第四話「高橋愛vs紺野あさ美」
準決勝を前にしばしの休憩。安倍なつみは相変わらずニコニコしている。
本当に楽しくて仕方ないといった感じだ。
「さすがにここまでくる子は皆強そうだね」
「そうか?どいつもまだガキ臭えよ」
「美貴はどの子が優勝すると思う?」
「一応立場上、紺野って言わなきゃダメなんだろ」
「本音は?」
「さぁ、ガキの大会にゃ興味ねえってのが本音かな」
夏美会館全国王者である藤本美貴の目には、その先しか見えていない。
最強の二文字、すなわち安倍なつみである。
それを邪魔する奴は飯田圭織であろうが矢口真里であろうが叩き潰すつもりだ。
だから18歳以下のこんな大会は、正直いって藤本にはどうでもよかった。
しかし藤本美貴は知らない。
数年後、ここに残る4人の内の1人と血が血で争う死闘を繰り広げることになる未来を。
「興味ないか。フフ…まぁいいや。それじゃいこうか」
「どこへ?」
「紺野の控え室。激励にね」
「館長自ら?」
「そうよ。試合前の子を呼び出す訳にもいかないでしょ」
紺野は足を肩幅に開き拳を腰に据えると、深呼吸をひとつ吐いた。
先の小川戦のダメージはもうほとんど回復している。
万全に近い状態、いやそれを上回るといった方がいい。
小川麻琴という強者との闘いが、自分の殻を破ってくれた様に思える。
(もう誰と闘っても負ける気がしない)
ノックの音。場違いなくらい明るいなっちの声が聞こえる。紺野は振り返り返事をした。
夏美会館館長安倍なつみ、全国王者の藤本美貴、この両名が控え室に現れた。
「紺野、いよいよ準決勝だね。コンディションはどう?」
「完璧です」
「相手はあの高橋愛だ。あの子にはうちの美海もやられちゃってるからなぁ」
「私は負けません」
「だよね。流石に二連敗もしちゃったら夏美会館も面目無いよ」
紺野は負けられなくなった。
自分が負けるということは夏美会館の…安倍なつみの名を汚すことになる。
それだけはどんなことがあっても許されない、と思っていた。
「絶対に勝ちます!」
「よし!」
大きな瞳が燃える。
頭の中にイメージはできあがっている。高橋愛を叩き潰すイメージ。
安倍なつみと藤本美貴に見送られ、紺野は控え室を後にした。
「ありゃあ、化け物だ」
医務室のベットの上で、麻琴はそう語った。
あの気の強い麻琴にそんなセリフを吐かせるくらい、紺野あさ美は強い。
それを聞いた愛は苦笑いを浮かべた。
「女の子に化け物は失礼やろ」
「色んな奴と喧嘩した。でもあんな一撃は初めてだったよ、大の男も含めてな」
「ん〜、なんとかやってみるわ」
冗談ではない、麻琴の顔は本気だ。
愛は医務室を出た。廊下では亜弥が、壁に寄りかかり待っていた。
「震えてんじゃん」
「武者奮いやって」
「正直うらやましいよ。あんな面白そうな子と闘れるなんて」
「でしょ?」
「愛が負けたら、決勝でやれるからいいけど」
「あーそりゃ無理やわ」
「どして?」
「私勝つから」
愛と亜弥は互いに笑みを浮かべた。とてもこれから戦いの場へ向かう顔には見えない。
ポニーテルを揺らし、愛は廊下を駆け出した。
(さぁ!いくぜぇ!紺野あさ美!)
