第六話「石川家の悲劇」
「あれって、のんじゃない?」
「ほんとね。どうしたのかな?」
修学旅行の帰路、僕とトメコはいつもの橋でのんを見つけた。
両手で膝を抱えて顔をうずめている。何だか様子がおかしい。
声を掛けるとのんはパッと顔を上げた。その顔が涙に濡れていた。
「おねいちゃん!おねいちゃん!」
その狼狽ぶりが尋常でない。
のんはトメコにしがみ付き、声を上げて泣き出した。
何があったのと尋ねても、泣くばかりで分からない。
とりあえずのんを引き連れてトメコの家に向かうことにした。
本当はそこで分かれて帰宅するつもりだった僕も、一緒に向かった。
雑木林を抜け、いつもの古びた木造アパートが見える。特に変わりはない。
トメコはそっと玄関のドアを開けた。誰もいない。するとのんがやっと呟いた。
「病院れす」
「あのぅ私…石川梨華と言います」
「ああ、一徹さんの娘さんね。たった今緊急治療が終わった所ですよ」
「お父さんは!?お父さんは無事なんですか!?」
「とりあえず一命は取り留めたわ。だけど、まだ意識が戻らないから…」
「そんな…」
「471号室、小さなお子さんがずっと付いてる。こっちよ」
アクの強い顔の看護婦さんが、親切に僕達を病室まで案内してくれた。
病室に入った僕は戦慄に身を捕らわれた。
全身に何かしらの医療器具を付けたまま、仰向けに横たわるその姿。
呼吸する為のパイプが口と鼻に、点滴のパイプが腕に、包帯だらけの体。
あらかじめ聞いていなければ、それが誰だかとても分からなかったと思う。
(あの一徹が…?嘘だ…、そんなことある訳…)
とても信じられない。僕は首を振った。つい先日まで煩いくらい元気だったのに。
ベットのそばであいぼんが沈んでいた。
いつも元気でみんなを笑わせてくれるあのあいぼんが、死にそうな顔で固まっていた。
「一徹、起きるのれす。おねいちゃんが帰ってきたれすよー」
のんが父の眠るベットを小さく叩いた。その肩が小刻みに震えている。
トメコがそっと前へ足を進めた。後ろにいる僕からはトメコの表情が見えない。
一体トメコは今どんな顔をしているのか?
見てはいけない気がした。それほどにこれは衝撃的すぎた。
トメコが父の名を呼び続けるのんの肩に手を置く。
「やめて希美」
「なんれれすか!?ねいちゃんも一徹におかえりのあいさつするのれす!」
悲痛な顔でのんは父のベットを揺さぶり続ける。
トメコはのんを抱き、強引に止める。
「お願いだから…やめて、希美」
「いやら!いやら!はやくみんなでおうちに帰るのれす!」
「お願い…」
「やめろ!のん!」
「ねいちゃん、あいぼんまれ…ろうして!うっ、うっ、うわああああああん!!」
「泣くなバカ!泣くなって…グスッ、うちかて、泣き…ウエエエエエエエン」
病室に二人の鳴き声が鳴り響く。トメコはそんな二人をギュッと抱きしめた。
自分だって死ぬほど泣きたいくせに、お姉ちゃんぶって…無理して…。
「悪質なひき逃げです。昨晩遅く、一徹さんは仕事帰りでしょう。
乱暴な運転による人身事故、残念ながら犯人は逃走したまま身元は判明していません。
夜間で人通りも少なかった為、一徹さんはそのまましばらく放置された模様ですね。
偶然通りかかった仕事仲間が救急車を呼び、当病院に運ばれました。
もう少し遅かったら本当に危なかった。それと、これは手術後判明したことですが…。
かなり無理していた様ですね。体のあちこちに不調が見られる。
栄養失調気味でもありました。事故を引き金にそれらが一気に出た様です。
一徹さん、ほとんどお休みをとられてなかったのではないでしょうか?」
淡々と語る医師の言葉に、トメコはひとつずつ頷きを返してゆく。
そういえば僕は、一徹が仕事を休んでいる日を見たことがなかった。
毎日朝早く家を出て、帰ってくるのも本当に夜遅くである。
食事も最低限しかとらず、娘たちに優先して与えていた。
三人の娘の為に自分の体に鞭打って、たった一人で戦っていたのだ。
(気難しくて…いつも怒っていて…本当に娘想いな…頑固親父)
医務室からトメコが出てきた。かなり顔色が悪い。
のんとあいぼんは泣き疲れて病室で眠っている。
僕とトメコは休憩室のベンチに並んで座る。
彼女への励ましの言葉が何一つ思いつかなかった。
「私、学校やめる」
唐突にトメコの口から出た言葉、僕は耳を疑った。
ベンチに座り俯いたままのトメコに僕はそっと聞き返した。
「やめるって…今すぐ?」
「うち貧乏だから、お父さん何にも保険とか入ってなかったんだ」
「えっ!」
「手術代と入院費、これからの生活費とアパート代、のんとあいぼんの教育費」
石川家にはほとんど貯金もない。これまで全て一徹の給料で賄われてきたのだ。
一徹が倒れ、残されたのは中3のトメコと小6の妹二人。
のんとあいぼんはまだ小学生なのだ。
実質トメコの肩にこれらの負担が圧し掛かってきたと言って過言でなかった。
「学校辞めて働くよ」
「そんな…」
「今のアパートも出て、もっと安い所探さないと…」
僕は止めたかった。だけどそんな力も何もないことに気付き、愕然とした。