裕ちゃんに責められて、現実に責められて、目覚めた良心の叫びは、
いくら自分で耳を塞いでも、脳の奥底まで直接響いてくる。
―――あんな紙切れの文句で自分を誤魔化して正当化するのは嫌だ。
どんなにどんなに塞いでも、自分で耳を塞ぐだけでは、
私から発せられるその叫びは骨にまで響いて、私の脳みそを揺らす。
―――このままあの紙で自分を誤魔化しつづけるより、いっそ、
―――――裕ちゃんに私を殺して欲しい。
―――――――このまま生きていたくない。そうだよね?
この馴れ馴れしい叫びからの逃亡。私一人ではそれも出来ない。
私から発せられる良心の叫びとそれに伴う痛みから逃げるには、何かの手助けが必要だった。
私の良心の叫びを、押さえ込むのではなくて、伝える神経自体を、断ち切ってしまうようなもの、
たとえば、あの紙切れのような、柔らかくて甘い、とてもキモチイイ言葉が必要だった。
良心の叫びが私を傷つけた分だけ、私は快楽を求めた。
―――私はこのままでいい。だって、良心を捨てればいいだけでしょう?
―――――痛みから逃げてしまえばいいだけでしょう?
そこで私の良心は音を立てて折れた。下手に固すぎたせいで折れた。
むちゃくちゃに私を振り回す裕ちゃんの腕を力任せに掴んで、
その眼を睨みつけると、私は目を伏せた。
もちろんあの紙を読むために。
ウザったい良心から解放されるために。
◇
さあ、ここからが本当のゲームのスタートです。
考えてください。感じてください。気をつけてください。
肩の傷はもう大丈夫です。ピストルも弾もOKです。
これからは、誰が、いつ、あなたを狙うかも分かりません。
あなたも、誰を狙っても構いません。
ウザったい奴は殺してしまえばいいんです。
とりあえず、この紙を見終わったら、まず手始めに、
今、目の前にいる人間を殺せ。
◇
その紙切れを読むと、ふいに裕ちゃんが哀れに思えた。
いやそれは、哀れという感情よりも、
足を、いたずらな子供にむしり取られたアリを見ている気分に似ていた。
むしろ、そんなアリの方がかわいそうだとさえ、私には思えた。
裕ちゃんは、今の私にとって、アリ以下の存在だ。
そう結論付けてしまうと、私は途端に愉快になった。
そして、未だに私の力任せな両手につかまれて、
わなわなとふるえている裕ちゃんに、へらへらっとした笑顔を向けた。
これは、裕ちゃんの一番嫌いな行為だ。
昔、こうして怒られたことを未だに覚えている私もすごいが、
あの時の裕ちゃんの怒りようといったらなかった。
今でも、あの時の言葉の抑揚から声色まで鮮明に覚えているぐらいだ。
「あんた!何がおかしいんや!ええ加減にしい!ウチはそういうのが一番嫌いなんや!」
娘。に入りたてだった頃の私は、何かあればいつもへらへらとしてごまかしてきた。
歌の覚えが悪いと言われても、踊りの覚えが悪いと言われても、遅刻するなと言われても、
あの頃の私はいつも、へらへらと笑っていた。感じの悪い子だった。
思えばあれが、あの頃の私の、良心の叫びからの逃げ道だった。
それが裕ちゃんには気に入らなかったらしい。
私はスタジオで歌入れの後、シャワー室に無理矢理連れ込まれて、無茶苦茶に怒鳴られた。
その時、まず最初に裕ちゃんの口をついて出たのが、あの言葉だった。
私は泣きながら、裕ちゃんに謝った。そして、夏先生やつんくさんにも、
マネージャーさんにも、ディレクターさんにも、私に関わった色んな人たちに謝った。
それから、私はへらへらとした笑いを封印した。
その代わりに、私はふにゃっとした、人の心を優しくさせる笑い方を覚えた。
ふにゃっとした笑いは、言ってしまえば、私の良心の最大限の現れだった。
そしてそれらは結局、全て裕ちゃんのお陰だった。
私はへらへらとしながらそこまでを思い返すと、可笑しくてふきだしそうになった。
私の良心を取り戻してくれたはずの裕ちゃんが、今度は私の良心を、
結果的にへし折る形になったからだ。これが笑わないでいられるだろうか。
しかも、それが一年越しの壮大な伏線となって今に繋がっていると考えると、
尚の事、私は笑わざるを得なかった。
そして、へらへらしながらワハハッと大声で笑い出した私に、
裕ちゃんはやっぱり、期待通り、伏線通りの反応をした。
「あんた!何がおかしいんや!ええ加減にしい!ウチはそういうのが一番嫌いなんや!」
私はおかしくておかしくて、また腹の底から笑った。腹筋が筋肉痛になるかと思うほど笑った。
裕ちゃんは、私のそんな様子を見て、顔を真っ赤にして、何か言いたそうに、
