第五話「修学旅行 後編」
「ダメー!おいらもう歩けない〜!」
「さっきからうるさいんだけど。じゃあそこで一人座ってれば?」
「なんだとー!」
「二人とも!こんなときにまで喧嘩しないで!」
「…おなかすいたべさ」
矢口さんと藤本さんの喧嘩を止めた圭織が、不安気な顔で僕を見る。
草木を掻き分けて先頭を進む僕は、一旦立ち止まり皆の顔を見渡した。
圭織も矢口さんも藤本さんも安倍さんも、一様に疲れと不安に苛まされた顔をしている。
一番後ろにトメコ。トメコはまだ一言も口を開いていない。
修学旅行が始まってから、僕はまだ一度もトメコの笑顔を見ていない。
「もう少しがんばろう。暗くなる前にせめて安全な所まで行かないと」
僕はそう言って、また前を向いた。
自分で言いながら、本当にそんな所に辿り着けるか不安で仕方ない。
行けども行けども視界に映るのは草と木のラビリンスのみ。
僕達は遭難していた。
修学旅行初日、大阪の夜は今思い返しても最悪だった。
藤本さんを残し廊下に出た僕は、トメコの誤解を解こうと必死で弁解した。
「うん、わかってるから」って、ちっともわかってない顔でトメコは答えた。
トメコと藤本さんと僕、気まずい空気での就寝。
二日目は奈良、クラス単位の団体行動。
僕は二人を避ける様に、男友達連中とわざと騒いで回った。
だけどちっとも気持ちは晴れない。
そして夜はやはりあの微妙な空気。
三日目は京都、例の三人一組でのグループ行動が予定されていた。
何とかしなければと思い、僕は幼馴染の圭織に相談を持ちかける。
もちろん三角関係のゴタゴタした話までは語らなかったが。
すると圭織も、安倍さん矢口さんと三人だけの行動に不安を覚えていたらしい。
じゃあ一緒に行こうよと、トントン拍子に話は進んだ。
しかし僕は焦るあまり重要なことを忘れていた。
藤本さんと矢口さんが犬猿の仲だということ。
そしてこのことが、まさに遭難のきっかけとなったのだ。
「痛〜っい!ちょっとぉ、ぶつかったんだけど、謝りなさいよ!」
「ごめん。ちっちゃくて見えなかった」
「何だとコラァ!なによその態度は!」
「本当のこと言っただけなんだけど」
地図を見ながら、各チーム京都の山寺を回るという企画。
僕と圭織と安倍さんが無理やり会話を繋ぎ、そこまでは何とか持ちこたえた。
事件が起きたのは、かなり山奥の細い細い獣道に差し掛かったとき。
藤本さんの腕が矢口さんの腰に当たったことが発端だ。
気がつくと二人はとっくみ合いになっていた。
細く足場の悪い獣道。僕らが止める前に藤本さんが足を踏み外した。
「きゃー!!」
藤本さんと矢口さんはもつれあったまま、山の斜面を転げ落ちた。
驚きと焦りに顔を見合わせた後、僕らは大急ぎで坂を下り二人を追った。
藪の中に二人はうずくまっていた。
ゆるやかな斜面だったこともあり、二人は幸い大きな怪我もなく、すり傷程度で済んだ。
ただ矢口さんが若干足首を捻り、少し痛むと述べる。
失敗だったのは、焦ったあまり全員が斜面を降りてきてしまったことだった。
「矢口の足もあるし、ここから戻るのは無理そうね」
「ちょっと行って、道に戻れそうな所を捜そうか?」
「それがいいべ。ほら、真里立てる?」
このときはまだ誰も、帰れなくなる心配なんてしてなかったんだ。
実際、道はまだ上に見えていたし、陽は明るかったから。
少し進めばまたさっきの道に戻れるって、誰もがそう思っていた。
ところが、進めど進めど上に行けそうな場所が見つからない。
それどころかさっきまで見えていた道も、もう見えなくなっていた。
「多分、逆だ。戻ろう」
「そうね」
僕達は来た道を戻ることにした。
少しずつ、皆の顔に不安の色が現れ始めていた。
「おかしいね、もうそろそろさっきの所じゃない?」
「うん、結構歩いたから道が見えてきてもいいはずだけど」
圭織の問いに答えた僕も、薄々気付き始めていた。
同じ様な景色の続く山中だ。戻っていたつもりが全然違う方へ進んでいたのかもしれない。
陽が暮れかけてきた。遭難してからもう3時間以上過ぎている。
午後5時にバスの待つ駐車場に集合のはずが、もう午後6時を回っている。
先生達心配して救助依頼を出しているかもしれない。
みんなの疲労と、精神状態も限界に近づいてきていた。
苛立つ矢口さんと藤本さん、お腹を抱え嘆く安倍さん、黙り込むトメコ。
リーダーシップを持って皆を励ます圭織がいてくれたおかげで、かなり助かっている。
だけどその圭織も段々と口数が減っている。重いムードが漂う。
何となくみんなの期待を背中に感じる。僕が何とかしなければ!
