小説「ジブンのみち」

このエントリーをはてなブックマークに追加
313辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU
第9話「枠」

神話がある。
「矢口真里は倒れない」
可笑しな話である。
これが立ち技のみの格闘技ならば話は別だ。「倒れる」=「負ける」だからだ。
しかし矢口真里は柔道家である。柔道にはもちろん寝技がある。
柔道においては「倒れる」=「負ける」ではない。
自ら体を横に倒し、相手を倒す技も存在する。寝技の攻防は試合を大きく左右する。
なのに、なのにだ。
誰も矢口真里が倒れた所を見たことが無い。誰も矢口真里の寝技を見たことが無い。
つまり、世界中の偉大なる柔道家の誰一人として、矢口真里を寝技にまで持ち込めない。
倒れた相手に矢口から寝技に持ち込むこともない。その必要が無いからだ。
その必要が無い=勝負ありということ。一本ということだ。
矢口真里の投げは全て一本。誰にも逃げられない。
「ヤグ嵐」
もはや伝説とまで化したその技の前には、あらゆる柔道家が一本負けを余儀なくされた。
「矢口の前にヤグ嵐は無く、矢口の後にヤグ嵐は無い」
世界中、歴史上の誰一人として、矢口真里以外にヤグ嵐を使える者は存在しない。
そして矢口真里は世界柔道全階級制覇という驚愕の記録を柔道史に刻み込んだ。
人々は神話の様に語り合う。
「矢口真里は倒れない」
矢口真里こそが最強であると。
314辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU :03/12/18 23:30 ID:bMCq+O14
国民栄誉賞授与式の当日。
汗臭い柔道着とは一転、美しいドレスに身を纏った矢口真里の姿があった。
普通ではとてもお目にかかれない各界の首脳が顔を並べ、盛大なる歓迎を催す。
矢口真里は精一杯の笑顔を振りまき、道を進む。
それは今まで経験したこともないくらい豪華な式典だった。
(おいらが国民賞栄誉賞だって、笑っちゃうよな〜)
(ガキの頃から夢見てたっけ…小っちゃいってバカにしてた奴ら投げ飛ばして…
 いつかオリンピックで金メダルとって…そんで国民栄誉賞をとる…)
(夢か…。もうこれで全部叶っちゃったのかな…)
ずっと憧れてきた夢だった。嬉しいはずだった。
なのに何故か矢口の心は空虚に包まれていた。

「さて美貴、行くべさ」
「ったく、かったりぃなぁ。何だってわざわざこんな…」
「ウフフ〜いいから。おもしろいもん見せてあげる」
「まぁどうでもいいけど、巻き添えは御免だぜ」

珍しく正装した安倍なつみと藤本美貴が、式場に姿を見せる。
二人が入場した時間、まさに式のメインイベントが始まろうとしていた。
重々しく矢口真里の名が呼ばれる。
国民栄誉賞の証となるメダルを携えた大臣の元へ、矢口は歩き出す。
(このメダルを貰ったら、終わっちゃうのか…矢口の夢)
(ちびっと寂しいな…他にもなかった?夢ってさ…)
(他に…)
カクン。
315辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU :03/12/18 23:30 ID:bMCq+O14
人々が並ぶ位置からメダルを持つ大臣の位置まで、多く見積もっても4〜5m。
たったそれだけの距離を矢口真里が前に進むだけの時間であった。
出席者には重鎮が多い。警備や護衛は抜かりなく配置されている。
ただ、その動きがあまりに自然―まるで我が家の玄関をくぐる様―であった為、
止める者はおろか反応できた者すらいなかった。
カクン。
子供同士が冗談で後ろから膝を膝で付き、カクンと転ばせる遊びそのまま…
―――――――――――矢口真里が床に膝を付いた。

