北部で起きたこの惨劇を知らない貴子一行は、目指す市内の一流ホテルに
到着した。今日のところはここで休み、明日ヴィルット博士を訪ねて大学へ
向かうこととなった。
「ミス稲葉、ミス矢口、着きましたよ。ここがあなた達の泊まるホテルです」
「ちょっとウィラポン・・・ここ高いんちゃうの?」
そのホテルは世界的に有名なホテルグループの一つだった。落ち着いた照明に
照らされた建物が夕闇に映え、ロビーでは身支度をきちんと整えたボーイが
宿泊客の荷物を運んでいる。パートナーをバッグに詰め込んで渡航した貴子の
所持金で泊まれるような場所ではないはずなのだが。
「確かに一流ホテルですからそれなりの値段ですけど、あなた達の滞在費用は
タイ王国とベトナム政府が負担します。心配しないで」
「確かに一流ホテルですからそれなりの値段ですけど、あなた達の滞在費用は
タイ王国とベトナム政府が負担します。心配しないで」
なんと貴子と真里の宿泊費用を国費で捻出していると話すウィラポン。気に
するな、とばかりの屈託の無い笑顔を二人に投げかけるが、当の二人にとっては
気にするなというのが無ん理な話かもしれない。
「国がおいらたちのホテル代まで出してくれるって、何か悪くない?」
「まんじ教、いやゼティマは今や東南アジア諸国にとっても許しがたい敵
なんです。ベトナム当局も私達の捜査に協力を惜しまないと言ってくれました」
世界征服をたくらむ巨悪との戦いは日本だけでなかった。彼らの野望のために
今日も世界のどこかで罪無き人々の涙が、そして血が流されているかも知れない。
両国政府は、事の深刻さを受け止めた上でこの得体の知れない敵と戦う、二人の
日本人に協力を申し出たのだろう。
かくして、今宵は二人にとって初めての異国の一夜となった。ウィラポンと
二人してホテルのバーで酔いつぶれてしまった貴子を置いて、真里は一人
プールサイドへと足を運んだ。
夜もすっかり遅くなり、プールサイドには人影もほとんど無かった。係員
がプールサイドパーティの後片付けに追われているほかは、観光客といえば
恐らく真里一人くらいなものだったろう。そんな中、夏の夜の空気に温んだ
プール際を真里はだしで歩く。
「あ〜、せめて旅行かなんかで来たかったなぁ」
一人つぶやく彼女の声に答える者は誰もいない。気がつけば、係員達も片付け
を終えて帰ってしまっている。真里の存在にまったく気がつかなかったのか
プールには彼女一人が残されてしまっていた。見上げれば、澄んだ空に満月が
煌々と輝いている。
「今頃みんなどうしてるだろう・・・」
日本に残してきた〜というより無理やり連れて来られたのでいきさつを話す
機会さえなかったのだが〜仲間達には、どうやら貴子の方から連絡を入れて
いたらしい。そうでなくとも、おそらく梨華の口から一部始終が語られていた
であろうから、そのことについてはさほど心配してはいなかった。ただ、夜の
闇が彼女の寂しさを描き立ててしまうのかもしれない。
と、その時不意にプールサイドに緩やかな風が吹く。夏の風にしては心地よい
適度な冷たさを帯びた風が頬を撫でるのに気づいた真里は、風上の方へと
目を向ける。すると、プールサイドの真里のいるちょうど反対側に誰かが立って
いるのが判った。
「・・・誰?」
風に髪をなびかせて立つ、一人の少女。身に着けている白いワンピースが
うっすらと闇に浮かび、月明かりに照らされたその姿はどこかこの世のもの
とは思えぬ雰囲気をかもし出している。