小説「ジブンのみち」

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203辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU
後藤真希。世間は未だその名を知らぬ。

「つー訳で、おたくらの相手してる暇もあんまりないんだ」

すると吉澤がマスコミ達の視界から消えた。
いや違う。ヘビー級とは思えないステップとフットワークで人ゴミを駆け抜けたのだ。
ときに強引に、ときに鮮やかに、これが世界を制した動き。
あっという間に吉澤は騒がしい空港を駆け出てしまった。
そのまま目指す相手のところまで一足に…

「キャ!」
「うわっ!」

勢いつきすぎたのか、いきなり角から出てきた女性にぶつかってしまった。
誰も止めることができないと思われた吉澤ひとみを、その女性は止めた。

「ご、ごめん、大丈夫?」
「はい、大丈夫です。こちらこそすいませんでした」

その女性を見て、吉澤は思わず目を見開いた。
「きれい」という言葉では表現が物足りないくらい、あまりに美しい女性だった。
血を滲ます格闘技の世界で生きる自分とは、およそ縁が無いであろう。

「じゃ、急いでいるから、ごめん」

何だか恥ずかしくて吉澤は逃げ出す様に、その場を離れた。
204辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU :03/11/09 10:26 ID:bLWfIqHB
ぶつかったその女性は、吉澤ひとみの背中を見えなくなるまで見続けた。
やがて、傍にサイフが落ちているのに気付く。
結構な額のお金とカード類、証明書が入っていた。

「吉澤ひとみ…」

そこに書かれた名を呟く。
やがてハッと我に返り、その女性は立ち上がった。
吉澤ひとみの財布を抱えたまま、通路の脇に身を隠した。
しばらくして黒コートに身を包んだ男達が、探る様な目つきで現れる。

「いたか?」
「いや、向こうにはいません」
「何としても見つけ出せ、いいな」

黒コートの男たちは四方に散らばって言った。

通路の脇で、吉澤とぶつかった女性は安堵の息を吐く。
そして、もう一度その財布をジッと見つめる。
この美しき女性の名、石川梨華。
彼女は後に、再び吉澤ひとみと再会することになる。
悲しすぎる運目と共に…。
205辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU :03/11/09 10:26 ID:bLWfIqHB
一方、財布を落としたことに気付いた吉澤は困り果てていた。

「なんてこったー!ガッデム!」

探しに戻ろうにも、大勢のマスコミを前にそんなの恥ずかしすぎる。
電車代もなく、実家にも後藤家にも行けない。

「どうすっかなー」

しばらく考え、歩いていける距離に一人知り合いがいるのを思い出す。

「あの人かー、ちと苦手だけど仕方ねえか」

考えが決まったら即行動。
1時間かけて歩き、吉澤が辿り着いたその場所「市井流柔術道場」
ここの道場主の女性、市井紗耶香。後藤真希の師である。
事情を話すと、市井は快く吉澤を道場へ招きいれた。

「久しぶりだね。お前と真希が中学卒業してからだから、約4年ぶりか」
「そうっすね」
「しかしチャンピオンになっても、ドジは変わってねえのな。財布落とすかいきなり」
「ほ、ほっといて下さいよ」

UFA王者になっても、この人にはどうも頭が上がらない。
206辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU :03/11/09 10:27 ID:bLWfIqHB
「ところで真希は?どうしてます?」

吉澤がその名を出した途端、市井紗耶香の顔色が変わった。
(そう、さっきから気付いていたんだ…市井さんの…)
後藤真希は幼少の頃からこの市井道場で柔術を学んでいた。
その才能は突出しており、13にして近辺に敵はいなくなっていた。
やがて、同じくボクシングをしていた吉澤と中学で出会い、ライバル関係となる。
師である市井を除き、初めて本気でぶつかり合える相手だった。
それは吉澤にとっても同じ、最高のライバルで最高の親友だ。
中学卒業と共に吉澤はアメリカに渡る。ボクシングの本場で頂点を目指すため。
「戻ったら決着をつけよう!」そう真希と約束した。

「後藤は今、ブラジルにいる」

努めて冷静に、市井は語りはじめた。
吉澤がアメリカにたってすぐの話だ。誘ったのは市井である。
市井自身もブラジルの柔術に興味を覚えていた。自分が通用するか否か?
それに後藤を誘ったのだ。もちろん後藤は喜んで付いていった。

「二人でブラジルに渡ったのさ。そして去年、私だけが日本に帰ってきた」
「それは、どういうことですか?」

質問する吉澤が震え始めていた。
薄々気付き始めていたんだ。もしかしてって、だって…
だって市井さんの腕が…片方しかない。
207辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU :03/11/09 10:37 ID:bLWfIqHB
始めに再会したときから気付いていた。あえて口に出さない様にしていた。
だが、もう吉澤の視線はそこに氷付けになっていた。
4年前は確かに存在した市井紗耶香の腕が、今は片方欠けている。まさか…