ただわなわなとふるえるだけだった。
そのうちに、いい加減笑いも収まった私は、一つ裕ちゃんをおちょくってやろうと考えた。
私は大袈裟に手を叩きながら、またわざとへらへらと笑って言った。
「あははっ、いや〜、裕ちゃん面白いね〜。ていうか、面白すぎ。」
「あぁ?」
裕ちゃんは眉間の間にものすごいしわを寄せたまま、ドスの効いた声で私に迫る。
おお。恐えー。
私は、客観的に、裕ちゃんが恐い、と見つめることが出来た。
私にしては驚くべき格段の進歩だった。
そして私は裕ちゃんの目を見つめると、へらへらと笑って続けた。
「裕ちゃんさぁ、そういう顔やめなよ。せっかくのキレイな顔が台無しだよ?」
「喧嘩、売ってんのか?」
裕ちゃんの言葉は冷たく熱を帯びていた。
その言葉を聴いた私はふざけて「うはぁ、恐いなぁ〜。」と言った。
裕ちゃんが拳を固く握り締めているのが見えた。
私はドキドキしていた。良心が私を突き動かすドキドキではなくて、
ヤグチさんをぶっ殺した時のようなドキドキ。
小学生の頃の、クリスマスの朝を待ち焦がれるドキドキ。
これだけ気丈な裕ちゃんの良心をへし折る。
それを考えるだけで、ドキドキとする胸の鼓動はさらに速くなった。
「ほら、もう。裕ちゃん、笑って笑って。楽しく行こう楽しく!」
「ヤグチさんのことなんて、もう関係無いよ!」
「そんなこと気にするより、今を生きなきゃダメなんだよ!」
私はハイテンションになって、裕ちゃんに熱弁した。
私の人生観を。今の私の心境を。汗を飛ばしながら熱弁した。
だけど、そうして熱弁を奮う私を見つめる裕ちゃんの眼が反抗的だった。
それは私の気にいらなかった。私はへらへらとした笑いを止めて、裕ちゃんに問い掛けた。
「楽しい?」
裕ちゃんは俯いて、固く握り締めた拳を2、3度閉じたり、開いたりすると、
急に顔を上げて、精一杯の毒を込めて、私に言い放った。
「不愉快や。」
カチンと来た。
私は床に転がっていたピストルを素早く拾い上げると、
裕ちゃんの額に押し付けて、引き金に指を掛けた。
今度は、手は、震えなかった。
「楽しいでしょ?」
私は、裕ちゃんの耳元に口を近づけてそう言った。手が震えない代わりに、怒りで唇がふるえた。
まだ言い足りなかったけど、舌がもつれた。そして、その行き場の無い怒りが更に私を駆り立てた。
裕ちゃんの洋服の襟を掴んで、押し倒す。馬乗りになる。
そうした上で、ピストルをグリグリと額に押し付ける。
こうした全てのことが、あまりに容易に行われて、私は内心つまらなくなった。
「ねぇ、どうしたの?裕ちゃん。」
「不愉快なんでしょ?」
「私がヤグチさんを殺したことに、腹立ててるんでしょ?」
「それでもって、私がへらへらいつまでも笑ってるから、ムカつくんでしょ?」
「だったら、もっと抵抗しろって。」
「ムカつくんだったら、キレてみろってば。」
私はそう言いながら、襟首をぐいぐいと締め付け、ピストルで額を打ち付けた。
そうして裕ちゃんの額から流れる赤色の血をみると、少し満足した。
そしてヤグチさんのことを思い出した。
「ヤグチさんを殺した時は、面白かったなぁ。」
「わたし、自分がまさかSっ気があるとは思ってなかったしね。」
「むしろMだと思ってたぐらいなんだけど、」
「ヤグチさんがちぢこまって、私を恐がってるのを見るのは、」
「もうワケわかんないぐらいの快感だったよ。」
私はそこまで話すと、私の手元で顔を真っ赤にしている裕ちゃんを眺めた。
顔が真っ赤なのは、私が首を締め付けていたことだけに起因するのではない。
きっとキレてるんだろう。私はウキウキした。ドキドキした。
ふいに私は自分をひどく客観的に見つめた。前にも、こんな人間を見たことがあった。
それは私じゃない。私は記憶をたどった。外では雨が降っている。ファミレス。
そして、よしこの顔が浮かんだ。
今の私は、あの時のよしこと全く同じだ。
私はヤグチさんのことを話しながら、たぶんニヤニヤしていたんだろう。
私のお母さんと弟を殺した話をするよしこみたいに。
「ねぇ。裕ちゃんだってさ。殺そうと思えばいつでも殺せるんだよ?」
「ヤグチさんみたいに、思いっきりいたぶって、殺してあげたっていいんだよ?」
「やっぱさー、それが嫌ならさー。」
「こう、謝るとか、抵抗するとか、どっちかにしなきゃ、ダメじゃん?」
そこで、私は一息ついて、また一段とへらへらっとした笑顔を作って言った。
最大限の皮肉と、挑発を込めて言った。
「その歳でマグロはかっこわるいよ?裕ちゃん?」