延長戦!
安倍なつみの提案に会場はヒートアップする。
紺野は両拳を腰元で握り締め、館長に頭を下げた。力が湧き上がってくる。
愛は初めて間近で安倍なつみという女を知った。
こんな暴挙を何故か納得させてしまう力を秘めている女性。
「安倍さんって結構いい人なんや」
高橋愛の言葉に安倍なつみは満面の笑みをもって応えた。
「フフ…高橋ちゃん」
「はい?」
「紺野に勝ったら、お前をコロす」
他の誰にも聞こえない大きさで安倍は愛にそう囁いた。
頬に一筋の汗が落ちる。目を輝かせたまま愛は言葉を返した。
「それは…なおさら勝ちたくなったわ」
笑顔を少しも崩すことなく、安倍なつみは試合場を降りた。同様に審判達も降りる。
これで完全に邪魔するものはなくなった。
「さぁ決着をつけよう、紺野あさ美」
四角いリングの上、満身創痍の二人は再び向かい合った。
館長の許しを得た。この相手と好きなだけ闘り合っていいのだ。
そのことが限界に来ていた紺野の体に新たな力を湧き起こす。
もうどちらかが倒れるまで誰も止めはしない。
もうこの拳を止めることはない。
勝ちに行く!
逆に疲労が溜まってきたのは、攻め続けていた愛の方であった。
これだけの時間、これほどの相手と、こんな緊迫した闘い、経験が無かった。
延長戦、前へ出たのは紺野あさ美の方だった。
その蹴りが、その突きが、徐々に愛の四肢を蝕んでゆく。
頭では反応しているのに、体がそれに付いて来ない。スタミナが切れかけていた。
(まいったわ、本当にヤバい)
(自分で再戦誘っておいて、このザマはないやろ)
紺野の本当の恐ろしさがここに来て明るみに出た。
揺るがない信念が支える、途切れることなき無尽蔵のスタミナ。
「ハアッ…ハァ…ハッ…フーフー…ハァ…ハア…」
肩で息をし出す愛。もう疲れが目に見えて分かる。しかし紺野は慌てない。
(高橋流柔術。どれだけ疲労しようと、決して過小評価はしません)
(確実に正確に一本ずつ潰す。あなたの可能性を)
じわじわと距離を詰める。無尽蔵の怪物が射程距離に愛を追い込む。
強烈な右の正拳突き。もうかわす余力もない愛は、仕方なく左腕でガードを試みる。
紺野の本気の正拳にガードなど意味はない。想像を絶する衝撃。左腕が死んだ。
一気に形勢逆転。しかし紺野は慌てない。
相手に少しの隙も油断も与えない。完璧に追い込む。
紺野の地を裂く様なロー。愛の右足が衝撃と共に崩れる。
続けざま蹴りと突きの連続攻撃。残された右腕と左足で逃げる。
(あなたは本当に強かった。高橋愛さん)
(延長をしてでも最後まで闘えたこと嬉しく思います)
(でも…もうおしまいです)
(何百万と撃ってきた正拳で、一番最高の拳で…あなたを葬る!)
理想的な構え、理想的な間合い、理想的な流れ。
限界を超えたここにきて究極の空手家像に相応しき輝きを放つ紺野。
「うん」
安倍なつみが思わず頷いた。
紺野あさ美、最高の一撃。パァンという快音と共に愛の体が後方へはじけ飛ぶ。
「ダウーン!!高橋愛!ダウーーーン!!!」
紺野は朦朧としていた。
審判の声。アナウンスの音声。観客の歓声。色んな物が耳を入って出てゆく。
その中で確かに感じる気持ち。最高の試合だった。自分は勝ったんだ。
あの高橋愛に勝ったんだ。今にも叫び出したい衝動に駆られる。
(勝っ…おや?)
異変。目の前で異変。
ダウンした高橋愛が起きようと悶えている。
片腕片足がもう動かないはずだ。最高の一撃を受けたはずだ。
右腕が赤く腫れあがってる。そうか、右腕を犠牲にして致命傷を避けたのか。
両腕をブランとさせたまま、左足一本で高橋愛はヨロヨロ立ち上がった。
何とも形容しがたい表情を浮かべていた。
笑ってもなく、怒ってもなく、苦しんでもなく、冷静でもない。
その顔でじっと紺野のほうを見ていた。
―――――――怖い。
そう思った。背中が急に冷たくなった。
何でだ。もう左腕も右足も右腕も使えない。立つことが精一杯の相手を?何故怖がる?
