説明を終えてもまだ、あいぼんはその大きな黒目で僕を見つめ続けていた。
内職の手も止まり、唇を噛み締めている。本当に辛そうな…辛そうな表情。
堪った息を吐き出し、あいぼんはようやく口を開いてくれた。
「にぃちゃん、お願いやからその話、姉ちゃんとのんにはせんといて」
「でも…」
「わかってる、わかってるもん。うちらが姉ちゃんの負担になってるって」
「いや、そんなつもりじゃ…」
「でもどんなに辛くても苦しくても、離れ離れはやだよぅ。みんな一緒にいたいねん…」
あいぼんが泣きながら僕にそう訴えかける。
後悔した。こんな話を彼女にしてしまったことを。
僕は彼女が泣き止むまで、ただ黙って傍にいた。
(当たり前だよな。あいぼんはまだ小学生、家族とバラバラなんて辛すぎるよ)
あいぼんの咽び泣く声が、まるで僕を責めている様に聞こえて苦しかった。
(でもどうすれば…どうすればいいんだよ。このままじゃ…)
ヒビだらけの三畳一間、こんな暮らしがいつまでもつものか。僕も泣きたくなってきた。頭をかかえその場にうずくまる。しばらくすると騒がしい足音が聞こえてきた。
「ねいちゃんが!ねいちゃんが倒れたのれす!」
トメコのアパートには電話がないので、病院からのんの学校に電話があったそうだ。
クラブ中ののんが練習を切り上げ、大急ぎでアパートまで駆けつけてきた。
汗と涙と鼻水でグシャグシャの顔でのんは叫んだ。トメコが倒れたと。
そのときの僕の動揺は言葉にできるものではなかった。
未だ意識の戻らず眠り続ける一徹の姿が、トメコにだぶったんだ。
「トメコが!何処に!?」
「病院れす」
僕は無我夢中で走り出した。のんとあいぼんも後に続いて走り出した。
(トメコが…トメコが…倒れた)
(そんな、まさか…トメコまで。お願いだ、お願いだから無事でいてくれ!)
笑ったトメコ、怒ったトメコ、悲しむトメコ、はにかむトメコ、色んなトメコが浮かぶ。
(神様、お願いだからトメコを…トメコを助けて)
喉から心臓が飛び出そうなくらいの勢いで僕は走った。
病院に着くと、僕は辺りを見渡しトメコの行方を捜した。
そうしていると受付のお姉さんが居場所を教えてくれた。お礼を言ってまた急ぐ。
泣きながらのんとあいぼんも後に続く。僕は叫んでいた。
「トメコォ!!」
「フフッ、どうしたのみんな。そんなに慌てて」
憎たらしいくらいあっけらかんとトメコは答えた。
僕達が駆けつけたとき、トメコは長イスに腰掛け点滴を受けている所だった。
のんとあいぼんは顔を涙で濡らしたまま、トメコの腰にしがみついた。
「だって…ハァ…ハァ…倒れたって…ハァ…ハァ」
「もう大げさね。お仕事中にちょっと貧血になっただけよ」
僕はその場に座り込んだ。安心と不安が半々に入り混じっている。
(良かった、とにかくトメコが無事そうで良かった。だけど…)
すると看護婦の保田さんが現れた。いつもより顔つきが険しい。
「大げさじゃないわ。今回はたまたま貧血で済んだだけ」
「え?」
「このままの生活を続けていたら、次は貧血じゃ済まないわよ」
脅しではない。保田さんの声色が本当に危険を予告していた。
それを聞いたトメコの表情が固まる。のんとあいぼんの顔色も青ざめていた。
のんが僕の方を見た。目が合うと彼女は泣きながら僕にしがみ付いてきた。
「にぃちゃん!たすけてくらはい!ねいちゃんをたすけれくらはい!」
「…のん」
「もうやらぁ!ママが死んで、一徹が倒れて、ねいちゃんまでいなくなったら…」
「やめなさい希美!君も気にしなくていいから」
「のんは何でもします。何でも我慢しますから、ねいちゃんを助けてくらはい!」
のんの叫びが胸を打つ。止める姉に逆らってでも彼女は訴え続けた。
僕はふとあいぼいんを見た。彼女は小さく頷いた。
(無理だ…もうこれ以上は)
「保田さん、例の話を…お願いします」
僕は保田さんに頭を下げた。彼女もそれを理解し養子の書類を取り出してきた。
あいぼんは俯いて黙っていた。のんは僕にしがみ付いたまま黙っていた。
トメコだけが、その話をまるで童話を聞くように可笑しそうにして聞いていた。
「え?何を言っているんですかぁ。もう君まで、冗談はやめてよね」
「トメコ。真面目に聞いてくれ。これは冗談でも何でもないんだ」
「だってそうじゃない。希美と亜依が違う家の子になるなんて、そんなの馬鹿げてる」
「石川さん。このまま子供三人で生きていく方が馬鹿げているのよ」
「やだ!嫌だよ!そうでしょ。亜依!希美!」
トメコは同意を求めたが、あいぼんも、のんも、何も答えない。
(わかってる、わかってるもん。うちらが姉ちゃんの負担になってるって)
(のんは何でもします。何でも我慢しますから、ねいちゃんを助けてくらはい!)
僕は知っている。二人だって嫌に決まっているんだ。
だけどこのままだとトメコが死んじゃうからって、必死で堪えているんだ。
「どうして?もう嫌になったの、私の妹でいること…」
トメコのその台詞に、あいぼんとのんがバッと顔を上げる。
(嫌じゃない!そんなはずない!一生姉ちゃんの妹でいたい!)
どんなに、どんなに二人はそう叫びたかったであろうか。
口元を震わせ、目を潤ませ、それでも二人は黙り続けた。
「私がんばるから!もっともっと働いて、もっと広い部屋に住むから!
希美と亜依にもっとおいしいモノ食べさせて、素敵な服買うから!」
「…トメコ」
「だから行かないで、お願いだから、私を置いていかないで…」
「いい加減にしなさい!」
「!!」
「まだ分からないの?あなたが二人を苦しめているのよ!
もしあなたまで倒れたら、残された二人はどうなるか考えたことある?」
訴え続けるトメコを保田さんが叱り付けた。
理屈では分かっているが感情までコントロールできない。トメコは声を上げて泣き出した。
これじゃ話もできそうにない。僕らは彼女を残し部屋を出ることにした。
「にいぃちゃんはねいちゃんに付いていてあげて」
「うちらがいなくなった後、姉ちゃんのこと頼むで」
のんとあいぼんが僕にそう言う。僕はわかったと答える。
「最後の夏休み…れすね」
「姉ちゃんの妹で、おとんの子供で、石川家で最後の。…せやな」
「そうだ!みんなで海へ行こうよ!最後の想い出作りに!」
少しでも皆を元気づけ様と僕がそう提案すると、彼女達はようやく笑みを見せた。
「うん!!行きたい!」
「う〜み〜♪」