よしこが野暮ったい鉄の扉のノブをひねると、身体にまとわりつくような、
夏特有の生ぬるくて気持ちの悪い風が、扉の隙間から吹き込んできた。
私はこの湿気を帯びた風の匂いも、肌触りも、全てが嫌いだった。
だからその風を身体に受けると、私は反射的に身震いをした。
そして、ピストルを握る右手にギュッと力を込めた。
――――全力でぶん殴ってやるよ。よしこ。
人を全力でぶん殴るには少しの助走距離がいる。
裕ちゃんのカタキを討つチャンスは、よしこが扉を開けきった瞬間。
その瞬間に、全身全霊全体重をかけて、このピストルでよしこの頭を、
ぶん殴ってやればいい。思いっきり、ぶん殴ってやればいい。
今までの全ての怒りを込めて、ぶん殴ってやればいい。
そうして私は、また右手に力を込める。
だけど、すぐそこまで迫っているはずのチャンスはなかなかやって来なかった。
私の目の前に居るよしこは、ドアのノブに手を掛けた姿勢のまま、
なかなか動こうとせずに、もったいぶった風に髪をかきあげた。
ふぅ、とよしこの軽い溜息が聞こえた。
「ねえ、ごっちん。」
よしこはやっぱりノブを握った姿勢のまま、私に呼びかけた。
思わず私は身を硬くした。その声はなんとなく、あきれの色合いを含んでいた。
「あのさ、私がさ、このドア開けたらさ、」
「そのさ、右手に持ってるさ、銃でさ、」
「私のこと、殴ろうとか思ってない?」
そう言ってよしこが振り返ろうとする前に、私は行動に出た。
今の状況で出来る限りの勢いでもって殴りかかる。
悟られてしまっては仕方が無い。どんな結果に出るにせよ、私は、
裕ちゃんのカタキを、よしこに対する反抗心を、形として示してやりたかった。
ドンッと鈍い音がした。鳩尾に食い込む鈍い痛みがした。一瞬たってから、
喉の奥の方から込み上げてくる激しい吐き気がして、私は、
その吐き気を抑えることが出来なかった。
私の鳩尾に食い込んだよしこの左腕は、そのまま倒れこむ私の身体を、
優しく抱えると、よしこは扉を身体で押し開けて私を外へと連れ出した。
よしこの馬鹿力で殴られた鳩尾は、また痛みをもって胃を刺激して、
私は吐いた。
この吐き気は、このゲームに対する嫌悪感。
そして、この私の胃から吐き出された黄色くてすっぱい液体は、
私と裕ちゃんと、私たち二人の溜りに溜まった涙の代わりに思えた。
「きったないなぁ。もうねぇ、あんまり世話焼かせないで欲しいんだけどねぇ。」
よしこはそう言って、自分の腕に抱えられている私の顔をチラッと見た。
私はカチンと来て、よしこの腕を振り払う。こんなよしこの腕に支えられているのは嫌だった。
このゲームに完全に組み込まれて、私たちを陥れて行くよしこが、嫌だった。
前からそんなことは分かっていたけど、改めて、嫌だと思った。
それでも結局、私は、このよしこに何も示すことが出来なかったんだと思うと、
闇雲に悔しくて、悲しくなった。すると今度は、ちゃんとした涙が出てきた。
涙を流すと、鳩尾が痛んだ。裕ちゃんも泣いているんだ、と思った。
そして、鳩尾を殴られた痛みでふらふらしながら、廊下の手すりに身を預ける。
雨は止む様子も見せずにザーザーと降っている。雨の匂いがする。
悔しい悔しいと思う頭の中に、また、あの疑問が浮かんで来た。
「……ねぇ、よしこ。」
喋ると少し、鳩尾がキリキリと痛んだ。
