柔道と、実践の場で鍛え上げた喧嘩の腕を握り締め、
越後の虎!小川麻琴出陣!
「講道館柔道。小川麻琴。17歳」
「夏美会館空手。紺野あさ美。17歳」
同い年、身長も体重もさほど変わらない二人が並ぶ。異なるのは進んできた道。
空手だけを打ち込んできた紺野。柔道に独自の喧嘩スタイルを加えた小川。
敗北はその信じてきた道を否定することに等しい。互いに負けられない。
「はじめ!」
二回戦最注目の試合が始まった。
この試合の勝者がすでに準決勝進出を決めた高橋愛と当たる。
紺野は一回戦と同じ、空手の基本半身の構え。麻琴は柔道スタイル。
(襟を掴むまで、そこまでが勝負だ)
物心ついたときから柔道をしていた自分が、紺野に組み技で劣るはずがない。
ただ紺野の打撃が本当に危険であることは一回戦で見た。
しかし毎日殴りあいの喧嘩を続けていただけに麻琴は打たれ強さに自身があった。
(一発に耐えられるかどうか?そこが分け目だな)
麻琴は賭けに出ることにした。どのみち無傷で襟を取れるとは思えない。
だったら一発打撃を受けてでも強引に掴みに行かなければならないだろう。
(それでやられる様なら、私もそこまでだったってことだ)
意を決し麻琴は前へ飛び出す。待っていたとばかりに紺野のローが襲いかかる!
一回戦一撃で相手を葬った殺人ローキックが小川のふとももを叩く。
死ぬほど痛かった。痛かったが麻琴は止まらなかった。そして手を伸ばす。
(もらっ…!)
その瞬間、紺野の右拳が稲妻となる。
色んな喧嘩をしてきた。ボクサー崩れともやった。空手野郎ともやった。
だがいなかった。こんなのは一度もなかった。
襟を取りにいって、掴みかけた。もらったと思った。なのに急に目の前がまっくらに…
(拳?正拳?紺野が撃ったのか?あの体勢から?嘘だろ?)
(でもマットが気持ちいいや。ん、マット?待て!ダウンしてるのか?私が?冗談!)
(やれるぞ!まだやれる!すぐに立ってやるさ。痛っ!右足がいかれてる)
(さっきのローか?ふざけんな!私は小川麻琴!越後の虎だ!)
(こんなんで終われるかよ!)
「立った!小川が立ったぞ!」
立ち上がった麻琴に審判が確認する。まだやれるか?聞くな。当たり前だ!
試合続行!
「行くぞオラー!」
麻琴が吼えた。少しも臆することなく紺野に突撃する。
蹴った!殴った!喧嘩だ!なんと紺野相手に打撃を仕掛けていった。
紺野あさ美、これを真っ向から受ける。
(負ける訳がない!)
何百万回と繰り返した正拳突き。
それを同じタイミングで、同じ力で、同じ速さで、相手に打ち込むだけ。
打撃の基礎が違う。紺野の拳が再び小川の胸を直撃する。小川、二度目のダウン。
(あれ…?)
動揺。およそ闘いの場において、紺野はその感情を抱いたことはなかった。
年上でも、男でも、どんな相手でも、自分の拳を受け立ち上がってきた奴はいなかった。
なのに目の前で小川麻琴がまた起き上がろうとしている。
もう二発。二回も倒したはずなのに。
「へっへっへ。ちっとも効かねえぜ」
強がりに決まっている。現に足元がふらついている。
もう一発。もう一発与えれば、絶対に起き上がれないはずだ。
三度目の激突、ふらふらと雑な攻撃を仕掛ける小川に向けて三度目の拳。
(決まった!これでもう…)
紺野は目を剥く。まるでゾンビの様に、小川は立ち上がっていた。
絶対的な自信を誇っていた正拳突きで倒せない。この事実が紺野の動揺を揺さぶる。
(そんなはずは!そんなはずはない!)
紺野は飛び出した。立ち尽くす麻琴にとどめを刺す為に!
朦朧とした意識が幼き頃から叩き込まれた麻琴の柔道の技を呼び覚ます。
向かってきた紺野の腕を麻琴が掴み取る。
天才小川五郎の血脈を受け継ぐ最高のタイミング。
紺野は咄嗟に足を絡める。強靭な足腰でバランスを保とうと…だが追いつかない。
電光石火の一本背負い!