「…使いたくなかった」
――――――――何を言っている?
「…お前を殺したくなかった」
――――――――だから何を言っている?
(高橋!その状態で!まだ闘るというの?何ができる?もう終わりだ!)
(お前はもう避けることもできない。いいよ、終わらせる。私が!)
まだ誰も高橋流柔術も見てはいない。
遠く戦国の世に生まれ数百年、闇に徹してきた戦闘術。その本性。
手足が残り一本になっても敵を滅ぼす術がある。
とどめを刺す為に突進する紺野。
その瞬間、残り一本の左足で愛は宙に浮いた。そのまま左足を紺野の頭部目掛け放つ。
(大丈夫。問題ない。さっきまでの速さはない。かわせる。かわせば私の勝ちだ)
愛の左愛が紺野の頭部をかすめる。紙一重、それは紙一重の差であった。
(かわせた!ギリギリかわすことができた!)
(勝った!)
…と思った瞬間、何かがアゴを掴んだ。そして目の前が揺らいだ。
紙一重でかわしたはずの左足、その親指と人差し指だ。
紺野には何が起きたのか理解できていない。
二本の指がアゴを掴み、蹴りの速度のままアゴを傾け、脳を揺らす。
そんな常識外れの超技が行われたことなど知るよしも無い。
気合とか根性とか信念とか…そういうものを一掃させてしまう脳神経への一撃。
(なっち館長の為にも…負ける訳には…)
(さぁ続きだ…高橋…)
(私はまだやれ…)
前のめりに、紺野あさ美は崩れ落ちた。
もう着地すらできない愛もそのまま地に落ちた。その足先に確かな勝利の感触を携えて。
安倍なつみの表情から笑みが消えたのを、藤本美貴は見た。
(やっちまったな…)
紺野はピクリとも動かない。愛は唯一動く左足でゆっくり立ち上がった。
その瞬間、激闘の決着を告げるアナウンスが大音量で流れる。
「勝負ありぃ!!!!勝者!!高橋愛!!!」
夏美会館のスタッフ達の手を借り、未だ意識の危うい紺野あさ美は退場してゆく。
高橋愛はたった一人、動かない両手右足をひきずりフラフラと退場してゆく。
そんな両者に観客達の熱い声援がそそがれる。
本物と本物がぶつかりあった、実に素晴らしい勝負であった。
しかし勝者は高橋愛。あの夏美会館に敗北の二文字を与えた娘。
これからの女子格闘技界を間違いなく騒がせるであろうと、誰もが期待を持った。
そんな愛も今はしゃべる力もないくらい疲労しきっていた。片足でフラフラ進む。
最後の力で控え室の扉を開けると愛はそのまま倒れ込んだ。
手も足も、もう動かす力も残っちゃいない。ここまで辿り着けたのも奇跡に近い。
(紺野あさ美…めっちゃ強かったわぁ)
(あ〜つかれた)
そのまま愛は眠りについた。
目を覚ましたとき、予想さえしなかった事態が待つことも知らず。
一方、静まり返った会場は再びざわめき立っていた。
もう一つの準決勝が始まろうとしているのである。
松浦亜弥の控え室を訪れた石黒が、ジョンソン飯田の元へ戻ってきた。
「いい感じでピリピリしてる。愛ちゃんの試合が相当堪えた様だ」
「そうか」
「ちょっとやりすぎちまうかもしれん」
「そのくらいの方がちょうどいいさ」
「フッ、まったく対戦相手の娘が可哀想になってくるよ」
石黒は心からそう思っていた。
ところがその対戦相手である加護亜依は、試合直前であるにも関わらず
のんきに携帯でおしゃべりしているのであった。
「うん。うんそー。これから試合やねん。えっ自分も出場たかったて?もう遅いわ。
でも見とったけど、あんまたいした子えーへんて。あ、もう時間かな、じゃまた後ね」
携帯を切ると、加護は意気揚々と立ち上がった。
赤ちゃんみたいなあどけない笑顔の裏に潜む仮面を、未だ誰も知らず。
準決勝第二試合 加護亜依vs松浦亜弥
始まる。
第四話「高橋愛vs紺野あさ美」終わり