それでも、どうしても、今、訊かなくちゃいけないと思った。
よしこの方を振り返ると、私には、その時のよしこの顔が、
何故か、ひどく申し訳無さそうに見えた。
「あんたってさ……何なの?」
私に腕を払われてから、よしこは、壁にもたれて俯いていた。
そのよしこの表情は、私に何かを期待させた。
よく分からないけど、私にとって良いことのような、
そんなことを私に期待させているような気がした。
よしこは自嘲的に笑うと、いつもみたいな舐めた返し方はしなかった。
「私はね。……このゲームの参加者の一人、かな?」
私とよしこは降り続ける雨を見つめる。さっきは思わなかったけれど、
この雨の匂いは懐かしい匂いだと思った。
「知りたいんでしょ?このゲームのこと。」
よしこは優しい顔をして、廊下の地べたにベシャっとつぶれるように座ると、
自分の隣を手で叩いて、私もそこに座るように促した。
よしこの瞳を見ると、妙に懐かしい、いつものよしこの人懐っこさが覗いていた。
そして私も、ソコによしこと同じように座った。
昔、女子高生なんかがこうやって街中の地べたに座ってるのを見ると、
当時中学生だった私は、なんかみっともないなぁと思っていたけれど、
背中に伝わる、廊下の壁のひんやりとした温度が、妙に気持ち良かった。
◇
まあ例えば、今の立場から自分の人生の過去を見渡すとさ、
あれは運命だったとか、必然だったとか思うじゃん。
ロマンチックな発想かもしれないけどさ、思い出ってさ、そんなもんじゃん?
まあ、よーするに、人生ゲームはそんな感じな、ゲームなわけよ。
私の言いたいこと分かる?
よーするに、よーするにだよ。
人生ゲームのシナリオは、全部決まってるんだよ。私のも、ごっちんのも。
◇
よしこはなんだか難しい話をした。
私に分かったのは、この人生ゲームのシナリオは、もう決まっていて、
私やよしこはそのシナリオを忠実にたどり、演技しているだけに過ぎない、ということ。
そして、このゲームの黒幕がよしこでは無い、ということだけだった。
すると私の頭の中に、また新たな疑問が生まれた。
「じゃあさ、このゲームの目的は何なのさ?」
不思議だった。決まりきったシナリオをたどるだけのこのゲームに、何の意味があるのか。
私は愚痴るように、よしこにそう訊きながら、思い出してみる。今ままでのことを思い出してみる。
――――人生をかけて遊ぶゲーム
――――このゲームは……新しい人生をすごしてもらうというゲームです。
――――あんたはこの人生ゲームに参加した時点で、こうなる運命だったわけだから。
サヨナラだよ、ごっちん。じゃあね。バイバイ。
――――矢口真里を殺せ。
――――今、目の前にいる人間を殺せ。
分からない。新しい人生を過ごす?運命?サヨナラ?よく分からない。
よしこの行動の意味も、よく分からない紙切れの指示の意味も、分からない。
よしこが私にしたこと、それは果たして意味があるのか?
紙切れの指示、それは果たして意味があるのか?
決まっているシナリオなら、そんなもので私を惑わせて、何の意味があるのか?
よしこは私を殺したかったんじゃないのか?私はこのゲームに何を求めていたのか?
裕ちゃんはどうして、死ななきゃいけなかったのか?
私が死ぬべきじゃなかったのか?それも全部決まってたとでも言うんだろうか?