まず愛が闘技場に駆け上がる。
続いて紺野が静かに闘技場を上がる。
互いに言葉を交わそうとはしない。その瞳で見つめている。
審判の男を除けば、この四角い舞台に二人きり。ゾクゾクする状況だ。
二人ともこれまで圧倒的実力で勝ちあがってきた。
二人とも戦うことに人生を賭けてきた。
そんな二人が今から雌雄を決しようというのである。
開始の合図が鳴る。ついに幕は切って落とされた。
じりっ。
空気が振動の様に愛を襲う。
構えたまま紺野が少しずつ近づいてくる。
その距離が一歩一歩縮まる度、空気が揺れている。
愛は構えたまま、しかし下がりはしなかった。
最初に引いたらずっと引いてしまう気がしたから、下がらないと決めた。
紺野が前に出た。一撃必殺の破壊力を秘めた4つの手足が前に出た。
どれが来るか読めない。どれが来ても危険極まりない。
右のローが来た。一瞬の迷いが判断を鈍らせる。回避しきれない。
なんとか自慢の俊敏さで直撃は避けた、はずなのに重心が揺らぐ。
愛は目を覚ました。
こんなローを未だかつて受けたことがない。
高橋流の道場には空手のチャンプを始め、色んな格闘家が訪れていた。
そのどこにも、これほどのローを持つ相手はいなかった。
麻琴の言った通りだ。
紺野あさ美は化け物だ。
そんな化け物と闘える場所にまで私は辿り着いたんだ!
「愛ちゃんの目つきが変わった。これはおもしろくなってきたぞ」
「どういうことだ石黒」
最前列で観戦するジョンソン飯田とクロエ石黒。
石黒は高橋流の道場に通っていたこともあり、愛の本領を良く心得ていた。
「あの子のスピード、動体視力、反射神経は尋常じゃない。
本気になったらそれこそ触れることさえ困難になる」
「だが相手は安倍の送り込んだ一撃兵器だぞ」
「だからおもしろくなったと言ったんだ。あの空手娘がどうでるか?」
それしか知らないとばかりに紺野は拳を連打する。だが当たらない。
愛は全てを交わす。そして目を疑う速さで背後へ回り込む。
紺野は裏拳で対応。しかし愛はさらに半回転して背後から前へ周り足を掴む。
一気に倒そうと仕掛けたが、紺野は強引にそこへ拳を放つ。
どんな不安定な体勢であろうが、紺野の一撃はそれで必殺となる。
たまらず愛は後方へ飛ぶ。肩で息をしている。全身が汗でベトつく。
一発も受けてはいけないという緊張感がこれ程のものとは思わなかった。
まるで抜き身の刀を相手にしている様だ。たまらなく怖い。
(こんな恐怖をくれたのは二人目やって)
(亜弥のときは途中で止められちゃったけど)
(お前は最後まで付き合ってくれるんやろ、紺野あさ美!)
1R終了のゴングが鳴る。
愛と紺野は同時に動きを止め、互いに睨み合った。
「これからです」
「ああ、これからや」
しばしの休憩、そして2Rの始まり。
また同じ攻防が繰り返される。互いに一瞬の油断も許されぬ激闘。
紺野とて少しでも腕を止めたら、その隙をついてすぐに愛に倒される。
だから止まることはできない。いや元より止まる気はない。
まっすぐでシンプルな、こんな闘い方しかできないのだから。
そしてそれを信じて来たのだから。
2R終了のゴングが鳴る。
合計10分間動き続けた。それでもまだ決着は着かない。
互いに肩で息を吐く。疲労が全身を包む。両サイドに別れ呼吸を整える。
(一発。一発でいいんだ。私の全てをこの拳に託す)
強く拳を握り締め、紺野は立ち上がる。この闘い負けられない。
(楽しい〜いい感じやわ。ノッてきたって、次で決めるよ)
深呼吸して愛は目を開く。音も立てずに立ち上がった。
残り5分。それで決着を着けなければならない。
均衡は3R開始後すぐに破られた。
パァン!
風船が割れた様な見事な音が場内に響き渡った。
愛のハイキックが紺野の頭部を捕らえた音だ。紺野は膝から崩れ落ちた。
紺野が自分の攻撃に気を取られ過ぎたせいもある。
だがそれ以上に愛のスピードが尋常なものではなかったのだ。
果たしてそのハイを見極めれた者が、この会場に何人いたであろうか?
