第11話「東の光、西の闇」
その人が尋ねてきたのは、快晴の気持ち良い初夏でした。
もうすぐトレーニングから戻ってくるヨッスィーの為に、いつもの様にエプロン姿で
夕食を作っていると、長袖のシャツにジーパン姿の女性が玄関に立っていました。
「こんちは〜吉澤いる?」
「えっと…どちらさま…でしょうか?」
「おっ、可愛い!君、名前は?もしかして吉澤と暮らしてるの?あいつ、やっる〜!」
矢継ぎ早にまくしたてる彼女に、私は返答する間もありませんでした。
へ、変な関係じゃない…と弁解したかったが、このエプロン姿では効果は薄いと諦めた。
「石川梨華です。私はその…ただの居候みたいなもので…」
「にしちゃ〜な〜。あの吉澤の部屋がやけに女の子っぽくなってるし〜」
確かに。私が趣味で揃えたピンクグッズがあちこちに…。
とてもヨッスィーの趣味とは思えない。しかし何なんだこの人、突然現れて。
私が口をへの字に曲げたせいか、彼はあわてて苦笑いを浮かべて見せた。
「悪い悪い。気を悪くした?まいったなぁ〜。で、吉澤は何処?」
「…後ろ」
「ぬおっ!吉澤!いつの間に!」
「何してんすか?市井さん」
「セクハラ」
このセクハラ姉さんは、ヨッスィーの友達の先輩で市井紗耶香というらしい。
おかげで私は急遽、夕食を三人前に作り直す羽目になった。
「いや〜良かったな。吉澤にも可愛い彼女ができて」
「ふざけないで下さい、市井さん」
食卓を囲んで団らんの始まり。もっとも私は二人の話に聞き耳立てるだけですけど。
ヨッスィーが嗜めると市井さんは短かく揃えた髪を掻きながら、一通の手紙を取り出した。
「後藤からのエアメール」
ヨッスィーの目つきが変わった。今までこんな視線を見たことが無いくらい鋭く。
私の胸が―とくん―と鼓動した。
「へっへ〜。やっぱり反応しやがった」
「当たり前じゃないすか。ごっちんが何て?」
「吉澤が日本に戻ったってニュースを聞いて、慌てて書いたらしい」
市井さんが拡げた手紙にはマジックで太く書かれた一文字「バカ」
よっすぃーは顔を引きつらせて手紙の表と裏を何度も確かめる。
が、どう見てもその二文字しか存在しない。
「それだけ?」
「それだけ」
「わざわざブラジルから?バカはごっちんだ!」
「嫉妬してんだよ。先に世界で結果を残して凱旋されたからって。あいつもまだガキだな」
ガキとか言うレベルの問題では無いと思ったが、私は黙っていた。
ただ、その後藤という人の話をしている時のヨッスィーの笑顔が、なんか気に障った。
「吉澤。後藤はブラジルのバーリトゥードで、頂点に立って帰ってくるぞ」
「そんな簡単に…。それがどれだけトンデモナイことかわかってるんすか?」
「ヘビー級世界チャンプが言うなよ。わかるだろ、あいつがお前しか見ていないこと」
ズキン。さっきより大きく胸が痛んだ。
ヨッスィーの顔はもう笑っていなかった。市井さんも。
「吉澤、お前が世界の頂点に立ったから、自分もそうする。あいつの頭にはそれしかない」
「だ、だけど…」
「後藤が決めたなら間違いなくそうなる。後藤真希は別格…怪物だ」
市井さんはそう言って、シャツの長袖を捲くって見せた。
そこにあるべきはずの腕が無い。
私にはその理由が分からないが、よっすぃーは分かっている様だ。
「私が後藤を怪物にしてしまったんだ。もう誰もあいつを止められない」
「…止める。私がごっちんを倒す」
「ああ。私も後藤は吉澤にしか倒せないと思う。だから今日ここへ来た」
「いいんですか?私があなたの愛弟子を倒してしまって」
「あいつはとっくに私を超えている。むしろ頼む。あいつを倒してくれ。
後藤にもう一度、まっとうな人間の心を…」
市井さんが頭を下げた。それをヨッスィーは黙って受け取った。
私はもちろん話についていけるはずもなく。ただ黙って座っていた。
体が震えていた。きっと怖くて震えているんだ。
だけど、どうしてだろう…今の話を聞いて、こんなに指が疼くのは…?
「やれやれ、ごっちんが帰ってくるまで。今度の大会、絶対に負けられなくなった」
「吉澤。大会まで残り三ヶ月。私がスパーの相手してやろうか?」
「えっ!いいんすか!でもその腕で…」
「ちょうどいいハンデ…とは言えないか。まぁ心配無用だ」
そこで私は思い出した。新聞のテレビ欄。東日本予選の文字。
「あー!今日だよ!よっすぃー!予選の日!」
「あ、そうだっけ?忘れてた。テレビテレビ」
テレビをつけるが、残念ながら予選はちょうど終わりを迎える時刻であった。
画面には優勝者の顔がアップで映されていた。
「え?嘘?」
私はそこで一瞬、目を疑った。
そこにいるはずのない人がそこに映っていたから。
ヨッスィーにも話していない、私の秘密を知っている人が…。