「これか、後藤だよ」

吉澤ひとみの背中に冷たいものが駆け抜けた。

「後藤が切り落としたんだよ。だから私だけが帰ってきたんだ」
「…!」
「吉澤、お前後藤と決着付ける為に帰ってきたんだろ。確かにお前は強くなった。
 日本人がボクシング世界王者なんて本当に凄いと思う。尊敬すらするよ。
 だけどやめておけ。後藤真希だけはやめておけ!」

市井は本気でそう訴えかけていた。
吉澤は震えていた。恐怖で全身が包まれていた。拳を強く握る。

「市井さん。それを聞いて私がどう思ったか、わかります?」
「え?」
「実を言うとちょっと心配していたんだ。もし私が強くなりすぎていて、
 真希を物足りなく思ったらどうしようって。だけど、そんな心配無用だった。
 嬉しいんですよ。やっぱり真希はまだ私をこれだけ震えさせてくれるから」

吉澤は震えながら笑っていた。市井は説得がムダだと気付く。
(そうだった…こいつも本物の…バカだった)
208辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU :03/11/09 10:38 ID:bLWfIqHB
「後藤はまだ帰らない」
「いつまでです?」
「半年後、ブラジルでバーリトゥードの大会がある。
 真希はそこで頂点に立って帰ってくると言っていた」
「半年…夏か。よし決めた。それまでに私がこの日本の頂点に立つ!」
「それは、夏美会館やハロープロレスにケンカ売るってことか?」
「元々そのつもりだったし。市井さん、場所教えて」
「場所?何処の?」
「安倍なつみと飯田圭織の居場所」
「そこに行ってどうする?」
「決まってるじゃん!ぶったおすんだよ!」

市井は思わず笑みをこぼした。
なんという無茶苦茶。だけどその勢いがあまりに眩しすぎる。
(私にも昔、こんな時代があったのかな)
(だがこいつなら、本気でやりかねん)
(もしかして…あの後藤を止めることも…)

市井は賭けることにした。この吉澤ひとみならば何かを変えられると。

「あちこち動き回ってる飯田は分からんが、安倍なつみの居場所ならはっきりしている」
「何処!」
「夏美会館本部だよ。ただし何百という道場生も一緒だが」
209辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU :03/11/09 10:39 ID:bLWfIqHB
ハロープロレスに新しいレスラーが加入する。
若干17歳で格闘技は素人同然の娘であった。
ただ一つ異例であったのが、社長の飯田圭織直々の推薦だということ。

若手レスラーの一人、新垣里沙はやや不安気に思ってその娘を見た。
(こないだも推薦で一人入ったばかりなのに、またぁ?)
何のツテもコネもなく、実力のみで入団テストをくぐり抜けてきた新垣が
不信に思うのも無理は無い。それは他のレスラー達にとっても同じ事。
もちろん社長の推薦だから、表立って文句を言う者はいない。
(こないだ入った松浦も凄く特別扱いだし、教育係もソニンさんだし)

ハロープロレスには教育係という制度がある。
新人のレスラーはデビューまで担当となった教育係の指導を受けるのだ。
ソニンというのは、飯田石黒に次ぐハロプロのNo3的存在だ。
それだけで松浦の特別扱いが伺える。
(今度は一体、どなたが教育されるのでしょうね)

「新垣、おい、新垣」
「へ?あ、はい!!」
「ボーっとすんな。お前が教育係だ」
「あーえっ?えっ!えっ!え〜〜〜!!」
「文句あるのか?社長が決めたことだぞ」
「い、いえいえいえ」

新垣里沙は横目に、新人を見た。
210辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU :03/11/09 10:40 ID:bLWfIqHB
「辻希美れす。よろしくお願いなのれす」
「お、おう新垣だ」

小さくてドン臭そうで、なんか舌足らずだ。どう見ても使い物にならない雰囲気。
(推薦だけど期待されてねえのかな?私なんかに教育係させるなんて)
新垣は、少しだけこの娘を不憫に思った。

新垣に挨拶すると、希美は他のレスラー達にも順に挨拶に回る。
石黒やソニンといった上層部から新人に至るまで。一番最後に、松浦亜弥の前に来る。

「辻希美れす。よろしくお願いなのれす」
「うん、よろしく〜」

希美は覚えていなかった。加護亜依の夢を奪ったその人物の名を!
亜弥は知らない。彼女が加護亜依と深い関係を持つという事実を!
挨拶だけ交わすと、希美も亜弥もそれぞれの教育係の元へ戻った。
松浦亜弥。辻希美。二つの巨星がすれ違う!

(あいぼん、ののはここでがんばるのれす!)
(そしていつかきっと、地上最強になってみせるのれす!)
(それまで待っていてね、あいぼん)

辻希美の闘いは始まった。

第六話「亜依の望み、希美の愛」終わり