(闘れば闘るほど強くなる。お前はそうだったよな)
亜弥の胸中に恐れと歓喜が渦巻く。果たして自分だったら今のを回避できたか?
実際の所やってみなけりゃ分からない。そしてもう体の疼きが抑えきれない。
「見えたか?石黒」
「見えたよ。だが見えただけだ。反応できたかは分からん」
「フフフ、クロエ石黒にそこまで言わせるか」
「圭織、あんたはどうなんだ?」
「…愚問」
ジョンソン飯田は意味あり気な笑みで壇上に立つ愛を見つめる。
その瞳の冷たさに、十年来の付き合いである石黒すら寒気を感じた程。
一方、VIP室では安倍なつみが静かに舞台を眺めている。
隣で藤本美貴が溜息交じりに言った。
「ありゃあきついな。紺野は見えてなかったぜ」
「そうね。でも紺野は立つよ」
「どうして分かる?」
「なっちと約束したからよ」
「なるほど」
安倍なつみの予言通り、紺野は立ち上がった。
だが効いている。まだ意識がはっきりとしていない。でも構えることはできる。
意識しなくても構えはとれる。一日と欠かすことなく続けてきた構えだ。
目の前の高橋愛という娘を紺野は恐れを持って見返した。
自分と同世代にこれほどの相手がいたのか!
恐ろしく速く、恐ろしく強い。動きがまるで見えなかった。
開始の合図、来た。見えないのだからどうしようもない。まだ攻撃する態勢にない。
ガードを固めるしかできない。とりあえず頭部は守るんだ。
もう一度今のを頭に受けたら立ち上がれない。だが他の場所だったら我慢できる。
殴れ、蹴れ。今はガードしかできない。
残り時間は3分?十分です。それまでに反撃の態勢を作る。
高橋流柔術。闇の武術。確かに凄い。組み技だけじゃない、打撃でも超一流だ。
怖い。震えている。尊敬しますよ。だからこそ勝ちたい。
ガードするだけ、サンドバックみたいに叩かれ放題。みっともない。
みっともなくてもいい、どんなに格好悪くてもいい、最後に勝てればいい。
なるべく左腕でガードしよう、右腕に一撃分の余力を残しておくんだ。
さぁ、もっともっと攻めて来い。私はその時まで待つ。
高橋愛、お前がほんの一瞬でも息をつく時。その瞬間を逃さない。
よし、いい。段々と意識が戻ってきた。もう分数の割り算だってソラで解ける。
攻撃の手が緩んできた。3秒で5撃だったのが4秒で5撃にまで落ちています。
そうだ、彼女だって人間だ。恐れることはない。彼女だって私の一撃を恐れているはずだ。
その証拠に視線がずっと私の右腕を見ている。見ればいい。
外さない。逃げても追って必ずこの拳をその顔にぶち当てる。
もう余計なことを考えるのはよそう。
この拳をあいつの顔にぶち込む。それだけ。
そしてその機会はついに訪れた。
数百にも及ぶ連続攻撃に限界が、愛は大きな呼吸を余儀なくされる。
その瞬間を紺野は逃さない。他の事はもう何も考えちゃいない。打!拳が牙に変わった。
愛の尋常ならぬ反射神経が牙を避ける様に、上半身を後ろへ反らす。
牙は止まらない!前へ!ついに牙が愛の胸を噛み付いた!
…と思った刹那、愛は自ら宙を舞う。圧巻のカウンター。
オーバーヘッドキックの様に後ろへ下がる勢いのまま、向かい来る紺野の顎を蹴り上げた。
(どうや!)
あまりに華麗過ぎる反撃を受けた紺野の顔には、意外にも笑みが張り付いていた。
(…その体勢)
他の事なんて考えちゃいない。自分が反撃を貰ったことなんて少しも考えてない。
彼女の目に映るのは、カウンターを放った為床に腰を落としてしまった相手のみ。
(…その体勢、もう身動きできない。終わりです)
(しまっ…)
反撃したことは失敗と愛が気付いたときには遅い、紺野の牙が目の前に迫っていた。
ビィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!
