水泡の中、激流に流されるトメコの姿が見えた。
僕は必死で掻き進みトメコを追った。流れが速く、なかなか思うように進めない。
背中を思い切り岩にぶつけた。痛かった。痛かったけど構ってられない。
「トメコ!」
僕は叫ぶ。きっと声にはなっていない。口を開けると水が入ってくる。
一瞬、流されながらもトメコが僕に気付いた様に見えた。
そうだ、僕はここだ。すぐにいくから待ってろ!
僕は必死で腕を伸ばした。伸ばしながら掻き進む。トメコへ向かって掻き進む。
そのとき目の前に現れた大きな岩の塊!ダメだ。間に合わない!
激流の勢いそのまま僕は巨大な岩に激突した。意識が抜けかける。
全身が壊れてしまいそうだ。いいや壊れたっていい、トメコを助けるんだ!
もう一度腕を伸ばす。届け!消えかけの意識を振り絞り願う。
指先に感触、これだ。もう少し、あともう少し、間に合え!
声にならない声を叫ぶ。薄れ行く意識の中強く願う。最後の気力をその手に集中させる。
触れた。僕の手とトメコの手が触れた。僕はそれを強く握った。
もう離さない。絶対に離さない。激流に逆らう様に僕はその手を引き寄せる。
トメコの腕、トメコの体…流されながら僕は彼女を強く抱きしめた。
そこで意識は深淵へと落ちた。
(熱い…なんだかひどく熱い…)
(息苦しい…胸がつぶれそうだ…やめろ)
(誰かが僕の胸を押し潰そうとしている…吐き出しそうだ…)
(今度は口の中が膨張する…息ができない…やめてくれ…苦しい)
喉から液体が逆流する。僕はたまらずそれを吹き出した。同時に大量の咳が出る。
(頭がボーっとする…一体何が起きているんだ)
(誰だ…?そこにいるのは誰だ…?もうやめてくれ…まだ僕を苦しめるのか?)
その誰かは、また僕の口を塞ごうとする。呼吸が遮断される。しかし…。
(あれ?何だか楽になってきた?胸がすっきりしてきた?何だ…?)
(唇…僕の口を塞いでいたもの…。息ができる?この唇は…)
僕は再び込み上げてきた水を吐き出した。徐々に視界が開けてくる。
目の前にある顔。僕はその顔を見てようやく意識を取り戻した。
(トメコ…)
トメコの泣き顔に一輪の歓喜が咲く。
仰向けになったまま僕はトメコの頬を撫でた。
「ここは天国?」
「違うよぉ…バカ」
生きている。僕は生きている。
正直天国でもどっちでもいいと思った。そこにトメコがいたから。
ゆっくり上半身を起こし、辺りを見渡す。
すぐ足元にあの激流があった。下は小石と砂利の小さな川岸だ。
僕は溜息をついた。
「かっこ悪い、助けに来て助けられるなんて…」
「ううん、君だよ。私を抱えてここまで助けてくれたの」
「嘘…。覚えてない」
「命の恩人だね。本当にかっこよかった」
「命の恩人はトメコだよ、今だって人工呼吸で…」
人工呼吸と自分で口に出し始めて、僕は唇の感触を思い出した。
思わずトメコの濡れた唇に目がいく。視線に気付いてかトメコは唇を手で覆う。
(僕の唇にトメコの唇が…これってもしかして…)
「あー!ショック!せっかくのキスも全然覚えてない!」
「キ、キ、キスじゃないもん!あ、あれは人工呼吸だよ!」
「一緒だろそんなの」
「一緒じゃないよ」
「ファ、ファーストキスだったのに…」
「私も…」
トメコは頬を真っ赤にしていた。きっと僕も同じ顔をしているのだろう。
何故だか、トメコの唇を見るだけで照れてしまう。
僕達はお互い言葉に詰まり、何も言えなくなってしまった。
長いような短いような沈黙の後、トメコがちょっと顔を曇らせて口を開いた。
「ショックだよね。初めてのキスが…藤本さんじゃなくて、私なんかで」
「な、何いってんだよ!そんなことない!」
「いいんだよ、無理しなくても。私だって藤本さんとっても素敵だと思うし」
「…」
「私なんか、寒くて、変な声で、貧乏で、センス悪くて、キショクて…」
「…」
「修学旅行来なきゃよかったね私。君と藤本さんの邪魔をしただけだったよ」
僕は腹が立った。
藤本さんに告白され、困った振りしていい気になっていた自分に腹が立った。
他の女子と温泉で騒いでいた自分に腹が立った。
トメコをこんな悲しい気持ちにさせていた自分に腹が立った。
「トメコ」
「え?」
トメコの細い肩を掴むと、僕は半ば強引に彼女の唇を奪った。
一秒もない、ちょっと触れただけのキス。
だけどそれはきっと一生忘れることのできない…。
トメコは目を見開いたまま固まっていた。僕は彼女の肩を両腕で掴んだまま笑って見せた。
「よーし、今度こそファーストキスだ」
「…どうして?」
「寒くても、キショクても、僕が好きなのはトメコだから」
トメコは俯いて口をパクパクさせた。
きっとどんな顔していいのかわからないんだ。
僕だって胸がバクバクしている。ついに言っちゃった。
顔を上げたトメコは顔を真っ赤にしながら口を尖らせていた。
「…ひどいよ。私のことキショイって思ってたの?」
「自分で言ったんじゃん」
「私はいいの!…自分だから。でも君はひどい!」
「嫌いになった?」
「バカ、ならないよ。好きだもん。ずっとずっと好きだもん!」
押さえ込んでいた気持ちが一気に弾け飛んだ。
真っ暗な山奥、何もない小さな川原、ビショビショに濡れた僕等。
僕はトメコを抱きしめた。トメコも僕を抱きしめる。
「修学旅行、来て良かった?」
「うん」
僕の腕の中でトメコは笑った。
それはこの修学旅行でようやく見ることのできたトメコの笑顔。
世界で一番かわいい笑顔だ。
「こんな川原が、想い出の場所になっちゃったなぁ」
「そうだね、忘れられない場所…」
両脇を山々に囲まれた、誰も訪れない様な辺ぴな所。
だけど、僕等の思い出の場所。
もし二人すれ違うことがあったとしても、きっとここに来れば今の気持ちが戻るはず。
またいつかトメコと二人でここに来たい。そう思った。
それから僕等は川に沿って山を下り、しばらくして救助隊の声が聞こえた。
圭織達はすでに助かっていて、僕とトメコの姿を見て泣いて喜んでくれた。
それが何だかとても嬉しかった。六人で、先生や他の生徒が待つ宿に帰った。
「裕ちゃん、どんな顔してるかねぇ」
「鬼の形相で怒ってるんじゃない?覚悟した方がいいよ」
「案外ボロボロに泣いてたりして」
ところが実際はそのどれでもなかった。
中澤先生は僕らの顔を見てもずっと悲痛な表情を浮かべ続けていた。
心から心配している親の顔だった。そして六人を順番にギュッと抱きしめた。
なんだかとても嬉しくて申し訳なくて、さっきまでの出来事が怖くなってきた。
不覚にも泣いてしまった。でもそれは僕だけでなく6人全員が子供みたいに泣いていた。
帰ってきたんだって、助かったんだって、思った。
これが修学旅行最後の夜。色んなことがあったけど、今思うと素敵な旅行だった。
でも翌日、帰宅した僕達に最悪の知らせが待ち受けているとは、
この時はまだ何も知らなかったんだ…。
第五話「修学旅行 後編」終わり