分からない、疑問符だらけの私の頭に、すっと入り込んでくる声があった。
それはよしこの愉快そうな声。むかつきもするし、安らぎもする、不思議な声。
「目的?じゃあさ、ごっちんは、人生に目的があるとか思ってるわけ?」
その声に引き戻されて、私はよしこの目を見つめた。
よしこは、まっすぐで、ウソイツワリの無い、本当にキレイな目をしていた。
「私はさ、人生は目的を探し続けるものだ、とか偉そうなことは言わないよ。」
「だけど、人生って、楽しければいいと思わない?」
「だからさー、人生ゲームもそうだと思うんだよね。私は。コレ、個人的見解。」
そう言うと、よしこは人差し指をピンと立てて、偉そうに2、3度振ると、
私の顔を見つめて言った。
「私の言ってること分かる?」
「よーするに、楽しければいいんだよ。目的とかじゃなくて。」
よしこはいいさ、自由気ままにやってりゃいいんだから、
私を殺そうとしてみたり、ヤグチさんを殺せとか言ってみたり、
裕ちゃんのことを殺したり、それでもって、その死体を蹴飛ばしたり。
それがよしこにとっては、楽しいんだから、よしこはいいさ。
私はどうだ。私は確かに望んでこのゲームに参加したようなもんだ。
だけど、私はよしことは違う。このゲームに楽しさを見出せなかった。
ヤグチさんを殺した。だけど手が震えた。裕ちゃんを殺そうとした。
だけどダメだった。自殺も出来なかった。そして悩んだ。分からなくなった。
ちっとも楽しいことなんか無い。悩んで悩んで、苦しいばっかりだ。
ヤグチさんを殺したときのことを思い出して、自分自身を嫌いになるばっかりだ。
それに加えて、この一連のシナリオは決まっていた。
私が悩もうと、悩むまいと、この一連のシナリオは決められた通りに、
消化され、演技されていた。なんだこんなゲーム。作り物じゃないか。
現実以上に作りこまれて、私の嫌いな、予定調和じゃないか。ふざけんな。
「でね、ごっちんにはあんまり深く考えて欲しくないんだけど」
「とりあえず、このゲームを滞りなく続けるべきだよ。」
「シナリオは決められてるって聴いて、くだらないとか思うかもしれないけど、」
「それでも、投げちゃダメだよ。」
俯いてブツブツと一人の世界に入ってしまっていた私に、よしこは優しい声で語りかけていた。
私はその時、自分の殻に閉じこもりすぎて、よしこの救いを求めるような視線に、
気がついてやれなかった。よしこは私に語りかけてるようで、自分自身に語りかけていた。
「あーあ、私も疲れちゃったな。」
よしこはそう大きな独り言を言った。
その独り言は、完全に自分の思考に閉じこもってしまった私を、少なからず意識していた。
「私もさ、このゲームが楽しいってわけじゃないんだよね。」
「ごっちんにはそこを分かって欲しかったな。」
「私だって、悩んだんだよ。苦しかったんだよ。」
よしこはもう何を言ってもどうしようもない私に向かって、
もう一度優しい笑顔を向けると、意味深な溜息をついた。
「頑張れよ。ごっちん。」
ガチッ。と、私の隣で、どこかで聴いたことのある音がした。
その音に、少しだけ現実に引き戻された私が隣を振り向くと、
ゲキテツの起こされたピストルを口に差し込んでいるよしこがいた。
よしこは振り向いた私をチラッと見て、ウィンクを一つすると、引き金を引いた。
今までで一番大きな銃声と共に、よしこは廊下の壁に盛大で、真っ赤な花を咲かせた。
私はそれを見て、またしてもやってしまったと思った。また涙が出た。
この涙は、私と裕ちゃん、それとよしこの、3人の涙なんだと思った。
私は涙を拭い、よしこだったモノが握っているピストルをもぎ取ると、
雨の振りつづけている外へと駆け出した。
時間が無い。
私は雨に打たれるのも構わず、水溜りがハネるのも構わず、全力で走った。
早く、あのファミレスに早く行かなくちゃ、間に合わなくなる。
何が間に合わなくなるのか、よく分からなかったけれど、
私はとにかく急がなくちゃいけないと、感覚的に分かった。
今なら、シナリオの決まった人生ゲームの中を生きてきた、
よしこの気持ちが分かる気がした。
こんなに苦しいもんだとは、思わなかったよ。ごめん、よしこ。