拳が目の前で止まった。
(何の音?)
愛は思った。愛は考えた。視界に映るのは拳しかない。
(なんでこの拳が目の前で止まってるんや?)
(ああそや、あの音は試合終了のブザー…え?試合終了?)
床に尻餅をついた体勢で愛は辺りを見渡した。
目の前に拳を突き出したまま動きを止める猛者の姿があった。
(まさか…まさか紺野、お前)
あの体勢で、紺野あさ美の正拳突き、受け流せるはずがない。一撃で勝負は付く。
目を疑ったまま愛は立ち上がった。そして叫んだ。
「止めたんか!紺野!お前、何で止めた!」
「…ルールだ」
「なんやそれ。何言ってんやお前」
ブザーとお前の正拳付きは同じタイミングだった。止めなくても気付くもんか。
まして紺野、お前は主催者なっちの夏美会館やろ。誰も文句なんて言うか!
お前が勝ってたんや。どう考えても私が負けてたんや。なのに…。
『3Rで決着が付かなかったので、ただ今から審判員による判定を行います』
ちょっと待ってや。何やそのアナウンス。誰が判定なんて頼んだ?
まだこっちの話は終わってないって、のー。
『3−0で、高橋愛選手の勝利です!』
判定で私の勝ち?いい加減にしてや!みんな、何で拍手とかしてるの?
おい、紺野、どこ行くんや。まさかこのまま退場しようってんじゃないやろの!?
「紺野っ!!」
騒がしい会場で、その愛の声はよく通った。予想外のことに会場が静まる。
紺野あさ美は振り向かず、背中を向けたまま歩みを止めた。
「やるぞ!続き!」
「もうルールで決まった時間は終わりましたよ、高橋さん」
「ルールなんて知らん!関係ないわ!」
「ルールを破ると失格になります。もう大会には出られない」
「ええよ、それでも。紺野あさ美。お前ときっちり決着が付けれるんやったらの!」
その言葉がどんなに嬉しかったか。
どんな素敵な愛の言葉より胸に響く。体中が震えてくる。
だが紺野はその誘いに乗る訳にはいかない。
だって紺野は紺野あさ美である前に、夏美会館の紺野あさ美なのだから…。
館長の主催するトーナメントでその門下生が規律を乱せるはずがない。でも…だけど…
「私も…もっと貴方と闘いたい」
振り返った紺野の瞳が涙に濡れていた。
叶うことの無い望み。精一杯の気持ちを吐き出した。
(何故あのとき拳を止めた?)
自分だって分からない。終了の合図に体が勝手に反応してしまったんだ。
非情になりきれていなかった。本当に相手が憎ければ撃ち抜いたはずだ。
(憎い?そんなはずない。私の胸をこんなに高鳴らせる奴はお前しかいない!)
高橋愛と紺野あさ美は再び向き合った。
二人の気配を察した審判達が間に割って入り、それを阻止する。
「何をしている!もう試合は終わったんだぞ!」
「早く壇上を降りなさい!」
予想外の波乱に会場は騒然となった。力ずくで下ろそうとする男たち。
抵抗する二人。大会の存続さえ危ぶまれたそのとき――――あの女が姿を現した。
「はい、そこまで!」
安倍なつみ、その一声であれだけの騒ぎがピタリと止まった。
なっちは愛と紺野を順番に見渡し、いつもどおりの笑みを浮かべたまま言った。
「高橋ちゃん。闇の真剣武術が勝負に負けちゃあねぇ〜」
「…っ!!」
「紺野。まさか夏美会館代表のあんたが試合で負けないよね〜」
「…押忍」
「こんなイイ喧嘩。他人の判定なんかで勝敗決めちゃもったいないよ」
「しかし、館長…」
「やるか?時間無制限の特別延長戦」
「いいんか?だってルールじゃ…」
「バカ」
安倍なつみは微笑んだ。
「なっちがルールよ」