そんな気持ちで、先頭に立ち前へ前へと草木を掻き分けているのだが…。
「待って、何か聞こえたよ」
今までずっと黙っていたトメコが、一番後ろから口を開いた。
僕達は一斉に足を止め、その何かに耳を傾ける。
「水の音…みたい」
「水?じゃあ川かな?川があれば目印になる!行こう!」
川は確実に下へ向かって流れる。
沿って進めば、当てもなく迷ってグルグル同じ所をさ迷わずに済む。
僕達は水の音が聞こえた方角へ足を速めた。
「なんか暑くない?」
「うん、なっちも思った」
矢口さんと安倍さんが言う様に、近づくにつれ気温が増している気がする。
いやもう気のせいじゃない。うっすら湯気が見えている。
辺りの景色もゴツゴツした大きな岩が目立ってきた。
これは川じゃない。岩の向こうに見えたのは小さな池。いや、池というよりこれは…
「温泉だぁ!」
誰かが声を張り上げた。
砂漠の中にオアシス見つけたみたいに、みんなの顔が綻んでいる。
トメコや藤本さんまで笑顔を浮かべている。
(こんな状況で温泉みつけても…)
僕一人だけが冷静に思考を巡らしている。
だが次の瞬間、そんな冷静さを一発で吹き飛ばす台詞が、矢口さんの口から飛び出た。
「入ろうぜぃ!」
どうかしている。
そりゃヒト気はないけど、男の人に見られたら?僕だって…
いやそれ以前に僕達は今遭難しているんだ。
遭難者がのんびり温泉につかるなんて聞いたこともない。
なのに誰も矢口さんの意見に反対しない、圭織も藤本さんさえも。
そりゃ疲れて汗だくだから、温泉でリラックスしたいってのは分かるけど。
それにしたって非常識すぎる。考えられない。
こんな状況のせいで、きっとみんな精神状態がおかしくなっているんだ。
落ち着け。僕だけでも冷静でいなければ…。お、おちけつ…。
「ぼ、僕は向こうで見張ってるから」
すでに矢口さんと安倍さんは服を脱ぎ出している。
僕は適当に理由をつけて、その場から逃げ出そうと思った。
しかし駆け出そうとした所を、藤本さんに捕まえられてしまった。
「なんで?入ろうよ」
「そうそう、何照れてんの?昔はよく一緒に入ったじゃない」
藤本さん!それに圭織まで。一体何を言っているんだ。
『一緒に入った』というフレーズで、トメコがチラリとこっちに視線を送った。
違う!トメコ!それは幼稚園の頃の話…。
「いやっほ〜い!一番のりぃ!」
「あー真里、ずるいべさ」
みんなリュックにタオルを持っているので、それ一枚持って飛び出している。
クラスのアイドル、安倍さんと矢口さんの裸が一瞬視界に入った。
岩を一つ隔てた先で圭織と藤本さんが着ているモノを脱いでいる。
さらに向こうでは、トメコも脱いでいる。
嗚呼、気がつけば僕も何故か服を脱ぎかけている。
やっぱりダメだ。断るんだ。絶対に間違っている。まだ間に合う、断れ!
「まだぁ〜?遅いよ」
「おいらの温泉に入れねえってのぉかぁ?」
(二人喧嘩してたんじゃないの?何で息が合ってるんだよ。ていうか矢口さんの温泉?)
気がつくと、僕以外の五人はもう温泉でくつろいでいる。
当たり前のことだが、みんな裸だ。申し訳程度にタオルを一枚添えているだけ。
矢口さんに至ってはそれすらなしで、はしゃぎまわっている。
僕はリュックからタオルを取り出すと、目をつぶって岩陰から飛び出した。
タオルで前を隠しながら、勢いよく温泉に飛び込んだ。
覚悟は決めた。ああ、もうどうにでもなれ!