宙を舞った。地面に叩き落された。同時に上に載られた。逃げても逃げられない。
もがいても離れられない。勝てない。右腕と首を固められた。息ができない。
意識が飛んでゆく。
消え行く意識の中で紺野の脳裏に敗北の二文字が浮かんだ。
「紺野、あんたの為の大会だからね」
そのとき暗闇の中に、尊敬し憧れてきたあの人の顔が浮かんだ。
あの安倍なつみ館長が自分の為に大会を開いたんだと名言した。
まだ二回戦、負けられない。こんな所で負けられるはずがない!
指の一本一本を確かめる様に折り曲げていく。もう一度紺野の手が拳を造る。
――――眠れる牙が
仰向けの体勢から紺野は、自分の上で首と右腕を締め付ける小川に向けて、左拳を放った。
鈍い音と共に、紺野の拳が小川の背中に突き刺さる。
「〜!!」
悲鳴。声にならない悲鳴。麻琴は決まっていた技を解いて転げまわる。
ようやく息を吸い、起き上がる紺野。
常識はずれの破壊力。あの体勢で撃たれ強い小川をこれほどまでに苦しめる一撃。
もしこれがちゃんと立って構えていたならば、どれ程すさまじい威力になるか!
大きな瞳で相手を凝視し続ける紺野。その佇まい、今までの紺野とはまるで違う。
背中を突かれ苦しむ小川は、必死で立ち上がろうとする。
(ふざけんな!負けてたまるか!)
(愛の奴に借りを返すんだ…優勝するんだ…この小川麻琴が…)
中腰の状態で足がふらつき前のめりに落ちる。小川麻琴、立ち上がれない。
横になったまま上を見上げると、紺野は構えたまま待っていた。
(寝てる奴は襲わない。あくまで空手一本って訳か)
審判が決着を告げる。越後の虎、破れる。
VIP室では、安倍なつみ、藤本美貴、小川五郎の三人がこの試合を観覧していた。
決着がつくと、五郎は溜息をつき回れ右した。
「やれやれ、だから『ばーりちゅーど』はまだ無理だと言ったんじゃ。バカ娘め。
逆らわずわしの言う通り柔道に専念しとったら、あの一本背負いで決まとったよ」
「そうかもしれませんね」
「まぁこれで麻琴もわかったはずじゃ。あいつはワシが一から鍛え直す」
「感謝していますよ。あなたのお孫さんのおかげで紺野の牙が目覚めた」
紺野あさ美は優し過ぎた。自分では全力のつもりでも、どこかで相手を気遣っていたのだ。
しかしさっきの最後の一撃は違った。相手へ気遣いを捨てた本能の一撃。
小川が紺野をギリギリまで追い込んだことで、その力が解放されたのだ。
「安倍さんや。これで空手が柔道に勝ったとは思わんことじゃ」
「はい」
「知っとるじゃろ。講道館には今、当時のワシを上回るかもしれぬ天才がおる」
「ええ、有名人ですから」
「矢口真里。いずれ彼女があんたの所へ挨拶に来る。覚悟しておきなされ」
捨て台詞を残し、小川五郎は部屋を出て行った。
ともあれ、紺野あさ美はこれで準決勝進出。
ついに高橋愛と激突する。
麻琴は担架で医務室まで運ばれた。それを見送った愛。
絶対的不利であったあの状況をたったの一撃でひっくり返す破壊力。
次は自分の番かもしれない。そう考えると身が竦む、怖くて仕方ない。
なのにワクワクが止まらない。早く紺野と戦いたいと思っている自分もいる。
(病気やわ、治す気はないけど)
二回戦第三試合はなかなか決着が着かない接戦となった。
3R闘いきり、かろうじて加護亜依という娘が判定で勝利を収めた。
加護は恥ずかしそうに愛想笑いを浮かべて退場してゆく。
そして二回戦第四試合、あややの登場。一転して大歓声。
対するはアマレスの高校生チャンプ、レスリング対決が期待された。
しかし内容は一方的なもの、松浦が次から次へとプロレス技を魅せてゆく。
その一挙手一投足に観客の声援が飛び交う。とどめは豪快なブレーンバスター。
圧倒的実力差で高校チャンプをマットへ沈める。
強さと、派手さと、魅力、全て兼ね揃えたまさに完璧なファイター松浦亜弥、準決勝進出。
こうしてベスト4が決定した。いずれ劣らぬ、最強の名に恥じぬ娘たちが相並ぶ。
高橋愛(高橋流柔術)
紺野あさ美(夏美会館空手)
加護亜依(フリー)
松浦亜弥(ハロープロレス)
第三話「陽の当たる場所に」終わり