後藤真希。世間は未だその名を知らぬ。
「つー訳で、おたくらの相手してる暇もあんまりないんだ」
すると吉澤がマスコミ達の視界から消えた。
いや違う。ヘビー級とは思えないステップとフットワークで人ゴミを駆け抜けたのだ。
ときに強引に、ときに鮮やかに、これが世界を制した動き。
あっという間に吉澤は騒がしい空港を駆け出てしまった。
そのまま目指す相手のところまで一足に…
「キャ!」
「うわっ!」
勢いつきすぎたのか、いきなり角から出てきた女性にぶつかってしまった。
誰も止めることができないと思われた吉澤ひとみを、その女性は止めた。
「ご、ごめん、大丈夫?」
「はい、大丈夫です。こちらこそすいませんでした」
その女性を見て、吉澤は思わず目を見開いた。
「きれい」という言葉では表現が物足りないくらい、あまりに美しい女性だった。
血を滲ます格闘技の世界で生きる自分とは、およそ縁が無いであろう。
「じゃ、急いでいるから、ごめん」
何だか恥ずかしくて吉澤は逃げ出す様に、その場を離れた。
ぶつかったその女性は、吉澤ひとみの背中を見えなくなるまで見続けた。
やがて、傍にサイフが落ちているのに気付く。
結構な額のお金とカード類、証明書が入っていた。
「吉澤ひとみ…」
そこに書かれた名を呟く。
やがてハッと我に返り、その女性は立ち上がった。
吉澤ひとみの財布を抱えたまま、通路の脇に身を隠した。
しばらくして黒コートに身を包んだ男達が、探る様な目つきで現れる。
「いたか?」
「いや、向こうにはいません」
「何としても見つけ出せ、いいな」
黒コートの男たちは四方に散らばって言った。
通路の脇で、吉澤とぶつかった女性は安堵の息を吐く。
そして、もう一度その財布をジッと見つめる。
この美しき女性の名、石川梨華。
彼女は後に、再び吉澤ひとみと再会することになる。
悲しすぎる運目と共に…。
一方、財布を落としたことに気付いた吉澤は困り果てていた。
「なんてこったー!ガッデム!」
探しに戻ろうにも、大勢のマスコミを前にそんなの恥ずかしすぎる。
電車代もなく、実家にも後藤家にも行けない。
「どうすっかなー」
しばらく考え、歩いていける距離に一人知り合いがいるのを思い出す。
「あの人かー、ちと苦手だけど仕方ねえか」
考えが決まったら即行動。
1時間かけて歩き、吉澤が辿り着いたその場所「市井流柔術道場」
ここの道場主の女性、市井紗耶香。後藤真希の師である。
事情を話すと、市井は快く吉澤を道場へ招きいれた。
「久しぶりだね。お前と真希が中学卒業してからだから、約4年ぶりか」
「そうっすね」
「しかしチャンピオンになっても、ドジは変わってねえのな。財布落とすかいきなり」
「ほ、ほっといて下さいよ」
UFA王者になっても、この人にはどうも頭が上がらない。
「ところで真希は?どうしてます?」
吉澤がその名を出した途端、市井紗耶香の顔色が変わった。
(そう、さっきから気付いていたんだ…市井さんの…)
後藤真希は幼少の頃からこの市井道場で柔術を学んでいた。
その才能は突出しており、13にして近辺に敵はいなくなっていた。
やがて、同じくボクシングをしていた吉澤と中学で出会い、ライバル関係となる。
師である市井を除き、初めて本気でぶつかり合える相手だった。
それは吉澤にとっても同じ、最高のライバルで最高の親友だ。
中学卒業と共に吉澤はアメリカに渡る。ボクシングの本場で頂点を目指すため。
「戻ったら決着をつけよう!」そう真希と約束した。
「後藤は今、ブラジルにいる」
努めて冷静に、市井は語りはじめた。
吉澤がアメリカにたってすぐの話だ。誘ったのは市井である。
市井自身もブラジルの柔術に興味を覚えていた。自分が通用するか否か?
