第二話「なつみかん」
雄大なる北の大地を、少女はただひたすらに走り続けた。
北海道の冬は早い。秋といえど既に白い綿毛がちらついている。
土の上に舞い降りた粉雪に少女の足跡が何処までも続く。
一定の歩幅、一定の息遣い、一定のスピード。
黙々と、しかし止まることはなく少女は走り続けた。
景色は白い。吐く息も白い。少女が身に付ける物までが白い。真っ白な胴着であった。
胴着の下は薄手のTシャツを一枚着ているだけである。足は素足。
寒空の中、その様な出で立ちであるにも関わらず、少女の体は熱気に満ちていた。
だがその熱気は外部へギラギラと放たれるものではない。
内部に押し潜め静かに燃え上がらす…その様な何とも言えぬものであった。
そんな熱を奥底に秘めたまま、表情ひとつ変えることなく、少女は走り続けた。
少女の名は…
「たのもー!」
裾の破れた柔道着を纏った娘が、荒々しく高橋流道場の門を叩く。
その風貌と言動に、松浦亜弥は思わず吹き出しそうになった。
(イマドキこんな時代錯誤な子がいるんだぁ〜)
「ここで一番強い奴と勝負させろ!一番強いのは高橋愛だろ!高橋愛はどこ!?」
荒々しく吼える娘の対処に、道場生たちは戸惑う。
愛とその父は今、親交の深い他流派に出稽古に出ている所だった。
門下生も多くが同行している為、道場には亜弥を含めた少数の門下生がいるのみであった。
仕方がないと、留守を預かる者では一番年長の男が柔道着の娘に説明を始めた。
「師範と愛さんは外出中ですが」
「なんだと!私はわざわざ新潟から出てきたんだぞ!ふざけんな!」
「ふざけてるのはそっちじゃな〜い?」
「誰だ!」
「勝手にやってきて、一人で騒がないでよ。なんなら私が相手しようか?」
脇から口を挟んできた亜弥に、年長の男が心配そうな表情を見せる。
「亜弥ちゃん」
「平気、平気、私に任せて♪」
「いやそうじゃなくて、相手に大怪我させて問題にでもなったら師範に…」
「ああ、そっちの問題ですか。大丈夫、手加減しますんでぇ〜」
柔道着の娘がギロリと鋭い眼差しを亜弥に放つ。
負けじと亜弥も余裕を含んだ笑みで、柔道着の娘を見下ろした。
「あんた間違ってる。ここで一番強いのは愛じゃないよ。わ・た・し」
「誰だお前!?」
「人に名を尋ねるときは自分から先に名乗ったら?」
「小川麻琴!今日は高橋愛に昔年の借りを返しに来た!」
「ふうん。残念だけどそれ無理っぽいよ。この私に会っちゃったから」
小川と松浦の間に張り詰めた緊張が走る。
門下生達は動きを止め、二人の行く末を見守っていた。
先に動いたのは小川であった。
(速くはない。柔道だから襟を取りに来るのかな?)
亜弥は腰を落とし、じっくりと小川の動作の観察に徹した。
と、襟を取ると見せかけた小川の手が突然拳を握る。亜弥は咄嗟にガードを作る。
間一髪ガードが間に合う。遅ければ完全にヒットしていた打撃だ。
(なによこいつ!?柔道じゃないの?)
さらに小川は殴る。そして蹴る。どれも上手い。
柔道家が一朝一夕に覚えた打撃ではない、長年慣れしたんだ動きをしている。
(調子に乗るな!)
亜弥はガードを固めたまま隙を見てタックルに入った。
すると小川は拳を解く。向かってくる亜弥の足に自分の足を絡めとった。
内股。
今度は見事な柔道技だ。常人離れしたバランス間隔を持つ亜弥でなければ倒されていた。
後方へ飛び間合いを造り、亜弥は小川の顔をもう一度睨んだ。
「なんだ。雑魚っぽい顔のくせに強いんじゃん」
「誰が雑魚だ!私は越後の虎!高校柔道No1の小川麻琴だぞ!」
「越後の虎?センスないネーミング。まあいいわ手加減はやめてあげる」
「強がりはそれくらいにしな。お前も喧嘩柔道の餌食だ」
「喧嘩柔道…なるほど、そのままね」
亜弥の気が変わった。小川はそれを空気で察知した。
早い。さっきのタックルとはまるで別の動き。小川は横に避ける。
避ける速さ以上の速さで、亜弥は小川の後ろに回りこんでいた。
必殺バックドロップ。
技を防ぐため小川は足を絡める。二人は同時に崩れ落ちる。
落ちると同時にポジションの奪い合い、柔道の寝技とプロレスの寝技。
(打撃はまあまあだったけど、こっちはまだまだね…)
グラウンドでは亜弥が一枚上手であった。
執拗に腕を狙う亜弥を、小川は体力と気合で逃げ回る。
だが体力でも亜弥は負けていなかった。そして腕を…取った。
「はいおしまい。ギブアップは?」
「誰がするか!まだ終わってないぞ!」
完全に腕を決められた状態でも小川は負けを認めようとしない。
亜弥がもう少し力を込めたら折れてしまう。
(めんどくさいなぁ…ほんとに折っちゃうか?)