「神話、く〜ずれた」

無邪気な子供そのままの笑みで安倍なつみがニィっと笑った。

「さすがの矢口さんも、まさかここでこうくるとは思わなかったでしょエヘヘ」

矢口真里は身動き一つせず、正面の何も無い床を見続けている。

「…」
「…!」
「〜〜〜!!!」
「捕まえろ〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」

あっけにとられしばらく呆然としていた警備の者達が、徐々に我を取り戻し叫んだ。
安倍なつみはあっという間に警備と護衛達に取り囲まれた。
騒然とする会場の中でただ一人藤本美貴だけが、苦笑いを噛み潰していた。

「エヘヘじゃねえだろ…ったく」
316辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU :03/12/18 23:35 ID:bMCq+O14
「矢口真里は倒れる!」

安倍なつみが大声で言った。

「もう取り消せないね。報道記者さんも大臣さんまで、み〜んなこの目で見ちゃったから」
「そいつを取り押さえろ!!!」

誰かが叫ぶと護衛の者達が一斉に安倍なつみを取り押さえた。
安倍なつみは抵抗もせず、ただ矢口に向けて言い続けている。
「矢口真里は倒れる!!」と。

なっちに背を向けたまま、矢口はスクッと立ち上がった。
そのまま振り返りもせず大臣の元まで歩み寄る。
事態の混乱に戸惑う大臣に向け、矢口真里は頭を下げた。

「ごめんなさい!まだそれを受け取れなくなりました!!」
「や、矢口さん…」
「夢は終わってなかった」

(なんて単純で、なんてバカバカしくて、なんて気持ちがいい)
(ここまで真正面に喧嘩売られたことなんてあったか)
矢口真里は振り返り、ようやく自分を地に付けた相手の顔を見た。
(不覚にも忘れてた。矢口真里にはもっともっとビックな夢があったしょ!)
317辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU :03/12/18 23:36 ID:bMCq+O14
「皆さん!いいから!いいから!その人を放して!!」

矢口が叫ぶ。護衛の男たちは顔を見合わせ混乱した。
大臣が腕を振り、ようやく彼らは職務を離れた。
中央で安倍なつみはまだ微笑んでいた。

「よぅ」
「はじめまして。矢口真里を倒した安倍なつみです」
「へー!お前があの。噂で聞いたな。格闘技界で最強って呼ばれているって」
「そう、最強だよ」

安倍なつみは平然と答える。
矢口真里の胸の中はもう熱くて熱くて堪らない状況になっていた。

「まあいい。お前が最強でもいい。おいらを倒したことにしてもいい。…今は」
「今だけじゃないべさ。ずっとだよ」
「お前がおいらに倒されるまでね」

矢口真里の気と安倍なつみの気がぶつかる。
それはとんでもない圧力を有していて、もう誰もその空間に入り込めずにいた。

「へ〜え。国民栄誉賞をとるお方がケンカを売ってくれるんだ」
「売ったのはお前だぜ」
「そうかも」
「で、どうしたらいい?どこにいったら安倍なつみと闘える」
「変な質問だね。なっちは目の前にいるよ」
318辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU :03/12/18 23:37 ID:bMCq+O14
空気が変わる。
安倍なつみと矢口真里の間の空気が歪んで渦巻く。

「それ以上、挑発してくれんな。おいら乗りやすいんだ」
「じゃあ乗ればいい」

遮るものはなかった。矢口真里のタカは外れかけた。
それを影が遮った。
誰にも入り込めないと思わせた空間――安部と矢口の間に一人の女が割り込んだ。

「藤本!」
「…」

なっちを背に、現れた藤本美貴は無言で矢口真里を睨んだ。
冷静さを戻した矢口が言った。

「そうだろ。こういう奴がいっぱいいるんだろ。頂点の安倍なつみに辿り着くまでには」

藤本美貴は答えない。安倍なつみは残念そうに頷いてみせた。

「いいぜ。おいら格闘技ではまだ白帯のひよっこみてえなもんだ。
 一番下から昇っていってやるさ。安倍なつみ、お前の喉元に噛みつける場所まで!」

矢口真里の格闘技転向宣言!
この一言が、日本中に吹き荒れる嵐の発端となった。