黒髪石川について

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507辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU
インターホンを押すが応答はない。
ある程度予想はできた。仕事で留守にしているのだろう。
僕は持ってきた手紙をそっと彼女の郵便受けに入れ、マンションを出た。
駅の公衆電話に小銭を入れ、例のメモに記された電話番号に掛ける。
(出なければそれでもいい…だけどもし出たら…)

「はいっ!もしもし!」

予想に反してトメコの声が受話器の向こうから聞こえた。
僕は動揺していた。まさか仕事で出れないと思っていたから。

「君だよね。どうしたの?」
「…どうして僕って?」
「だってこの番号、君にしか教えてないもん。エヘヘ…」

胸がギュッと熱くなる。
(よせ、そんなこと言うなトメコ、僕はこれから…)

「今ね休憩中。明日からのコンサートのリハーサルだよ」
「そう…」
「チケット送ったの届いた?最終日の最前列だよ。絶対見に来てね」
「…ううん、行かない」
「え?」
508辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU :03/07/22 14:40 ID:9vVdRuoo
電話越しだけど、空気の変化が分かった。
機関銃の様に鳴り響いていたトメコの声がピタリと音を止めた。
それを良いことに僕は一気に伝えるべきことを告げた。

「行かないし、もう会うこともない。さよなら…」
「え?何?ちょっと待っ…」
「さよなら」

僕は無造作に受話器を下ろした。
ツーツーツー。
無通音だけが春の空に空しく鳴り響く。もう戻れない。
自宅にも戻らず、僕はそのまま電車を西へと揺られ続けた。
目的地に着く頃にはすっかり日も落ちていた。

「懐かしい…」

去年の春、修学旅行で訪れた町、京都。
ここに僕とトメコが初めて互いの気持ちを結び合った想い出の場所がある。
家族には友達と旅行に行くと伝えてある。
たとえトメコが家に電話しても行き先は分からない。
彼女のマンションに残したあの手紙だけが唯一の手がかりである。
509辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU :03/07/22 14:40 ID:9vVdRuoo
僕とトメコが流されたあの激流も、今はゆるやかな流れを続けている。
ふもとの町から歩いて約30分。
四方を山々に囲まれた小石と砂利の小さな川岸。
こんな何でもない場所だけど、僕にとっては一生忘れることのない場所。
僕は手近な石に腰を下ろした。
(これから三日間、僕はこの場所で彼女を待つ)

それは何とも愚かな発想だった。
トメコは明日から三日間、大事なドームツアーが控えている。
もしもトメコがあの手紙を読んだなら…
もしもトメコがこの場所を覚えていてくれるなら…
もしもトメコが今でもまだ僕のことを愛しているなら…
ここに来てくれる。
全てを捨ててでも僕の為に来てくれる。
自分勝手で、わががまで、本当にどうしようもない発想、だけど…。
僕は他に術を思いつかなかった。

(トメコ…)
510辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU :03/07/22 14:47 ID:9vVdRuoo
初日の朝、僕はふもとの町で購入した安い毛布をかぶり待ち続けた。

「寒い…」

3月中旬の京都、山にはまだ雪の名残がアチコチに見れる。
厚着の服は持ってきていたが、それでもどうやら足りなかったみたいだ。
寒さで痺れた手に息を吹きかけ、また毛布を深く被る。
(こんな場所に、本当にトメコが来ると思うか?)
後悔はしないつもりだったけれど、後悔している自分がいることに気付かされる。
日が昇ると気温も少し上がり、毛布なしでも平気になる。
時間を持て余すように僕は辺りを散策したり、河原に小石を投げたりしていた。
それでも何か物音が聞こえる度にハッとなって振り返る。

「トメコ!」

でも大概それは風で木々が擦れる音だったり、小動物の足音だったりした。
結局トメコは来ないまま、日はまた山の間に落ちる。
(まりあのコンサート始まってる時間だ…)
また毛布を被り、買い置きしていた菓子パンをほおばり思った。
(僕、何やってんだろ…)
511辻っ子のお豆さん ◆Y4nonoCBLU :03/07/22 14:48 ID:9vVdRuoo
夜が来た。暗闇と孤独の世界。
自分以外生者は何者も存在しないのではないかと思わせる世界。
身も心も凍りつきそうな世界。
そんな絶望の中でたった一つ、僕の心を灯すのは彼女の笑顔。
トメコと出会い、トメコと笑い、トメコと泣き、ずっと一緒に居た想い出。

「トメコ…トメコォ…ウッ…ウウ…トメ…オゥウ…」

何度も何度もトメコの名を呼んだ。
次第にそれはすすり声へ変わっていった。
泣きたくなんかないのに、次から次へと涙が溢れ出て止まらない。
眠ることもできず、僕は一晩中苦しみ続けた。
やがてまた日は昇る。二日目の朝。
全身の感覚が麻痺してきている様に思った。
少し温かくなっても昨日みたいに動き回る気がしなかった。
ある事実が僕の心をどうしようもなく縛り付けて離さないんだ。
(一日半待ってもトメコは来なかった。…トメコは来なかった)
(このままあと一日半待ち続けても同じ。来ないんじゃ…)
それでも待つしかできない。ただひたすらに願いながら待ち続ける。
しかしトメコは現れない。さらに孤独な夜の中二日目も終わる。
そして最後の一日、運命の三日目の陽が昇る。