第7話「ターゲットの名」
南風が春の匂いを誘う。
一人の娘が見事に咲き誇る桜並木道を進んでいた。
その先にそびえ立つ大きな建物「夏美会館空手本部道場」
百を超える門下生が稽古に励む中、その娘はごく普通に門をくぐった。
「安倍なつみに会いたい」
動きやすそうな長袖のシャツとズボンに身を包むその娘は、また普通にそう述べた。
応対した若き門下生が眉をひそめる。
「どの様なご用件でしょうか?」
「ぶっ倒しに来たんだ」
その娘は、また普通に答えた。
だがその声は道場中に響いて聞こえた。百の練習生達が一様に動きを止める。
視線の雨に少しも堪えることなく、その娘は再び口を開いた。
「聞こえなかった?安倍なつみをぶっ倒しに来たって言ったんだよ」
「正気ですか?」
「当たり前だ!早く、吉澤ひとみが来たと伝えろ!」
ボクシング世界王者が吼えた。
夏美会館の門下生にとって「安倍なつみ」は絶対的存在である。
何よりも尊敬し、雲の上のような人物だ。
その名を呼び捨てにし、あまつには「ぶっ倒す」とのたまう。許せるはずがない。
腕に覚えのある師範クラスが数人、吉澤を囲む様に集まってきた。
「なんだぁ?やる気か?」
「やめろっ!」
師範クラスが一斉に動きを止める。
道場の一番奥にいた女だった。
戸田鈴音。全国大会でも常にベスト4、8に残る実力者である。
「お前達では勝てない。私でもな。それも分からないのか」
「戸田さん、しかし…」
「この女の相手ができるとなれば里田か藤本しかいないだろう。
だが二人とも遠征中だ。仕方ない、私が館長に報告してくる。それまで待ってろ」
戸田は吉澤を一瞥すると、上へと続く階段を上がっていった。
そしてすぐに降りてきた。
「館長からのお答えだ。『上がって来い』だそうだ」
「良かったよ。話の分かる人で。あんたも館長さんも」
「勘違いするな。結果次第では、お前を無事に帰すつもりは無い」
戸田の鋭い視線に、吉澤は思わず笑みをこぼした。
最上階には館長室と館長専用の練習場がある。
安倍なつみはその練習場に、吉澤を招き入れた。
ボクシング界の頂点と空手界の頂点が、ここに初めて合間見える。
扉を開けた瞬間、吉澤は尋常ならぬ気をその身に受けた。
思わず構えて前を見る。だがそこにいるのはあどけない笑みを浮かべる女一人だった。
(なるほど…これが安倍なつみか…おもしれぇ)
「ウフフ、よく来てくれたね吉澤さん。なっちも会いたかったよ」
「とぼけるなよ、何しに来たかは分かってるんだろ?」
「なっちと闘いにでしょ。やめといた方がいいよ」
「何だと?」
「ここじゃ貴方に分が悪すぎるよ。だってうちの道場だよ。
貴方が勝っても負けても、五体満足では帰れないことになるからさ。
まぁ勝つことは無いでしょうけど」
一言多い。この絶対的自身と実力の塊が安倍なつみなのだ。
もちろんそんな事で引き下がる吉澤ではない。むしろ闘争心に火がついた。
「上等…」
問答無用!邪魔者はいない!吉澤はなっちに襲い掛かった。
風を裂く右フック。なっちはこれに前受身で反応。
そこへ、世界を制した左ストレートが飛ぶ。
バシィィィィン!!!
安倍なつみの鼻先寸前で、そのストレートは止まった。
正確に言えば止めざる負えなかった。吉澤の首筋になっちの手刀。
もう一歩、吉澤が踏み込めば、首を貫かれていたかもしれない。
「今日はここまでだべさ」
「流石だな。私のストレート、止めることができたのはあんたで二人目だ」
「へぇ、誰よ?」
(んあ〜よっすぃー、危ないよ〜)
吉澤の記憶に、一人の娘の顔が浮かぶ。
「いや、誰でもない。それより続きだ!」
「残念だけどなっちも忙しいの。こう見えても館長だし。まぁ条件次第で続きもいいけど」
「条件?」
「なっちと闘りたいって子は貴方以外にもたくさんいるの。人気者はつらいべ。
その中にちょっと生意気な子がいてね。その子に勝てたら続きしてもいいよ」
「そんな手前勝手な条件、受けると思うか?」
「正月に開いた18歳以下の総合トーナメントがあってね、それの優勝者なの。
柔術やってる子なんだけど」
柔術。その言葉に吉澤の顔色が変わる。
(よっすぃーはボクシングで、後藤は柔術で、一番になろう!)
(おお)
(そしたらさ、次は日本一賭けて決着つけようね)
(あぁ約束だ)
遠い日の約束。誓い合った親友の顔。
だが真希のいない今、柔術で日本一をとった女がいる。
他の奴ならともかく…それだけは黙っていられるはずがない。
(誰を差し置いて柔術日本一を名乗る!)
吉澤は構えを解くと、静かに安倍なつみの顔を睨みつけた。
「そいつの名は?」
安倍なつみは嬉しそうに答えた。
吉澤ひとみの最初のターゲットとなる娘の名を。
「高橋愛」