亜弥がヤバイ考えを頭に持ったとき、道場入り口からあの訛りが聞こえた。
「はいはい〜そこまでやよ〜」
ちょうど出稽古から帰ってきた愛は、亜弥と小川の試合を収め二人を自室へ呼んだ。
「ひさしぶりやね、まこっちゃん?今日はどうしたの?」
「愛に借りを返しに来たってさ。まぁ私が代わりにシメておいたから安心して」
「誰がシメただコラ!あんなんで勝ったと思うなよ、てめぇ!」
「強情な子ぉ〜。何処をどう見ても疑い様ないくらいあややの勝ちだと思うけど」
「やるか!?もいっぺんやるか!?このサル顔!」
「……ほんとに折っとけばよかった」
「ほらほら喧嘩はそこまで!もー」
愛は二人の間に入り、距離を作る。
亜弥はツンとおすまし顔、小川麻琴は未だ興奮冷めやらぬ様子であった。
なんとか話題を曲げようと、愛は小川との思い出話を始めた。
「それにしてもマコっちゃん、ひさしぶりやわ。いつ以来やろ?」
「チッ!やっぱり忘れてやがる。でも私は忘れていない。今日で1344日目だ」
「(そこまで覚えてる方が以上だと思う)」
「何か言ったかサル!それくらい私にとってこいつからの敗北は重かったんだ!」
「…の割にはあっさり私に負けたね」
「ワーワーワー!人の部屋で喧嘩せんといてー!」
柔道は元々柔術の一流派である。
江戸時代末期から明治維新にかけて、嘉納治五郎という男が
天神真楊流柔術と起倒流柔術を中心として柔道の体系を作り上げた。
後にオリンピック種目にまで認められる講道館柔道である。
昭和の初め、講道館に一人の天才が生まれる。
小川五郎。世が世なら日本中を騒がす英雄になったであろう男だ。
小川麻琴はこの小川五郎の孫にあたる。
愛と同様、幼き頃より柔道の技術をその身に叩き込まれてきた。
愛と麻琴が出会ったのは3年前、二人が中学生のときであった。
父と祖父に連れられて新潟まで出稽古に出たときである。
当然の様に二人は惹かれあい、そして試合うということになった。
結果は愛の勝ち。
しかし差は紙一重であり、負けん気の強い麻琴は涙して吼えた。
「覚えてろ!次に会うときは絶対勝ってやる!」
二人の間にはこの様な因縁があった。
しかし愛は妙に思う。麻琴の来訪があまりに突然であったからだ。
「麻琴ちゃん。何か別の目的ない?」
「さすが、感がいい。ひとつはお前の実力が落ちていないか確かめること」
「人の心配より自分の心配してなよ」
「サルは黙ってろつーの!…で実は目的がもうひとつあんだ」
「なんや?」
「なつみかん…って知ってるか?」
「柑橘系?」
「そっちじゃねえよ!空手の夏美会館(なつみかいかん)のことだ!」
「安倍なつみのか」
なつみかんこと夏美会館。
今や日本全土に支部を持つ国内最大の空手団体である。
総帥の名は安倍なつみ。
隆盛を誇る女子格闘技会の第一人者として数々の伝説を持つ女だ。
格闘技を志す者にとって、決して避けて通れない名前である。
当然、愛と亜弥もその名をよく知っていた。
「そうだ。安倍なつみだよ。あの人がまたおもしろい事を言い出した」
「おもしろいこと?」
「女子の格闘技人口は増えているのに、それを披露する場がない。と」
安倍なつみの言う通り、女性が公に闘える場所というのは限られていた。
男ならばその舞台はいくらでも存在する。強ければ金も名誉も手にできる。
しかしどれだけ強くても、女というだけでその道はあっけなく閉ざされるのだ。
「だから安倍なつみは言った。私がその舞台を造ると…」
「舞台?」
「女子総合格闘技の大会だ。まず18歳以下のトーナメントを開催するってさ」
ドクン!
大きく全身が震えた。体中に熱いものがこみあげてくる。それを見た麻琴が牙を剥く。
「決着をつける場所ができたんだよ。どうだ?」
「おもしろい話やの」
高橋愛は笑みで答えた。