それに後藤を誘ったのだ。もちろん後藤は喜んで付いていった。
「二人でブラジルに渡ったのさ。そして去年、私だけが日本に帰ってきた」
「それは、どういうことですか?」
質問する吉澤が震え始めていた。
薄々気付き始めていたんだ。もしかしてって、だって…
だって市井さんの腕が…片方しかない。
始めに再会したときから気付いていた。あえて口に出さない様にしていた。
だが、もう吉澤の視線はそこに氷付けになっていた。
4年前は確かに存在した市井紗耶香の腕が、今は片方欠けている。まさか…
「これか、後藤だよ」
吉澤ひとみの背中に冷たいものが駆け抜けた。
「後藤が切り落としたんだよ。だから私だけが帰ってきたんだ」
「…!」
「吉澤、お前後藤と決着付ける為に帰ってきたんだろ。確かにお前は強くなった。
日本人がボクシング世界王者なんて本当に凄いと思う。尊敬すらするよ。
だけどやめておけ。後藤真希だけはやめておけ!」
市井は本気でそう訴えかけていた。
吉澤は震えていた。恐怖で全身が包まれていた。拳を強く握る。
「市井さん。それを聞いて私がどう思ったか、わかります?」
「え?」
「実を言うとちょっと心配していたんだ。もし私が強くなりすぎていて、
真希を物足りなく思ったらどうしようって。だけど、そんな心配無用だった。
嬉しいんですよ。やっぱり真希はまだ私をこれだけ震えさせてくれるから」
吉澤は震えながら笑っていた。市井は説得がムダだと気付く。
(そうだった…こいつも本物の…バカだった)
「後藤はまだ帰らない」
「いつまでです?」
「半年後、ブラジルでバーリトゥードの大会がある。
真希はそこで頂点に立って帰ってくると言っていた」
「半年…夏か。よし決めた。それまでに私がこの日本の頂点に立つ!」
「それは、夏美会館やハロープロレスにケンカ売るってことか?」
「元々そのつもりだったし。市井さん、場所教えて」
「場所?何処の?」
「安倍なつみと飯田圭織の居場所」
「そこに行ってどうする?」
「決まってるじゃん!ぶったおすんだよ!」
市井は思わず笑みをこぼした。
なんという無茶苦茶。だけどその勢いがあまりに眩しすぎる。
(私にも昔、こんな時代があったのかな)
(だがこいつなら、本気でやりかねん)
(もしかして…あの後藤を止めることも…)
市井は賭けることにした。この吉澤ひとみならば何かを変えられると。
「あちこち動き回ってる飯田は分からんが、安倍なつみの居場所ならはっきりしている」
「何処!」
「夏美会館本部だよ。ただし何百という道場生も一緒だが」
ハロープロレスに新しいレスラーが加入する。
若干17歳で格闘技は素人同然の娘であった。
ただ一つ異例であったのが、社長の飯田圭織直々の推薦だということ。
若手レスラーの一人、新垣里沙はやや不安気に思ってその娘を見た。
(こないだも推薦で一人入ったばかりなのに、またぁ?)
何のツテもコネもなく、実力のみで入団テストをくぐり抜けてきた新垣が
不信に思うのも無理は無い。それは他のレスラー達にとっても同じ事。
もちろん社長の推薦だから、表立って文句を言う者はいない。
(こないだ入った松浦も凄く特別扱いだし、教育係もソニンさんだし)
ハロープロレスには教育係という制度がある。
新人のレスラーはデビューまで担当となった教育係の指導を受けるのだ。
ソニンというのは、飯田石黒に次ぐハロプロのNo3的存在だ。
それだけで松浦の特別扱いが伺える。
(今度は一体、どなたが教育されるのでしょうね)
「新垣、おい、新垣」
「へ?あ、はい!!」
「ボーっとすんな。お前が教育係だ」
「あーえっ?えっ!えっ!え〜〜〜!!」
「文句あるのか?社長が決めたことだぞ」
「い、いえいえいえ」
新垣里沙は横目に、新人を見た。
「辻希美れす。よろしくお願いなのれす」
「お、おう新垣だ」
小さくてドン臭そうで、なんか舌足らずだ。どう見ても使い物にならない雰囲気。
(推薦だけど期待されてねえのかな?私なんかに教育係させるなんて)
新垣は、少しだけこの娘を不憫に思った。
新垣に挨拶すると、希美は他のレスラー達にも順に挨拶に回る。
石黒やソニンといった上層部から新人に至るまで。一番最後に、松浦亜弥の前に来る。
「辻希美れす。よろしくお願いなのれす」
「うん、よろしく〜」
希美は覚えていなかった。加護亜依の夢を奪ったその人物の名を!
亜弥は知らない。彼女が加護亜依と深い関係を持つという事実を!
挨拶だけ交わすと、希美も亜弥もそれぞれの教育係の元へ戻った。
松浦亜弥。辻希美。二つの巨星がすれ違う!
(あいぼん、ののはここでがんばるのれす!)
(そしていつかきっと、地上最強になってみせるのれす!)
(それまで待っていてね、あいぼん)
辻希美の闘いは始まった。
第六話「亜依の望み、希美の愛」終わり